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変な人と呼ばれて③ーこだわりからの脱却

 小さい時は、喘息様気管支炎とやらで、ほとんど家から出ず、運動はできないし、やらないヒトでした。
 というか、できないから運動しないのか、運動しないからできないのか、今となってはよく分からないのですが、逆上がりもダメでしたし、球技はからっきしダメでした。
 
 そういえば、そもそもルールを知りませんでした。バレーボールは自宅近くで友達と決めてするローカルルールだったので、体育の先生から「TVで見たことないのか⁈」と驚かれましたが、チャンネル権は妹と両親にありましたし、バレーボールがテレビ放映されていることすら知りませんでした。
 野球のルールも、中学生のときに好きな子が昼休みに草野球をしているのを見るようになるまで、全く知りませんでした。それというのも、後から考えれば、うちは母が巨人ファンで父が阪神ファンでしたので、野球の話はタブーだったのです。だから、私はプロ野球の観戦に行ったことがありません。
 環境というのも、こだわりの因子としては大きいように思います。
 絵を描いたり観たりするのは、そういう環境にあったからですし、本を読むのもそうでした。

 何にせよ、ひどい喘息が出なくなってもまだ熱の出やすかった私に、中学の友人達が「そんなものは、遊んだら治る」と言って、ほぼ無理やり私を引っ張って、グラウンドに連れて行き、バレーボールをしたり、雨の日は廊下で軟球でテンチョと呼ばれるボール遊びをしたりするようになりました。
 実際、それでほぼ熱は出なくなりました。

 しかし、相手がいなければ、『ワタシは○○しないヒト』という考え方は、変わっていませんでした。

 当時は『ワタシは○○しない』と決めていたことがたくさんあり、仮に友人たちなどや周囲の影響で何か始めたとしても、あまり長続きしませんでした。

 20代後半で、サッカー部の観戦に呼ばれて、そのまま顧問をしたり、女子サッカーのクラブを立ち上げて欲しいと言われて、一緒に活動したりもしましたが、仕事だったからできた、という部分は大きかったと思います。

 サッカーは、病気になったので40歳ごろに貧血がひどくて顧問もボールを蹴るのもやめましたが、結構好きでした。

 その後、その病気の手術をした時、麻酔から覚める前に、花畑で友人のオールスターキャスト(小学校から大学までの友人たち)と一緒に遊ぶ夢を見て、そこでしきりに私を呼ぶ声がして『うるさいなぁ、今、良いところなのに』と思いましたが、あまり呼ばれるので「はい」と言って目を開けると、すぐ上に手術用のライトが眩しく、声を掛けてきたのが看護師さんだとわかりました。
 それ以来、何か突き抜けたようになって、やりたいことがあるなら、私は○○しないヒト、なんてつまらないことをいわずに、計画して実行しよう、と思いました。

 で、実際、実行してきたのですが、若干、タガが外れ過ぎたと思わなくはありません。

 その話は、また後日。

 

 

 

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