コメント欄の阿鼻叫喚
起きてYahooニュースを見たら、サムネイルのひとつが自分の顔だった。
「そういえば今日だったな」と見に行った記事は、これ炎上ってやつじゃね?と思うほど燃え盛っていた。ヤフコメが歌舞伎町の治安(それはいつもか)
「いつか絶対に書き残す」と思ったあの日のことを、今から振り返ってみることにする。
そもそもの話
当該の記事はこちら。ギフテッドに関する連載、ということで、当事者かつ支援者としてインタビュー依頼を頂いた。「まあまあ引きを意識した(よりはっきり言うと、燃えそうな)タイトルだなあ……」と思いつつ原稿にOKを出したのは、取材が丁寧で真摯なものだったからだ。
案の定、反応の多くは伝えたかったことが届いていないものだった。というか、「IQ139 」と「ギフテッド」と「東大生」のいずれか(または私個人)に物申したい層が押し寄せていた。地獄絵図である。
お届けされたコメントたち
はいここから閲覧注意。あくまでいっぱいあったやつの一部です。
「その程度のIQ/東大ごときでギフテッドってwww」⇒この系統が一番多かった。これは結構よくある話で、「ギフテッド」概念につきまとう誤解ともいえる。アメリカだと6%がGifted educationに乗っているらしいし、別にそんなにレアなもんじゃないんですよね。(アインシュタインやエジソンの話をしているわけではなく、クラスに1人か2人いるような感じの子が、その出現率であっても学校教育に適合できていないという話なのだ)
「お前はギフテッドじゃない、ASDだ」「知能検査の凸凹が発達障害を示している」⇒これもよく見たやつ。当時の不適応が非同期発達かASD特性かその他の要因だったのかは分からないけど、現在のところASDの診断はつかなさそう……(少なくとも、対人関係に問題があるとはみなされないと思う)あと実は発達障害って知的特性の凹凸と直結するものではなかったりします。
「コミュニケーション能力が低いだけだろ、本当に賢ければ話を合わせられる」⇒前半はまあそうかも。その節は済みません。言い訳をすると記事では伏せていたことも色々ありました(子どもの情緒的安定を妨げる要因、というあたりでお察しいただけるかもしれない)
後半に関してはそんなことない!!そういう子が凄いのであって、一般論として知的/感情的/社会的側面が一様に成熟する子どもばかりではないです。さっきサラっと出した「非同期発達」という用語がその話をしています。
「この性格じゃなあ……東大で上手くやっていけるわけがない」⇒らしいよ、ねえ同学のみんなどう思う?……という話は置いといて、(記事内で幼少期の困り感に焦点が当たってるだけで)大学生活はかなりエンジョイした方だと思います。ちなみに大学の好きなところは魅力的な人が沢山いるところで、苦手なところは105分ひたすら話を聞かなきゃいけないところです。
「こんな人間が心理に携わるなんて」「人の気持ちが分かるのか」⇒いや、そう言われましても(冷淡)
まあ真面目に、「人の気持ちが分かります!」という人間の方が怖くないでしょうか?個人的には、「分かった気にならない」ことの方がよほど大事だと思っています。
ちなみにこのコメントを見た次の日に院試合格が分かってちょっと嬉しかったです(倍率8倍だったので、とても緊張していました)向いているかは分からないけど頑張ります。
はい、ざっとこんな感じです。あとは「中二病」「就職で苦労する(進路の一部が決定しているんだけど、一応大丈夫そうです)」「容姿が……(私も自分の顔は嫌いなので仲良くなれるかもしれない。蛇足ですが見た目がまあまあ変わりました)」等々まだまだいっぱい。
そういえば「俺も同じシャツ持ってる!それいいよね」って言ってくれたどこかの誰か、心の癒しでした。一生感謝します。
学んだ(かもしれない)いくつかのこと
まず、(もちろん私も含めて)人は見えている状況だけで物事を判断してしまいがちだということ。当然だけど数ページの記事に詰められることが全部じゃないのに、率直に言うと沢山の決めつけを見かけた。「かもしれない運転」みたいに、色々な可能性を考えつつ読める人間でありたいということを改めて考えたりする。
あとは、ネガティブな反応の刺さりやすさ。上では厳しいコメントばかり取り上げたけど、勿論嬉しい反応も届いている。山ほど。「我が子にそっくりで希望が持てました」という保護者の方々のコメントとか、私を知っている人々の言葉とか(心配かけてごめん)。具体的に書くとこゆきちゃんはいい子だよ、と声を挙げてくれた高校の先輩だったり、「知ってもらうべきことだから」とtwitterで紹介してくれたクイズの仲間だったり。(取材して下さった方からも、温かいお言葉と謝罪を頂いてしまいました。謝る必要は1ミリもないのに)
それでもやっぱり悪意あるコメントの方が心に残ってしまって、当時は結構インターネットを見るのが怖かった。負の感情に晒されてメンタルを保つの、相当難しい。もちろん、優しい言葉が届いていないとかではないんだけど。
(ちなみにこれに関連した話だけど、特にギフテッドの話題で子どもを取材対象にするのは本当に本当に慎重であってほしいと思う。世の中の「ギフテッド」ラベルへのイメージは頗る悪いので、困り感が正しく伝わらない可能性も高い。大人の自分でも怖かったから、この悪意が子どもに向いたら……と思うと正直恐ろしい。)
最後に
誤解と偏見が示すのは、「まだまだやるべきことが沢山ある」ということだ。
あの記事の後、ギフテッドの支援を、と起業した先達に拾われた。今秋オープンの居場所には、私も運営スタッフとして関わっている。
準備をしながら、本当はこんな場所作らなくても良かったらいいな、と思っている。寄せられる相談を聞きながら、学校や社会がもっと違った形だったら、と考えてしまうことは何度もある。
それでも、今できることは真摯に活動することと、説明を厭わないことだ。
未来の世代が、あの日の自分よりもっと生きやすかったらいい。
それに貢献できるなら、私は何度でもあのコメントの中に立つだろうと思う。