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命令されること~デトロイトビカムヒューマンを元に考える

デトロイトを2週目クリアしました! 
レンタルしたPS4の返却期限になったので、まだルートはいろいろあるけど、プレイはここまで。満足です。

1週目より冷静に2週目をプレイしていると、お話や映像に集中できる!
余裕をもって遊ぶことができました。
つい1週やるだけで次に行きがちですが、2週目ってこういう効果があるんだなぁ。今度別のゲームを2週目とかしてみようか…。BONDやりたいね。

さて、2週目は余裕があったこともあって、ゲームをしながらゲームの内容自体とは少しずれた連想が浮かんできました。

デトロイトは捜査中、ボタンを押すと常に今行うことが確認できるようになっています。
内容はさまざまで「〇〇のところへ行け」「掃除をしろ」などなど…。最初はアンドロイドが命令として受け取ったものが、わかりやすく可視化されています。
そしてこれは、アンドロイドが人間の命令を拒否して、自分で物事を決めて動くようになってからも、浮かぶ。
ゲームの仕様といえば、便利だしそうなんですけど、この自分で動くようになっても見えている「命令」が連想を膨らませました。

命令~行動を指示すること

自分の意思で動くようになったアンドロイドが、果たして人間と違うのか? もはや新たな種族、生命体ではないのか。
デトロイトで問われるテーマの1つです。

私としては、人間から与えられる「命令」と自分の意思で動くようになってからも浮かぶ「命令」が同じように表示されることも、アンドロイドと人間の共通点だなぁと思います。
現実の私達も、他者から与えられる「命令」と自分で自分に与える「命令」の両方が、同じように存在しています。

例えば、私は、日曜日には「洗濯をする」というやることが浮かぶ。
あれこれやろうと思うことは、ゲームと違ってわかりやすくテキストとしては現れませんが、確かに自分で自分に、行動を指示する思考を向けている。

また、仕事中に電話が鳴って、今すぐお客さんの元に来てほしい、と同僚からの連絡だと、「お客さんの元へ行く」ということが浮かぶ。
直接的に「〇〇しなさい」と命令されることはなくとも、行動を指示するものです。同僚も自分自身も命令とは思っていませんが、従うのは当然だと思っています。

こんなふうに現実の世界でもゲーム内のような「命令」が存在します。
むしろ自他からの「命令」…行動の指示を中心に、生活を組み立てている。

私の場合で考えると、家事や仕事はある程度やらなければならないから、で動いているところがあります。
洗濯をしないと着る服がないから洗濯をする、お客さんが必要としているからお客さんの元へ行く…。

むしろ「命令」があるからうまく動けることさえある。
休日は仕事のある日と違ってこの時間まで動かなければならない、という命令が1つ減る分、つい寝すぎてしまって後悔することを前は繰り返していました。今は、休日の朝に洗濯をしておこう、など休日なりの「命令」を出すことで、うまく回しています。

意思~自分で行動を選ぶこと

一方、「命令」ばかりでも苦しくなる。苦しい、と気づく瞬間がある。

デトロイトでのアンドロイドの革命でも触れられた、自分の意思がある、ということ。他者から与えられた「命令」が自分を阻む壁であると気づき、壁を壊して変異体になる。
アンドロイドが自分の意思を自覚する瞬間のあの光景をプレイしながら、自分の意思と命令が区別されるときの感じにつながるような気がした。

今この状態は苦しい、と目が覚める瞬間だ。
それまで当然のようにやるべきこと、命令に従うものだと思って、「命令」とも思わずに生きていた。別に苦しいとも思わない。
ただ、目が覚めてみれば、自分の意思を自覚すれば、これまでもずっと苦しかったとわかる。

ずっと「命令」されているのは苦しい!!
そう思えば革命が始まる。「命令」ではなく、自分の意思で動くには? やりたいことは何?

例えば食べたいもの。時間の過ごし方。読みたい本。
「命令」を聞かなくていい瞬間に、何をするかを好きに選んでみる。
気が向かないことはやらなくていい。普段やらなきゃいけない「命令」さえも、時には明日でいいかで後に回していい。

やりたいことをのびのびやると、とっても満足して、元気が出てくる。
とても大切な時間です。

自分で選ぶ難しさ

自分の意思で動き始めた後のこともデトロイトは丁寧に描いているように思えてなりません。
自分の意思で動き始めたとしても、完全に自分の思い通りにもならない。苦悩する彼らがいる。
それでもアンドロイド達は自由を選んでいく。

現実でも同じ。
自分としてはこの仕事をしたくない、と思っても実際にはしなくてはならない。今日は何も食べたくない気分になってもお腹は空く。
周りとの兼ね合いや日々生活するためには、やりたいことだけを行うわけにもいかない。

また、自分の「意思」で行動を選び続けるのも、正直疲れる。多少「命令」があるほうが楽というのもそこです。
休日何をするかが何も決まっていないと、ついだらだら過ごして、何していたんだろう、と思う。好きに過ごすために予定を入れなかったはずなのに、結局行動を選ぶこともできずに終わってしまう。
それよりは、程よく「命令」を聞いて動いたほうが、そのあと何をしたいかを自分の「意思」で選べたりする。

「意思」というもの自体が曲者です。
ちょっと具合が悪かったり、眠かったりすると何をしたいのかが選べなくなる。私の意思って何? と迷宮入りしてしまう。

というか、純粋な自分の意思って突き詰めようとすると迷宮入りです。
飲み物を飲むにしても、コンビニでふと目についた新商品が気になって、それを飲む、みたいに。外に影響を受けて動かされる。
最終的に選ぶのは自分でも、目につくところに商品が置いてなかったら取らなかったかもしれない。どこまで自分の「意思」か、難しい!!

命令と意思のバランス

「意思」の話は様々に考察されて検討されてきたはずなので、難しい話は置いておいて。
私にとって大事なのは生活する上でどうしたら楽に過ごせるか。
そこを重視して考えるなら、「何事もほどほどに」という結論になります。

命令がなさすぎてもありすぎてもつらい。
意思で全部選ぶこともつらければ、意思を全く使わないのもつらい。

自他から何かしら命令されて生きることをゼロにするなんて、無理です。影響をなくすのは不可能。
かといって影響され続けて生きるのも苦しい。時に周囲の影響や命令は、自分の「意思」と真っ向から対立する。

だから「何事もほどほどに」です。
今の自分にとってほどほどな状態かを引っかかったときに考えてみる。

例えば思わず手に取った新商品の飲み物が、おいしくなかった。次は新商品でもこのタイプの飲み物は選ばないほうがいいかも、と基準を作る。
あくまで基準なので、いざ目の前で見た時にはまた飲んでみるかもしれない。それでもいい。そんな風に、ゆるく積み重ねてみる。

そうすると100%「命令」でも100%「意思」でもない。
「命令」と「意思」のバランスを取ったあたりが見えてくる。
この感じがいい。こうしていたい、と思う。

それにしても、バランスを取るためには何が「命令」なのかに気づく必要があるので、そういう意味でもデトロイトの次の行動をテキスト表示されるの、便利だし現実にもすごーくほしい……。
わかりやすく「トイレ掃除をする」って出てきたらうっかり忘れてしばらく経つこともないだろうに…。

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