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下半期の国内文芸を振り返る! 第168回直木賞候補作予想〜!

 ごきげんよう、あわいゆきです。

 いよいよ12月16日(金)に芥川賞・直木賞の候補作発表がありますね!
 半期に一度の候補作発表を人生の楽しみにしながら生きている私にとって、芥川賞と同様、直木賞の候補作発表はお祭りのようなものです。ドキドキしながら朝5時にTwitterを更新しまくって待機しています。

 あまりにドキドキしすぎて待ちきれないので、今回は下半期に刊行された国内の小説を振り返っていきます! ……といってもそれだと範囲が広すぎるので、「直木賞未受賞作家の単行本小説」に絞ります! とどのつまり、直木賞路線で候補に上がるかもしれない作品を紹介していく、って感じですね。
記事の最後には個人的な直木賞の候補作予想も記しています。今回はあまり読めなかったのですが、直木賞を心待ちにする一助になればと思います!


 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。

 はじめに下半期の注目作品を振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!


振り返り


戦前から戦後、現代を通して未来へ続いていく濃厚な作品たち


 まず、下半期を代表する国内文芸はなにか? と問いかけられたとき、すでに山田風太郎賞も受賞している小川哲さんの『地図と拳』(集英社)を挙げるひとは多いでしょう。国を「建築」する着想のもと、個人の生きざまをミクロな視点で掘り下げながら、それら人間を「構成要素のひとつ」として小さく扱う二つの概念、〈地図と拳〉(≒国家と戦争)をマクロな視点で掘り下げていきます。その際に舞台となるのは、細川が中心となって満州につくりあげられていく人工都市、〈李家鎮〉です。そしてこの〈李家鎮〉に関係する魅力的な人物たちがそれぞれ面白いエピソードを引っ提げながら登場し、さながら水滸伝のように集っていくさまは物語のスケールを持て余すことなく膨らませていきます。最終的に個として存在する人間が集うことで家を建て、都市を建て、国を建てていく――この連なりによって個人=都市=国家をイコールで結びつけ、見えてくるのは三者間が連環しているがゆえの共通する脆さです。強大な存在を前にしたときに個人が有する熱量の脆弱さを突きつけながら、それらによって都市や国家が形作られている以上、共通している脆さを抱えているのだと指摘します。

 そして脆さを最も露呈させるのが「拳」、長期化していくうちに目的を徐々に見失い瓦解していく「戦争」という営みです。どうして私たちは戦争を起こしてきてしまったのか、本書では国家が戦争を起こす原因を多角的な視点で徹底的に分析・シミュレートしていきながら、その結果を〈李家鎮〉の存亡に反映させます。ここでいう「シミュレーション」はあくまでも計算による模擬です。それゆえ勝敗がすでに読者もわかっている現実の日本を舞台にするのではなく、架空の都市国家を中心に据えてシミュレートしていくのは理にかなっており、同時に物語の面白さと牽引力をつくりだします。小説を通してひとつの都市をつくりあげるだけでなく、滅びるまでを計算して描き切った、非常にスケールの大きい作品です。


 そして、架空の都市を通じて戦前を描いたのが『地図と拳』だとするならば、大胆なフィクションを織り交ぜて戦後を描いたのは長浦京さんの『プリンシパル』(新潮社)です。疎開先で教師をしていた女性、水嶽綾女が終戦を受けてヤクザである実家に戻り、成り行きでヤクザのトップに立つことになります。そこから「任侠も侠気もどうだっていい」と言い放ち、裏社会であらゆる手を使ってのしあがっていくさまはまさに壮絶の一言。明らかに鳩山一郎や吉田茂と思わしき人物を登場させ、戦後日本が辿ってきた政治や経済の利権を絡ませながら対等に渡り歩いていく綾女のすがたは、フィクションであるはずなのにまるで存在していたかのような魅力を放ちます。そしてのしあがっていく背景には、軽々しく扱われて散っていったいくつもの命があるのを忘れてはいけません。最初は復讐に対する使命感から動いていた綾女は暴力を重ねるにつれ、親から引き継いできた(そして何度も目の当たりにしてきた)「血」に染まり、やがてすべての命を踏み台にしていく化け物になっていきます。「悪女」を題材にした作品は数あれど、ここまで美しくて凄まじい人間はそうそういません。

 一貫して人の「死」をあまりに軽々しく扱い、それを認めながらも最後まで血に塗れた生きざまを貫いたからこそ描けた境地、人間の本能が、ラストでは剥き出しになります。アクションシーンも非常に読み応えがあり、最初から最後まで息をつく暇もない、戦後の裏社会を渡り歩いていく怒涛のエンターテインメントです。


 そして時代が現代に辿りついたとき、私たちは「いま」直面している問題と向き合う必要性が出てきます。その意味で、下半期に「いま」を最も照射できていたのは古谷田奈月さんの『フィールダー』(集英社)でしょう。出版社に勤める橘が仕事や趣味のオンラインゲームを通じて出会う問題の数々は、私たちがいま生きている現実を揺らがせます。そして物語中に登場するあらゆる二項対立、理念と欲望、現実と空想、マジョリティとマイノリティ、当事者と非当事者、人間とペット、大人と子ども、それら二項の関係性を複雑にする〈矛盾〉をすべて炙り出そうとすることで、矛盾をきたさないまま正しさの「筋を通すこと」の難しさと限界を語っていきます。

 また、「かわいい」と思う感情が秘める暴力性を指摘するのも本書の特徴。「かわいい」と思って相手を子どもやペットに仕立て上げ、過干渉を試みる庇護欲のようなものが、社会通念上の〈正しさ〉を拒む概念として押し出されます。利己的な「かわいい」による、ハラスメントとも異なるおぞましさを前面に出しながら、しかしそれによって救われる人間がいる――その事実が「かわいい」に潜む矛盾をさらに複雑にさせます。そして、現代社会の先端にある問題を詰め込みまくった『フィールダー』という物語自体が「筋を通さない」構成をとっているため、この一冊がそのまま社会の歪みの縮図として位置付けられていました。複雑なものを簡単に説明しようとしてしまうことへの抵抗も示されており、このnoteの紙面では到底語りきれないほどの濃度です。


 さらに現代から未来へ時代が飛んだとき、そこにも「いま」から地続きの問題が根を張っています。荻堂顕さんの『ループ・オブ・ザ・コード』(新潮社)で舞台となるのは疫病禍によって心的外傷をもつ人間が多く存在する、いま読めば明確にコロナ禍を意識させる近未来。そこに生物兵器を用いた民族浄化を行う国家が現れ、世論は心的外傷による反発によって国家自体を歴史から〈抹消〉してしまいます。その国家はこれまで紡いできた連続性を完全に断絶され、生まれ変わった国家に発生するのは過去と現在が途切れたことによる「アイデンティティの否定」です。そしてアイデンティティを持たない国でうまれた子どもは、果たしてどう生きていけばよいのか? 物語は反出生主義(≒「連続性の断絶」を体現する象徴的問題)を軸にしながら、それだけにとどまらず「連続性の断絶」によって発生するあらゆる問題に光を当てていきます。親ガチャ問題、代理母出産、暴力の連鎖、ケアなどなど、その目配せと守備範囲の広さはかなりのもの。しかもそれを現代から照射しようとするのではなく、近未来に存在する〈抹消〉された国家と人々の生きざまに託そうとするのです。これによって物語はただ現代の問題をなぞるのではなく、SFとしてのスケールやアクションシーンの白熱さをも帯びるようになっていました。複雑に問題を入り組ませた作品でありながら、誰が読んでも楽しめる「エンターテインメント」性を惜しみなく発揮するのです。

 ここまで紹介してきた『地図と拳』の架空の国家から問題を描こうとする大胆さ、『プリンシパル』の白熱するアクションとエンターテインメント力、『フィールダー』の現代照射力をすべて詰め込んだ、まさに未来に存在している秀作です。


現代を生きる私たちの人間関係とドラマ


 さて、現代を舞台に、身近な人間との関係性やドラマを描いた作品は数多く出版されています。下半期も例に漏れず、該当する作品はいくつもありました。

 なかでも凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』(講談社)抜きで、下半期の人間ドラマは語れないでしょう。「月に一度、わたしの夫は恋人に会いにいく」と、インパクトの強い序文から始まる本作では、社会からの抑圧に抗った当事者同士の意思を重んじる「愛」を、正面から堂々と描きます。物語の主役を担うのは、男性に身を委ねて家父長制に縛られてきた母親のもとにうまれ、彼女らを反面教師にしてきた二人、櫂と暁海です。学生時代に瀬戸内の島で出会い、導かれるように付き合い始めた櫂と暁海は明るい未来を抱いていましたが、大人になり都会と田舎に分断され、忌避していたはずの家父長制的な社会構図に巻き取られていってしまいます。台詞をつかったテンポの緩急と、やさしい地の語りで紡がれる切ない空気感の醸成によって、現実に翻弄される二人のままならなさがよく描かれていました。

 そして、親から子に引き継がれてしまう負の連鎖から提示されるのは、旧来的な社会で「自分が自分でいること」の難しさです。物語はそこから、自由意志の獲得による解放につながっていきます。また、近年多く見られる「人生の責任を他人に求めない」を説いた作品とは異なり、むしろそれを知ったうえで自覚的に責任を担おうとする世代に焦点があたるため、現代社会を生きる自由さと不自由さをより広く掘ることもできていました。

 冒頭で複雑さを匂わせながらも最終的に納得できるような物語をつくり、当事者同士の純度が高い愛を紡ぐ姿勢は著者らしさであふれています。従来のスタイルを崩さないまま『流浪の月』から一段と完成度を高めており、作者の最高傑作といわれてもなんら違和感はありません。


 そしてもうひとつの注目作が、一穂ミチさんの『光のとこにいてね』(文藝春秋)。自然主義的な母親と教育主義的な母親、それぞれ異なる家庭に育った二人の女性の四半世紀を交互に描いていく本作では、名前のつけられない関係性をストレートに描いていきます。なかでも注目したいのは、二人の女性を真に縛っていたのは母親の強い主義思想ではなく、主義思想に拘泥することでエゴを満たそうとする代償、なにかに拘って生身の娘を見ようとしない無関心そのものにあった――と話を転がしていく点です。ネグレクトや直接的な暴力とも微妙に異なる、「愛情を正確に注がれないまま、自ら選択していくことのできない子ども」の像は、一方的に母親を悪と断罪できない複雑な関係性を浮かび上がらせます。

 そしてこの「選択権」のなさは二人が大人になって鳥かごから羽ばたくと、今度は「選択権」を与える側として頭を悩ませるようになります。それぞれ娘、あるいは歳の離れた弟に対するコミュニケーションを探っていきながら、ときに「子どものうちはいろんなことを選べない」と残酷に突きつけ、子どもに耳を傾けないまま身を去ろうとするすがたは身勝手に映るかもしれません。しかしこの物語はそのあり方を大人の立場から肯定しようとします。同時に、いまこの瞬間を生きている子どもの自由意志を尊重する姿勢を崩さない(つまり、無関心でいようとはしない)ことで、子どもから大人への成長を描いた、大人目線の物語としてうまく成立させていました。家族という枠組みから大人と子どもが抱えるそれぞれの自由さと不自由さを、先に紹介した『汝、星のごとく』とは異なるアプローチで掘ろうとします。

 そしてメインとなる二人の関係性もラストにぐっと畳み掛けられ、異性愛規範からの解放を促していきます。大人になってから与えられた「選択権」によって主体的に「選択」していく、その力強いさまも気持ちよく読ませる作品です。


 また、彩瀬まるさんの『かんむり』(幻冬舎)は、「夫婦」という関係性から現代の生きづらさを浮き彫りにしていきます。なかでも焦点があたるのは、妻が支持する「多様性(個性)を尊ぶ世論」と夫が口にする「現実に存在する競争社会」、二者間の齟齬と矛盾です。また、二つの要素をフェミニズム的な家父長制批判や競争を強制されるホモソーシャルに重ね合わせ、多様性を追求しながら、既存の価値観から逃れることや「個人」としてあり続けることの難しさを語っていきます。

 ただ、この点は先に紹介した『汝、星のごとく』と被っており、あちらのほうがより深く掘り下げられているようには感じます。しかし、作中の時間軸が明確に現実を追い越して、未来に向かい始めると物語は大きく動き出します。多様性を尊んで旧来的な社会にぶつかっていた語り手自身が、新しい価値観に取り残されて「古い社会」を構成する要素となっていくのです。忌み嫌っていたはずのものに巻き取られていく、これ自体は『汝、星のごとく』にもありましたが、古い価値観に馴染んでいってしまうのではなく、新しかったはずの価値観が古くなっていくさまを描いている点に明確な差異があります。そして自らが古くなってしまうことで、自分自身が「個」として尊重されきっていなかったのではないか? という疑念に襲われるようになり、承認欲求を満たすための矛盾した行動に突き動かされていく様子は切実で胸を打ちます。

 そして未来において登場する「新しい価値観」、その担い手が夫婦の息子という構図も非常にすぐれたアプローチでした。かつて妻が支持していた「多様性社会」、あるいは夫が支持していた「競争社会」は存在していたはずの齟齬や矛盾ごと、二つまとめて子ども世代の「新しい社会」に押し流されていきます。そして対立する価値観が洗われたことで、感情を矛盾させながらもここまで続いてきた「夫婦」とははたしてなんなのか、と根源的な問いかけが顔をのぞかせるのです。

 また、タイトルになっている〈かんむり〉も非常に巧妙です。水に浮かぶ生まれ落ちたままの「個性」そのもののメタファーとして提示されながら、同時に、〈冠〉(≒競争社会における勲章)としても役割を持ちます。そのため〈かんむり〉自体がある種、社会や個人感情に対する矛盾の象徴としても機能していました。これ以上ないタイトルだと思います。


 ほかにもいくつかを紹介していきます。まず遠田潤子さんの『イオカステの揺籃』(中央公論新社)は家父長制に縛られた母娘三代の「呪い」の連鎖、あるいは自己憐憫による「呪い」を払拭する、昨今多い題材。ただこの作品は縦ではなく横軸にも話を広げていくので「家族」のつながりがより重要視され、それを通じて男性/女性による根源的な価値観の断絶をも描きます。また、「バラ夫人」と呼ばれる恭子の自己憐憫に浸ったり息子(世継ぎ)を求めようとする感情が意図して過剰なものにデフォルメされ、「狂気」と肉薄したものとして読めるようできていました。そのため読者への共感性は低く、そのぶん歪な家族を観察めいた視点から読めるようにできています。リアリティに寄せており類似作としても挙げられるであろう早見和真さんの『八月の母』(現実で起きた事件を下敷きにして、母娘三代の呪いの連鎖と断ち切りを描く)らとは異なるアプローチが、作家性をうまく顕出していたように感じます。

 そして『イオカステの揺籃』と同じく、「悪い母親」をデフォルメ気味に描いたのが一木けいさんの『悪と無垢』(KADOKAWA)。不倫をする過程において底知れない女性と関わり、「人間ではなくなる」ことで破滅の道を進む男女の連作短編集。浮気や不倫を題材にした「悪女」が主役の物語では珍しく、悪女本人が不倫相手になるのではなく、彼女は常に第三者の立場から人間関係をかき乱していく役回りに終始します。これによって安全圏から、連作短編としてのレパートリーをより豊富なものにしていました。悪い女性が現実でつきつづけてきた「嘘」に対して、創作(フィクション)で立ち向かおうとするアプローチも面白く読ませます。

 また、人間の悪辣さを描いたという意味では伊岡瞬さんの『朽ちゆく庭』(集英社)も負けていません。他人への不信感を前提とした上辺だけの人付き合い(コミュニケーション)が、全編通していやらしく描かれていきます。やがて殺人事件が起きたとき、その責任の所在を大人の「なすりつけあい」と子どもの「庇いあい」によって対比しているのが印象的でした。大人のきたなさを全面に押し出していく小説です。

 ケアの方向にも目を向けると、河﨑秋子さんの『介護者D』(朝日新聞出版)は、父親を介護するために北海道に帰省した女性を語り手とする、ストレートな介護の物語です。なかでもケアの当事者と断絶が強調され、要介護者のレベルだけでなく、介護をする側にも第三者からの「ランク」が押しつけられる現実を描きます。また、父娘の飼い犬を介さないとうまくつなげないコミュニケートを示唆しながら、その飼い犬が認知症を患うことで「認知症」について向き合い対話をするようになる流れも面白いです。「ペットの介護」という類例の少ない題材を、うまく物語に落とし込めています。

 対する藤井太洋さんの『第二開国』(KADOKAWA)で語り手が介護のために帰省するのは北海道ではなく奄美大島。巨大クルーズ船が島にやってくるなか、島民はその船を歓迎するか排除するかで揺れ動きます。語り手はあくまでも介護のために一時帰省したにすぎず、「いつ島を出ていくかわからない部外者の葛藤」が物語をより中立的なものにしていました。エンターテインメント性はかなり強いです。


 

古い時代を描いた小説


 直木賞では時代・歴史小説が一作は選ばれる傾向にあるため、直木賞に向けた注目作品を読んでいくなら、時代小説に触れていくのは必要不可欠。


 なかでも今回の本命は千早茜さんの『しろがねの葉』(新潮社)。作者初の時代小説でもある本作で舞台となるのは、安土桃山〜江戸初期の石見銀山です。坑道で育ち、行動で働きたいと願う女性・ウメは、その一生のなかで何度も大きな壁に直面します。当時の家父長制に根ざした男女差別はもちろん、坑道で働くためには体力が必要不可欠なため、覆せない身体的な性差によって職業や生き方は「区別」されてしまうのです。どれだけ差別がなくなろうとも男女による身体差は存在して、「区別」による役割分担は発生を免れない――現代にも通じる問題を提示したうえで、それでも従いたくない/従えない人間もいるのだと物語は伝えてきます。そして、坑道で働きたいウメだけではなく、子をつくれない育ての親・喜兵衛の生きざまや、喜兵衛と同じ境遇を持つヨキの問いかけからも「区別」に対する抵抗は徹底されるので、男性と女性、両方からの視点でテーマを語れていました。

 また、静謐な文体から仄暗さを感じさせながら「穴」「夜」のような暗闇につながるモチーフを多用することで、地に足をつけながらもどこか現実離れした予感を抱かせる、独自の世界観を構築できていたのも魅力的でした。一方、少女漫画のテイストを重ねたキャラ造形には千早茜さんの持ち味も活かされており、この作者だからこそ書けた作品でもあると感じさせます。初の時代小説とは思えないほど、完成されていました。


 そのほか、梶ようこさんの『広重ぶるう』(新潮社)は、歌川広重の一代記。「べろ藍」にこだわって江戸の青空を描こうとする広重の葛藤はもちろんのこと、絵師と版元の関係性に焦点をあてて物語を進めていくのが印象的です。版元は商業と人情を天秤にかけながら絵師を導き、絵師は版元に応えてすぐれた作品を創り上げる、この関係性はそのまま小説家と出版社の間柄にも置き換えられます。

 また、奥山景布子さんの『やわ肌くらべ』(中央公論新社)では与謝野鉄幹をめぐる女性たちの愛憎劇が描かれていました。実在人物が多く登場し、詩歌や書簡が多く引用されながらも非常に読みやすい文章で構成されています。そして詩歌や書簡を用いた「語りかける」コミュニケーションの応酬が慕情に発展し、それを通して、読む/読まれるの関係は現実とフィクションの境目を溶かすのか? と、テーマに結びつけていくのもこの作品ならではのアプローチでした。またその際、この作品自体が読者に語りかける形式の文体を採用し、現実とフィクションの境目に立たせるのも、効果的に働いていたと感じます。

 時代小説からやや外れると、劇団ひとりさんの『浅草ルンタッタ』(幻冬舎)は大正時代の浅草六区を舞台に、売春宿で育てられた孤児と周囲の大人たちの生きざまを描きます。背景的にはかなり暗い物語ですが、オノマトペや擬態語をリズミカルに用いることで物語は賑やかになり、終始明るさを抱かせます。また、その賑やかさこそが悲劇からの「再生」に結びつく流れも自然でした。

 そして宇佐美まことさんの『ドラゴンズ・タン』(新潮社)は、前漢から中華民国、果てには近未来までを大胆に渡り歩こうとする大河小説。その長い歴史の裏で暗躍する呪いを防ぐため、「剣」と「盾」の継承者となった男女が災いに打ち勝つ王道の物語が展開されます。各章における主役の身分をいずれもミドルクラスに設定することで、時代ごとに蔓延る階級差別は被差別者の当事者的な苦しみによって描写されるのではなく、そのような歴史が確かにあった、と客観的な事実を淡々と突きつけてきます。


エンターテインメントといえばやっぱりミステリ?

 SFには冷たいことで知られる直木賞も、広義のエンタメミステリはよく候補に入ります。

 今期だと文藝春秋さんから刊行されている貫井徳郎さんの『紙の梟』(文藝春秋)が主たる候補。「人間をひとり殺したら死刑になる」法律が適用された日本を描くミステリ短編集。ミステリというよりは社会的な風刺の側面が強く、単純化された社会で罷り通りやすくなってしまった〈正義〉の暴力性を描きます。架空の法律で社会のシミュレーションをしながら、散見される「一方的な正義による抑圧」は現代のインターネットにも通ずるものがありました。また、素朴な〈正義〉を食い止める方法として「反省する/許す」行為が重要視されるのも見逃せません。

 そして芹沢央さんの『夜の道標』(中央公論新社)は90年代後半の日本を舞台としたミステリー。ミステリーでありながら動機につながる事情を深く「語らない」まま示唆に留めることで、夜(≒見えない内面)をおおっぴらに明かすのではなく、先が見えなくても手を差し伸べてくれる存在を重視するようになっています。語らないことで独特の静けさと温かみを演出している作品です。


 

予想

展望

 さて、ここからは直木賞の候補作を予想していきます! 下世話といえば間違いないのですが、これも直木賞(芥川賞)の醍醐味のひとつ。色々な事情を汲み取ったうえで、作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。

 ……といっても、今回の直木賞は有力作がはっきりしています。

 まず、直木賞を主宰しているのは日本文学振興会。実質的に文藝春秋なので、文藝春秋から刊行されている作品の検討。かなり粒揃いだった上半期に比べると下半期はそもそも刊行点数が極端に少なく、直木賞の性格と合致しているのは一穂ミチさん『光のとこにいてね』、貫井徳郎さん『紙の梟』、奥山景布子さん『葵のしずく』(未読です)程度。このなかから選ぶとしたら間違いなく、フレッシュさと勢いを兼ね備えた一穂ミチさん『光のとこにいてね』ではないでしょうか。貫井さんも候補回数は多い作家さんなので、自社の二枠目に入る可能性はあります。

 そして小川哲さん『地図と拳』も前評判通りに候補入りは間違いないでしょう。刊行前から次の直木賞として期待されていた作品なだけあり、すでにあらゆる賞やランキングで名前を見せています。物語のスケールや内容も申し分なく、候補のみならず受賞においても最有力候補。

 また、直木賞は毎回必ず一作は時代小説・歴史小説が入る傾向。その観点からみていくと、今回は千早茜さん『しろがねの葉』が最有力のはず。ただ文藝春秋から入る可能性もあり、そのときは奥山景布子さん『葵のしずく』になるのではないかと予想します(未読なのに予想するのは個人的なポリシーに反するのですが)。

 残る二作品は、前回直木賞の候補に選ばれたときよりも格段に完成度が高くなっている長浦京さん『プリンシパル』、下半期大きく話題を集め、すでに吉川新人賞の受賞は確実だろうと私のなかで評判の凪良ゆうさん『汝、星のごとく』ではないでしょうか。

 正直、今回はこの五作品が作品としても諸々の事情を込みでも、ほかを圧倒しているような印象は受けます。非常に混戦模様の芥川賞路線と比べると、予想はしやすい回ではないでしょうか。

 というわけで、まとめるとこんな感じ。

 

第168回直木賞 候補作予想

一穂ミチ『光のとこにいてね』(文藝春秋)
小川哲『地図と拳』(集英社)
千早茜『しろがねの葉』(新潮社)
長浦京『プリンシパル』(新潮社)
凪良ゆう『汝、星のごとく』(講談社)
(五十音順・敬称略)

 一応、それでも割って入るとしたら、彩瀬まるさん『かんむり』は遜色ない出来栄えです。また、完成度では並び立つ荻堂顕さん『ループ・オブ・ザ・コード』はSFの側面が強いため直木賞の場では拾われないのではと予想(吉川新人賞か山本周五郎賞のどちらかは候補になると思います)。古谷田奈月さん『フィールダー』は連載誌が元々すばるなのもあり、エンタメ要素の相対的な薄さを勘案しています。

 そして最後に、私の個人的な好みだけで選んだ、指摘直木賞候補(下半期のベスト5作品)も記して終わろうかと思います。

個人的直木賞候補

小川哲『地図と拳』(集英社)
荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』(新潮社)
古谷田奈月『フィールダー』(集英社)
長浦京『プリンシパル』(新潮社)
凪良ゆう『汝、星のごとく』(講談社)


下半期もよい小説がたくさんありました。あとは金曜朝5時の候補発表を楽しみに待ちましょう。

それでは、ごきげんよう。

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