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教職志望の方へーある韓国語の先生の思い出

 大阪には、韓国語の先生がいる高校があります。調べたことはないのですが、大阪市内なら大体配置されて、どの高校にもいらっしゃるんじゃないでしょうか。これは歴史的経緯により、いわゆるオールドカマーが大阪には大勢住んでいるからです。
 今はもういない、懐かしいCさんの思い出を語ります。

 Cさんに初めて会ったのが、いつだったか忘れましたが、小柄でコロコロと笑う、優しいけれど、きちんと教える厳しい語学の先生でした。
 一度だけ授業を見学しました。とても教えるのが上手で、私も習いたいなと思うぐらいでした。
 生徒たちが職員室に来て挨拶するので、幾つか覚えました。アンニョン、アンニョンハセヨ、アンニョンハシムニカ、ソンセンニム。アンニョンヒガセヨ。アンニョンヒゲセヨ。彼女に教わった生徒たちは、2回スピーチコンクールで優勝しました。
 彼女自身は在日3世で、日本語で育ったそうですが、大学で韓国語を勉強したと言っていました。
 趣味はポジャギ作りで、生地を集めていると言っていました。
 
 息子さんがまだ小さくて、少し変わった子だから、と言って、学童保育だけではムリで、ご主人も教員で全日制に移る予定だったのに、二人とも定時制になってしまい、息子さんが小学校に上がるタイミングで、ナニーを探していました。
 ナニーの面接をするんだと言って、なかなか良い人が見つからない、と言っていました。ご主人については、(私はよくは知らなかったのですが、著名な人らしく)とても尊敬しているから、自分が犠牲になっても、思う通りに生きてほしいと思っているんです、と私より若かったのに、古風な人でした。
 
 生野の一戸建てを買った頃から、引越しやナニーやお子さんの私立小学校の件でやたら忙しそうにしていて、あまり眠っていない、と聞いていました。定時制だと終業が夜9時20分で、クラブなどあれば10時半終わりです。教えると頭がフル回転して興奮しているので、帰ってからすぐには眠れないのです。定時制の教員は食事と睡眠のタイミングに試行錯誤しており、大抵は帰ってからお酒かお茶を飲み、入浴してから眠るので午前1〜2時就寝が普通のようでした。たまに午前0時就寝という強者もいましたが、それは終業が午後9時5分だった頃の話でした。
 おまけに彼女は、小学校入学後のお子さんのお弁当のために早起きしていました。たぶん睡眠は3時間を切っていたと思います。

 ある時、私の先輩の養護教諭が、Cさんのことで話しておきたい、と言いました。「かくかくしかじか(匂いがするとか光が見えるとか)の症状を訴えるので、検査を勧めたら、大阪市立大学附属病院で入院手術することになったから」と言われました。

 手術は成功し、彼女は戻ってきました。「歩けなくなる、と言われていたのに翌日からスタスタと歩けたのよ❗️」と言って、とても元気で、一見すっかり元通りなのですが、短期記憶がダメになってしまったということでした。
 以前は自信に満ちて独立独歩というタイプだったのに、不安なのか、私と同じ分掌に入り、一緒に組みたがりました。私は教務にいて、教科書や教科書給与、そしてその年から住所録の担当になりましたので、住所録を一緒に担当することになりました。
 住所録は急ぎではありません。5月の連休中に引越しする生徒保護者が多く、入学時や4月の住所だと作り直しになるからです。それに対して、教科書の仕事は3月から4月の仕事です。私はCさんに連休明けまで待って、と言いました。
 しかし、彼女は全く待てず、矢のような催促で、4月中にとりあえず一人でもできるように去年のファイルから、二年生以上のをコピーして、これを加工するように頼みました。
 つまり、二年生以上の新個票(クラス別名表)が3月に出来ているので、それで住所を並べ替えて、入試係の作った新一年の住所録を最初に入れて、後は、各担任に生徒住所の確認と教職員自身の住所を確認をしてもらえば、終わりです。
 しかし、彼女がいつまでもいつまでも入力しているので、変だと思ったら、旧の住所録とコピーの住所録、もう一つコピーの住所録を作っていて、そのそれぞれの上に、担任からもらった手書き名簿を元に、氏名と住所を打ち込んで、上書きしていたのでした。
 
 ファイル三つに上書きをしていて、オリジナルの去年の住所録は半分破壊されていました。彼女はよほど焦っていたらしく、それぞれのファイルの更新時刻は午前2時半などとありました。成績処理パソコンは当時、基本スタンドアローンで、学校は午後10時半〜11時で閉めます。名簿は部外秘なので本来ならUSBメモリは不可なのですが、USBで持ち帰っていたようでした。

 教務主任がバックアップのハードディスクを出してきましたが、ウィルスにやられていて立ち上がりませんでした。
 
 仕方なく、あちこちに相談し、残ったデータや保健室のファイルなどを元に復元しましたが、Cさんの未完の住所録と復元住所録の2部できてしまいました。
 
 Cさんは、どこかでその2種類の名簿を見てしまい、管理職の元へ差別事象だとして訴えました。これは、管理職とミスター今工と呼ばれたT先生で説得し、なだめたということでした。

 しばらくしてCさんは、自分のしたことを理解し、謝ってくれました。そして翌年は教務から離れました。
 私が転勤する前に、彼女は、「韓国宮廷料理を一緒に食べに行きましょう❗️とっても美味しいんですよ❗️」と言っていました。
 しかし彼女は、病気が再発して再入院し、退院した後は、ずっと休職していました。
 
 どうやって亡くなったのかは知りません。ただ、管理職が訪問して、休職をやめて復職するかどうか、聞きに行った後に亡くなりました。実際のところ、彼女はもう教職に復帰できない状態だったということでした。

 再発した時、私は転勤していたため、私の中の彼女の最後の記憶は、「一緒に韓国宮廷料理を食べに行きましょうね」と言った笑顔です。

 その話をある同僚にしたら、その同僚が韓国宮廷料理を食べに連れて行って下さいました。その人は、私よりずっと年下だったCさんと違って、日本人で少しお姉さんです。
 その会食もちょっと事情があったのですが、それは当分書けないことです。

サポートよろしくお願いします。また本を出します〜📚