見出し画像

募集&採用要項

エッセイとは何かという質問をされた。
私は同年代の子と比べても本を読む方ではあるし、色々なことを言語化しやすいと思うが、ほんの少しだけ閉口してしまった。

しかし思った。

エッセイとは、人に読ませることを前提とした日記ではないかと。

日記を書くことで精神状態が向上するというのはきちんとエビデンスのある事実だ。

だから私は、こうして今日もエッセイを書くし、朝は日光を浴びるし、ストレッチをして、ベットメイキングをする。
そんな日常のちょっとした工夫や頭の中に溢れる言葉たちを書いて、自分の頭の中を見てもらう。
人の頭の中を見ること、人に頭の中を見せることができるのが、エッセイであると私は思う。

純文学も似たようなところがあるのではないだろうか。

自分の好きなことを好き勝手にありのまま描く。
こうしたいとかああしたいとか、人に聞いてもらうにはあまりに自分勝手で、滑稽な数々のことを、書き連ねるのだ。
(江戸川乱歩も谷崎潤一郎も自分の願望しか書いていないし、泉鏡花は自分の頭の中を見せたくて仕方がない人だと思っている。)

創作をするときに、私は私と正反対の人を描きたい。
それは正反対の人への憧れと、自分からの逃避だ。

それもまた、純文学だと思う。
飽き性な私は長編の作品は書けなくて、なかなか作家としての才能はなさそうだが、文章を読むとどうしても書きたくなる。

頭の中にいる私は、色々なことを始終語っている。
コンセントのある、安くて居心地がいいカフェを見つけたときに、ここでどのようなことを思ったのかを、ちょっとかっこいい言葉を見つけて、ここを表すのにちょうどいい表現を見つけて、話し続ける。

「毎日美味しいパンを」だって。
毎日なんてすごい。だってそれは日常に割り込もうとしている。
人の日常の一部になろうというキャッチコピーを思いついたのはどんな人なんだろう。

きっと美味しいものを毎日食べて欲しい誰かがいたんだろうな。
もしかしたら美味しいパンと一緒に毎日会いたい人がいるのかもしれない。

このキャッチコピーを見た人たちの間には、

「ねえ毎日美味しいパンをだって、毎日は無理でもさ、ちょっと心に余裕がない時とか、喧嘩しちゃった時とか、いつもの、毎日の自分に戻りたいときにくることにしたら良さそうじゃない?」

なんて会話が生まれるかもしれない。

そんなようなこと考えながら、これを書いている。
いつもより少しロマンチストなのは、昨晩恋愛小説を読んだからだ。

とても簡単な物語で、あっという間にラストが分かりきってしまったけれど、物語りの構成が少しエッセイっぽくてすきだった。

何が起こったか、ではなくて何を思ったかにフォーカスを当ててる作品。
正確には心の中で何が起こったのか、どうしてその行動を取ったのか、飾らないで今思っていることは何なのか、明確に答えが出せない心についてどう対処するのか、または対処などしないのか。

そんな人間の複雑さと、愚かさが何ページにもわたって描かれている。
きっと作者はすごく素直な人なんだと思う。

「私は強くなんかない、愚かになれただけ」
「自分が正しいかどうかを他人が証明してくれるんでしょうか」
「私は好きな人のために人生を誤りたい」

そんな素敵な言葉がたくさんあった。
きっとこの先私の人生にうねりが出たときには思い出してしまう言葉たちだった。
自分を構成してくれるいくつかのことのうち、最後の砦として構えているのは「正しさ」だと思う。もうダメだと思う程落ち込んだときに、きっとこれで正しかったんだと思うことで自分を保った経験がある方はきっと少なくない。

そんな最後の砦を捨て去って選び取りたいものを選ぶことが、自分で自分の責任を取るということなのではないだろうか。

それはそうと、どうして仕事が忙しいという時の人ってちょっと偉そうになるんでしょうか。
作中に出てくる2人のすれ違いの原因の一つはそれだったように思う。
その忙しさも含めて、自分の選んだことのはずなのに、忙しいから仕方ないでしょと人の心を粗末にしてしまう。

私もこういうことをしてしまった経験はあるが、大抵の場合後悔するので、忙しくても人の心を慮る余裕を持つようにしようと努めるようになった。
もちろん完璧にできることなんてなくて、(大抵の人間は見せていないことはあっても欠点があると思います。私の場合のそれは過度な「うっかり」なんだけれども)昨日もピーナッツバターの蓋を開けっぱなしにして仕事に行き母に叱られた。

だけれどそこで、「忙しいから仕方ないでしょ」というのか、「ごめんまた抜けてたわ。ちょっと忙しいからより気をつけるようにするね。」と言えるかどうかだと思う。

事実も変わらないし、私はまたピーナッツバターの蓋を閉められないかもしれない。
だけれど言われた側の受けとり方は確実に違うだろう。

ゲーテ作「若きウェルテルの悩み」でも言っていたが、大抵の人と人とのいざこざは、嘲や謀りにより起こるのではなく、誤解と怠慢により起こる。

仕事を言い訳に心を慮ることを怠けたら、相手と自分の間には誤解が生じ、そしていざこざが起こる。このいざこざは一番悲しい。少し言い方や配慮をするだけでなくなっていたかもしれない溝だからだ。

この溝は、出来上がる物だとは思わない。
人と人は別々である以上、溝は絶対にある。だからあくまで、奈落に落ちてしまいそうなほど深くなるか、ひょいと超えられるくらい浅くなるかのどちらかだ。
その溝を埋めようと努力する作業がコミュニケーションであるように感じる。
それには片方の努力では成り立たず、双方の努力が必須である。

相手のために時間を使うかどうかの判断は、自分がその人のために努力したいか、そしてその人は自分のために努力してくれるのかということによってするといいかもしれない。

私はある程度人に尽くすタイプだと思う。
もっと厳密に言えば、人に何か利益を与えることになんの抵抗もない。

前にカメラマンとして同級生の写真を撮るために同行し、ヘアセットなども含めてせっせと働いていると、
「どうしてそんなに色々やってくれるの?」と聞かれたことがある。
この質問にはとても驚いた。そして同時に反省もした。
何か相手に利益を及ぼすとき、それを相手が気兼ねなく受け取るためには理由が必要なのだ。

こういったことから今まで「偉そう」とか「見下してる」とか言われてきたんだろうと後から思った。
そういえば小学生のときにも、「そうやって偉そうに人に施して、自分はすごいと思っているんでしょう」と言われたことがある。施しという感覚はなかったし、相手の利益になることをしたとき、その見返りを求めるのは良くないと知っていたため、何も望んでいなかっただけだ。
確かにお返しをしてもらったら嬉しい。お礼を言われるのも、とても嬉しい。
でも、それをはじめから望んで何かをするのは違うと断言できる。

相手に期待をしないという生き方は、私の人生をとても簡単なものにしてくれたが、感情の起伏を愛情と換算する人たちからはかなり不評のようで、合わないという人が何人かいる。

そんな人にはちょっと感情的な部分を出して、そしてクタクタになって、これも必要な溝を埋める作業だったんだと思うようにしている。その人との溝が超えたい溝である限りは。

でも深く考えれば、私にだって条件はある。

私が使える時間には制限があって、繋いでおける手もかぎりがある。
だから、私と一緒にいたい、私に愛してほしいと思う人のためにそれらを使いたいと思った。
そこからは取捨選択がシンプルになった。人に対しての違和感に気がつけるようになったし、私の無駄遣いをしなくて良い。

最近いわゆる就職活動をしていると、尚更思うのは何事も相性だということだ。
会社のニーズと私があっているか、私のやりたいことと、会社の方針が合っているか。
そんなこと言ってはいるが、もちろん内定はもらっておくに越したことはないので相手の会社のニーズに応えながら、自分の利点を売り込み、聞きたいことはしっかりと聞く。

会社だけではなくてそれが恋人でも、友人でも、趣味でさえ、合うか、合わないか、だと思う。(それが人に対してなのならば、「合わせたい」という気持ちも含まれるのだろうが、それについてもひっくるめて合うかどうかだということで今回は深くは書かないことととする。)

細かい作業が好きだから、手芸やお菓子作りなどは向いているが、絵を描くのが得意でないので油絵は向いていないとか、歌うのは好きだが、ギターを弾くには指の皮がやわらかすぎるとか。とか。

考えれば美容業界に席をおいていたとき、面接で落ちたことがない。
自分の容姿、話し方、接客スタイルを鑑みて、お店を絞り込み私のことが欲しそうな会社に入っていたからだと思う。
個人事業主として働き、経営の勉強を少なからずさせていただいていておもったのは何事も需要と供給であるということだ。適材適所を見分けるのが上手い人はどの場面でも感心する。

私は大抵の場合とても愛情深い。好きの熱量が多くて好きなものも多い。だから、いろんな人の話題についていけるし、関係構築も上手い。しかし、少しわがままで不安定なところがある。ミスが多いし、自分を見失ってコントロールできない時もあるけれど、その何点かのめんどくささに耐えうるならば、一緒にいる人を、とても楽しく幸せにしてあげられると思う。
もし、私のことを理解して採用したいなら、私と一緒にいたいと素直にいう必要があるし、忙しい時でも怠けずに私の心を粗末にしないで、誤解という溝を一緒に埋めていく必要がある。

これが全てにおける私の募集&採用要項なのである。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?