見出し画像

2024年上半期の文芸誌を振り返る! 第171回芥川賞候補作予想〜!

 ごきげんよう、あわいゆきです。

 今年もやってまいりました、芥川賞候補作の発表される季節が!
 ご家庭や職場、学校もろもろ、みなさまの周りでも候補作の予想をするべく色めきだっているころかと思います。もちろん私の周囲も、文芸誌の話題でもちきりです。

 果たして今回はどんな小説が選ばれるのか——発表は13日の朝5時。
 興奮して夜も眠れないので、私も予想していこうと思います!

 ですが、すべてを振り返ろうとすると数が膨大すぎるうえ、私も網羅できていません。
 そのため純文学系の文芸誌に掲載された創作のなかから「文學界の新人小説月評対象作だった中編(+α)」に絞って振り返っていきます!
 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。
 はじめに下半期の五大文芸誌+αについて振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!
(SNSに投稿した感想と、個人で残してあったメモに追伸や切り貼りをしたかたちで載せています)


振り返り

文學界

 今年の文學界新人賞は二作品が受賞しました。

 まずは福海隆さんの「日曜日(付随する19枚のパルプ)」(5月)。 マジョリティの「配慮」によって却って平穏を脅かされるゲイカップルの日常が、19の章立てで描かれます。 社会を生きる物語(1〜9)、日常を生きる物語(10〜19)のパートを分断して交互に描くことで「平穏な日常」を護ろうとする構成になっています。

 語り手の〈私〉が攻撃してくるマジョリティに嫌味や皮肉を投げ、佑基が「10」以降のパートでは汚いとされる死骸や吐瀉物を目にすると赤子のように喃語を喋る(そしていきなり元に戻って正論を語ったりする)、そういった飄々とした語り口が面白さを宿す 一方、そうした「真正面から受け止めない」態度をとることで世間の攻撃に対し防衛規制を働かせており、それがマジョリティの過干渉とは別方向から、常に破綻の可能性を匂わせるようになっていました(つまり二人の穏やかな日常はマジョリティに干渉される以前から、自らへの抑圧によって、ある種歪んだかたちで成立している)。その生きざまと不穏さに、面白さがあります。

 そしてもう一作が旗原理沙子さんの「私は無人島」(文學界5月)。 友人の中絶したい意志を受け、子瓜島なる場所まで人探しに行く女性のお話です。 生活と密接に結びつく社会・文化から離れ、ほんらい社会に左右されないはずだった産む行為(あるいはそれにとどまらない)の選択権を取り戻す過程が、日常から離れた独特な場所を通して描かれます。

 コミュニティに受け継がれている伝承が二種類あり(同じ女性が出産する話と中絶する話)、それぞれ内容が対になっている設定が白眉。出産も中絶も正解が存在するものではなく個人が選ぶものであり、それゆえ社会通念を理由に迷うとき、社会のシステム(家族制度など)に選ぶ権利を簒奪されている、と示されています。

 そして伝承を受け継ぐのではなく(≒文化、社会通念として固定化するのではなく)、あくまでも個人によって、個人の物語として語っていくのだ、とする向きも全体構造と調和がとれていました。社会や文化が形成されていない、最も離れた場所である「無人島」だと自らを定義することで「個」を獲得する結末もきれいです。

 そして3年ぶりの新作中編となる尾崎世界観さんの「転の声」(6月)は今期最大の注目作。転売用のアプリやSNSがある世界で、権力を手にした転売ヤーを疎みつつもプレミア至上主義(転売額を自らの価値に直結させる)を内面化させた男をアイロニカルに描いていきます。 転売ヤー(プレミア)に強い権利を持たせる仮定から、付加価値をコンテンツに介入させることで演者と観客の分断、つまり届け手と受け手の関係が崩壊すると予言した一作でもありました。
 
 あくまでも付加価値だったはずのものが、付加される側だった元々の絶対価値(音楽)と逆転し、完全に乗っ取るまでの過程がとても面白く、やがて訪れる付加価値のみしか存在しなくなる瞬間、音楽の消失による空洞――がスタジアムに流れ込む群集心理(なにを求めているのか、その実だれも理解できていない状況)によって体現されるラストも美しいです。

 サブスクの浸透などにより消費しきれないほど身近なコンテンツがあふれ、却って「時間をかけて音楽を聴く」行為よりも「コンテンツにかかわる瞬間」自体に意味を見出すようになった(付加されている知名度やブランドの力が強くなった)、あるいは付加価値に頓着しない(纏っていない)人間を「定価」的人間だと見なすようになった現代世相への警鐘として素晴らしいものとなっていました。転売と向き合う/ライブを鑑賞するファン心理の分析も面白いです。

「転売」を皮肉りながらも戯画的に描いているため、笑えるフレーズが頻繁に出てくるのも楽しいところ。前作「母影」からがらっと雰囲気を変えている一作です。


 そして、あらゆるジャンルで八面六臂の活躍を見せている坂崎かおるさんの「海岸通り」(2月)にも注目。老人ホームの清掃員がウガンダ人の後輩と交流を深める本作には 「言葉の反復」が随所に見られ、それが寄って返す波、日本文化の習得、掃除と労働、認知症、文法的誤りに着目した「正しさ」を巡る問答など、多彩なイメージにつながっていきます。

 また、同じ言葉の反復が随所に見られる一方、「おそらく、ぜったい」「けっこうきっぱり」のような不確定→確定に流れる言葉の連なりも散見され、 言葉を繰り返しているうち、正しさが存在しないとしても正しいものは顕れるはず、という願いも感じ取れます。

「フツー」がずれている語り手のモノローグもユーモアラスで、言葉の重複を抜きにしても面白く読ませる文体となっており、家族を模したコミュニティの物語としても読める、幅のある解釈が可能な懐の広い小説となっていました。


 そのほか、青野暦さんの「草雲雀日記抄」(5月)は、著者の過去作から一貫している「言葉で物語られていく個人・世界」のありようを追求した物語。今作では主な語り手を担う男性が、自らが語られている日記を読む過程を通して、自分自身が他者に語られることによって出来上がっているような感覚を「言葉」にしていきます(そして、その「言葉」にする営みにもメスを入れていく)。人称の混濁や視点のスイッチも巧みで技巧を施しながらも、流暢な文章が持ち味として光っている一作。


 大濱普美子さんの「空に突き刺さる屋根」(1月)は、裕福な男性が幼い頃に遊んでくれていた「ジイヤ」との日々を回想していきます。ぼんやりと抱いている背徳感や寂しさが死者のいる「天」へと接続され、天からの視線を読み手に抱かせる点が面白いです。 また、天からみている/みられている感覚は常にいないはずの第三者的存在を匂わせ、最後にやってくる現実からの乖離も違和感なく作品に溶け込んでいました。幻想文学の名手です。

新潮

 前期は九段理江さんの「東京都同情塔」で芥川賞を射止めた新潮。今期は対象作が少ない代わりに粒揃い。

 なかでも注目は朝比奈秋さんの「サンショウウオの四十九日」(5月)。 胎児内胎児だった父親からうまれた、自分だけのものを持たない結合双生児の姉妹を語り手に据えた意欲作。私たちのほとんどが「単生児」(あるいは非結合双生児)であると突き付けたうえで、 彼女たちの思春期的悩みや身体性からくる拗れが、思考を共有する文体で描かれます。

 題材が良いのはもちろん、過去作よりも文体やテーマ、構成のまとまりが自然になっており、特に肉体が死を迎えて独立した意識だけが取り残された瞬間、世界はどう見えるのか――という死の更新を描こうとする根源的な問いかけは、前作「受け手のいない祈り」終盤よりも整理されていて、題材とも噛み合っていました。意識が意識を信じることで生まれ直す瞬間も希望が詰まっており、他者と共有されるこの文体こそがむしろ自然ではないか、と思わせる説得力があります。

 細かいエピソードや文章も効いており、すでに芥川賞を受賞しているような貫禄すら感じさせます。

また、芥川賞の候補に選ばれたこともある覆面作家、内村薫風さんの「ボート」(2月号)にも注目。 病気を患い安楽死を願う父と、兵士を動員する戦争を接続することで見えてくる「自らにピリオドを打つ権利」の剥奪。 それを私小説(風)に描くことで、どうピリオドを打つのかを探ります。

 癌を患い亡くなっていく父を看取る私小説的な話ではあるものの、父親の造形はどこかチャーミングで魅力的です。「ナショナルボール」なる架空のスポーツも説明がコミカルで、(それが戦争の解決策になり得るかはともかく)面白く読めます。 そこに余命半年のオランダ人女性も人懐っこく絡んできて、二人がリモートで会話する場面は「死」の空気を感じさせません。

 ただ、だからといって明るい作風でもなく、たとえば「ナショナルボール」は父親が戦争への打開策として真面目に提示しているものであるし、父親のせん妄状態や安楽死を願う感情も詳らかに描かれ、切実さが物語の裏側を一貫して走っていました。

 編集者とのあいだで「つまらない小説になるのがオチだから、ほかに書きたいと思えるものが浮かぶまで待つことにしましょう」と確認し合ったにもかかわらず、こうして書かれてピリオドを打たれている。そこに自由意志を宿している一作です。

 そしてエンタメジャンルから殴り込んできたのが、川村元気さんの「私の馬」(4月)。 惚れた馬を愛していた女性が会社のお金を着服し、エスカレートするにつれて愛のかたちが変容していくまでを赤裸々に描きます。言葉と金銭をコミュニケーションの手段として使うようになった人間が、感情に基づいたコミュニケーションを喪失、放棄する過程が丁寧に描かれていました。馬に「貢ぐ」ことで、本来あった「種族を超えた愛」と「愛を示す人間的手段(金や言葉)」の比重が逆転していく過程も自然です。

 着服する金額の増加に伴い、語り手が語る高尚な内容とは矛盾して俗に墜ちていく感じも面白く、金銭を失った語り手が最終手段として言葉を使って馬を従えようとするも、鮮やかに裏切られて「ただの馬」と「ただの人間」になる結末も鮮やか。馬の奔放さ、自由さが人間の不自由さを現実に照らし、一方で夢も与えてくれる存在であると明かす一作。

 そして新潮新人賞受賞第一作となる、赤松りかこさんの「グレイスは死んだのか」(4月)。人間と犬の主従関係が、社会から逸脱することで破壊される過程を描いていきます。〈かれは森においていっとう大きな生き物だが、もっとも貧しい〉突き付けが丹念に描写されており、人間の抱える特権的な尊厳に価値はあるのかを問うスケールも大きいです。

 調教によって相手の尊厳を奪う行為は、翻って自らの尊厳を護ることにもつながる。ただ、その人間が必死に護ろうとする尊厳には意味があるのか、遭難した男が少しずつ尊厳を手放し、生存していこうとするさまが生々しく、面白くもありました。 社会の価値観に躾けられている人間はいちど社会から離れると無力だが、人間に調教された犬は自然によって却って尊厳を回復し、すなわち死んで生まれ直せる――それを人間に当てはめるラストも痛快です。

群像

新人賞の当選作が6月号にて発表された群像。今回は優秀賞を含めて二作が受賞しました。

 当選作は豊永浩平さんの「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(6月)。 異なる時代の沖縄を舞台に、人々の多様な語りをランダムに配置したうえで、身体性を接続した場面転換を施していきます。 それにより時間 = 身体として結び、おざなりにされる個々の身体の積み重ねによって、沖縄の歴史を語り切ろうとした大胆な一作です。

 戦時中の軍国主義、戦後の米国による占領、学生運動、家族制度、ジェンダーの不平等、あるいは現代的な若者が抱える虚無にいたるまで、あらゆる理由で自らの身体の主導権を喪っている状況が一人称で語られていき、その喪いかけている身体同士をランダムに、大きな語りに接続してひとつにしていくことで、壮大な歴史のなかに存在している個を却って取り出せるように描く試みが面白いです。 題の意味にもある「時間を大事にするべし」はそのまま、「身体を大事にするべし」でもあります。

 そしてなによりも、一人称語りそれぞれの書き分けがとても上手く、その書き分けを堪能するだけでも楽しめます。まったく味の違う文体がいずれも怒涛の筆致で語られていく贅沢さが何よりも魅力的。

 また、異なる語り口に沖縄独自の言葉を共通させることで一貫した軸をつくるのも「方言」を用いた表現技法として珍しく、新鮮でした。 方言が語りにバリエーションを出すための特異なものではなく、むしろ多様な語りのなかに通った一本の芯(普遍なもの)として位置づけられているのは、目を見張るばかりです。当選も納得の力量を兼ね備えています。


 優秀作は白鳥一さんの「遠くから来ました」(6月)。 喪失や出会いを繰り返して引き継がれていく「喫茶テンテン」と、お店に関わる者たちの25年間の積み重ねを描く——という筋に対して、時間と空間を混雑させた語りによって「積み重ね」を分解していきます。それにより、登場人物の「思い出す」「忘れる」などの行為をより抽象かつ曖昧に、つまり現実により近いものとして提示できているところが魅力的です。
 
 また、時間制が飛び飛びになる特異な語りを時空間の離れた「遭難者」の存在を常に予感させる(大きく物語に干渉させるわけではなく、あくまでも「予感」に大きな意味を持たせているところがすごいと思う)ことで成立させ、生死のスケールでも物語を展開していく点も壮大さを抱かせる佳作です。


 そして、群像新人文学賞受賞第一作となる松永K三蔵さんの「バリ山行」(3月)も素晴らしい出来栄えでした。 建物の外装修繕を担う会社に勤める男性が社内サークルの登山を趣味にするようになり、そこから「バリエーションルート」なる登山ルートをわざと外した登山方法を知るという筋。「危険」とされる行為にそれでも意味を見出す心理が的確に描かれていました。

 作中における「バリ山行」は整備された登山道をあえて進まない、人間社会から離れる手段だと位置付けられており、だからこそ孤独に意味があり、安息や喜びを手に入れられるものとして扱われています。一方、人間に囲まれる秩序立った生活から逃れて、安息を獲得するための手段も現代では決して「遊び」にはなりません。コンプライアンス等で人間の視線がどこにでも介在するようになり、より秩序が強化される現代社会の世相がテーマとして重ねられます。

 その点を踏まえたうえで、「登山道を外れる」のは危険だと周囲から謗られながらも、実際に自然の危機と隣り合わせの刺激をも手に入れられる「バリ山行」は、現代において社会的危機・自然的危機の両方を兼ね備えたものとして扱えます。なぜそれでも挑もうとするのか、という問いかけがより重層的になっているため、題材の扱い方が巧みです。

 また、語り手が勤める会社の「小口の顧客を切り捨てて大口企業の下請け一本に絞る」方針変化、水が漏れたわずかな場所を探す防水工事、整備されていない登山ルートを探っていく「バリ」の営み自体が、「大きなシステムから抜け出すための隙間を探す」行為に上手いこと結びつけられており抜かりがありません。 お仕事小説としても登山小説としても読めつつ、社会的な(あるいは自然的な)「危機」を顧みずに隙間を求めようとするその姿勢は、抵抗でもあって希求でもあります。

 ……というところはもちろん、圧巻なのは語り手が妻鹿さんと二人で「バリ山行」をはじめる場面。 仕事に関する会話や説明が繰り返されていまいち「登っている」感覚に乏しかった序盤の登山と対比され、二人の登山がはじまったとたん、登山道から離れたところに広がっている手垢がついていない「自然」の美しさが丹念に描写されます。語り手が仕事のことを忘れてしまっていたように、その光景に世俗は一切含まれません。 そして、登山道のほうが道としては開けているはずなのに、この道のない自然にこそ真に「開けている」と感じられる、大きなものと小さなものが逆転する瞬間に感銘を受けました。この描写の手触りがすばらしく、また、すばらしいからこそテーマを掘り下げられている物語でもあります。

 ほかにも、芥川賞候補作の「アウア・エイジ(our age)」以来となる岡本学さんの「X/Y - Z」(2月)は、箱庭ゲームと戦争ゲームの二つを接続することによって、「戦争」のメカニズムを浮き彫りにします。お互いがお互いを「コンピュータ」だと思い込んでいる設定が面白く、そう思い込むよう誘導する第三者も含め、戦争の「非人間的」さが強調されていました。 ゲームだけでなく、三者三様の日常生活から「見えない存在に翻弄されている・わからないまま操られている」感覚を描くのも、戦争のメカニズムを身近に感じ取れるようになっています。


 そして草野理恵子さんの「名前を呼ぶ」(1月)は、水族館で暮らしていた男の子の、罪意識からの逃れとして始まった魚籃観音の擬人化が、他者の理解を得られないうちに次第に本懐から逸れて献身へと発展していきます。 「言わない」行為は自己の抑圧であり、巡り巡って自己を殺すことになる、というなかで、「名前を呼ぶ」行為が現実を認める行為に相当する、救済として働く道筋を提示していました。妄想に陥った人間を描くに際して、良い意味で大胆さと繊細さを兼ね備えています。

すばる

 新進気鋭の作家が多く集った今期のすばる。

 気軽に読めて面白い小説をコンスタントに発表している石田夏穂さんの「世紀の善人」(1月)は、今回も面白い出来栄え。女性に雑用を押し付けてくる旧態依然とした会社を「弱肉強食の自然界」に見立てて、そこにいる区別のつかない動物たち(サンゾウ)の習性を“観察”していくユーモアお仕事小説。

 語り手は弱肉強食な縦社会の内側でサバイブするために、強者の習性を“観察”します。ただ、その結果として五感が異様に発達したり、本能的になったり、どんどん“野生化”が進行していて面白いです。 また、人間ではなく動物として眼差しているがゆえ、「嫌い」が「気持ち悪い」に転じ、はてには愛玩ペットのように「めんこい」とすら思うようになる、飼育者としての一貫したプライドとこだわりは、読んでいて気持ちよさすら抱かせます。

 そして前期、「blue」が芥川賞の候補作に選ばれた川野芽生さんの「無茶と永遠」(4月)は、 何世代にもわたる壮大な「不思議の国のアリス」の再解釈。過去に紡がれた物語を基に「魔女」的な在り方を探りつつ、今回は〈テキストを引き継ぐ〉ことの意義が小説的構造に重ねられていて、文体の使い分けの上手さも相まって面白く読めます。 近代〜現代の女性の抑圧に対する抵抗として「招待も許可もしない」、無茶を楽しむ魔女的な生き方を描くなかで、それでは彼女たちが大人になったらどうするのか(魔女ではなくなるのか?)という問題と、真正面から向き合っていました。 テキストの継承によっていなくなったものを描き、始まりも終わりもない「永遠」としていくのもよいです。
 物語の構造が鮮やかすぎるほどに成功していて、なおかつテーマ / サブテーマとも噛み合いのある、完成度の高い小説です。

 リーダビリティの高さが際立つのは、小池水音さんの「あのころの僕は」(4月)。 脳のがんで母親を亡くし、立ち直れていなかった「あのころの僕」が幼稚園でさりかちゃんと出会い、ゲームをした日々を思い出そうとする回顧録。

 語り手の天は母親の喪失をきっかけに「目に見える世界」をほしがっていて、それゆえに攻略本で網羅できるようなゲームの世界に没頭します。ただ、ゲームを教えてくれて、可視化のきっかけを与えてくれたさりかちゃんはゲームを辞めて勉強をはじめ、目に見えないほど大きな現実に立ち向かおうとします。 それを機にしたすれ違いは、子ども→大人による社会的広がりと重ね合わせられ、「精神の成熟」問題として括られそうにも思えます。 しかし、だからといって大人になれば挫折せず、現実のすべてが見えるようになるとは限りません。大人になったら必ずしも「目に見える」わけではなく、子どもの自分にしかわからない景色がある――とつなげていく視点がよいです。


そのほか、水原涼さんの「台風一過」(5月)は独立した短編が三つ。交際相手と別れ、はっきり変化した生活のなかからかつての名残を見出す、いわば「過ぎ去ったあと」に残っている断片を思い出していく内容が続きます。二瓶哲也さんの「ふたご理論」(6月)は重度の脳梗塞を患った男性と、彼が主演の映画を撮ることになった歯科衛生士の視点が交互に語られます。「脳梗塞になった」ことへのドキュメンタリーから徐々にずれていくことで物語の定型を外れ、ひとつの事件(過去)の背景が露わになっていく――という構成が鮮やかです。山内マリコさんの「ペンと絵封筒」(5月)は一方的な書簡形式という体をとることでミステリーのように文通相手のことを想像させつつ、大正を生きた女性たちの生きざまを活写します。芸術の論壇の在り方についてもメスを入れていく一作。

文藝

最近の文藝はおそらくたまたま、幽霊にまつわるお話が多い印象。次号予告の特集もホラーです。

 そんな文藝掲載作のなかでも、向坂くじらさんの「いなくなくならなくならないで」(夏季)は「幽霊」として扱われる人間を描いた秀作。 死んだはずの友人から四年半ぶりに連絡があった、という一見ありがちな筋から、友人が家に住み着きはじめることで不穏な方向に進んでいきます。

 過剰なケアをする/される関係が発展して幻想を託す託される関係となり、おたがいが現実を生きる個人から離れた「幽霊」になる。そして立ち現れた虚構性の「心地よさ」によってさらに現実を乖離し、沼に落ちていく――その過程と圧倒的〈現実〉の襲来によって訪れる破綻、そして破綻により発生する「どちらが生者となるか」の戦いがアップダウンの激しい展開で描かれており、紙幅以上に濃い内容です。

 理想を投影した憐憫や愛情と現実的な苦しさのせめぎ合いの描写がうまく、特に「取っ組み合いになるかセックスするか」という一見すれば意味不明な、一触即発な状況を緊張感とともに違和感なく成立させていたところが素晴らしい。 基本的に「解決したと思ったらすぐに突き落とされる」「極度の緊張状態に第三者が介入して場が流れる」の二パターンで進行していくので、読みながら常に脱臼させられている感覚も抱けます。

 もうひとつの幽霊が、長井短さんの「存在よ!」(春季)。本物の幽霊と、幽霊のように扱われる女性が友人関係を結ぶシスターフッド。 立場の異なる二人を通して「幽霊の扱い」について再考することで、存在を透明なものとして扱う差別と、安易にネタとして消費する加害性が二重に浮き出るようになっています。設定がよく、趣旨も明快。 認知されることで透明ではなくなり主体性を獲得する人称の扱いかた、つまり「私」の浮上する瞬間がとてもスムーズかつ自然です。

 また、王谷晶さんの「蜜のながれ」(春季)も、幽霊を描いていました。 文壇の内実を描く小説として在りつつも、男性作家が老いを意識しながら実態のないもの(マーケティング/コンプライアンス)に敏感になりすぎるあまり自他を“幽霊”化していく、 存在するもの/しないもの の関係を逆転させた、『蜜のあわれ』の変奏です。存在しないものに依拠して生きていくことで現実の対人間同士のつながりから遠ざかっていく「幽霊ばかりの社会」を、善悪で断じずフラットな立場から活写していきます。


 そして早助よう子さんの「天一坊婚々譚」(夏季)は「花嫁学校」という閉鎖された空間に行くことになった天一坊を語り手に、婚姻制度を風刺した一作。友人関係を切り捨てさせ、家畜として扱う家父長制度への批判を示すのはもちろん、花嫁の在り方を学びすぎた結果として自立できた女性が疎まれ、却って貰い手がいなくなる(先行きがわからなくなる)ところに痛烈な皮肉を抱かせます。

そのほか

 今回の林芙美子文学賞は受賞作が一作、佳作が一作。受賞作は大原鉄平さんの「森は盗む」(TRIPPER春季)。は設計士の女性の日常を日常として描いていく、オーソドックスな小説。建築を題材にしながら「居場所は与えられるのではなく、自分でつくる」だけで終わると外面的な話に留まっていて味が足りない、からこそ、内側の充足をも示すお弁当箱のエピソードをどれも美味しく(面白く)読みました。 「ものには居場所がある」という言葉の通りに、そこに当てはめるのが相応しいであろうところに在るべき言葉がしっかり収められている、構成の巧みさを全体から感じさせます。過剰にドラマチックにしない手触りもよいです。

 そして佳作が鈴木結生さんの「人にはどれほどの本がいるか」(TRIPPER春季)。 大量の本を所蔵している唐蔵餅之絵の人生を書き記した小説、を軸に、一見して意味のない物を収集していく「趣味」の是非を巡る一作です。 他者からはよくわからない愛でも当人には意味があり、収集する個々に思い出がある。大きな愛と小さな愛(ここでいうと、総体としての本と、タイトルがそれぞれ存在する本)の重なりを少しずつ開示していく構成と、関係性の描き方が巧み。作中で披露される数多の作品蘊蓄が展開に大きな影響を及ぼすことはない一方、言葉のもじりなどの細部の設定や人格に宿る、といったあたりでも、大小の設定がうまく活かされています。

 また、三田文學新人賞の佳作を受賞した石澤遥さんの「金色の目」(三田文學春季)は、女子大学生の生活描写の細かさが秀逸です。現代だとほとんど見かけなさそうなノリで繰り広げられるサークルの飲み会も、シチュエーション自体は定型でありながら、観察の視点によって独特の面白さを獲得していました。見る視点の細かさ(意識の高さ)と対をなすかたちで、みられることなく流され続ける語り手の態度も印象に残すようになっています。


鳥山まことさんの「欲求アレルギー」(三田春季)は、 欲求を発散するとアレルギー反応を起こしてしまう男性の、無意識に湧き上がる「欲求」を意識的にコントロールする無理難題に挑むすがたが面白い一作。

「欲望アレルギー」を抱える語り手にとって反応を止めるための手段になるのが、人間の欲望の権化でもある(ひたすら天へと積み上げていく)建造物の解体音を聴くこと、という設定も絶妙。
 欲望を衝動的に発散≒崩壊させてしまうのではなく、いかに安全に、意図的に「解体」していくかを思案する手つきと噛み合わせながら、どうやっても欲望から逃れられない人間の業とも向き合いきれています。そうした人間味に親近感を覚えるようになる過程も丁寧に描かれていました。

 小森隆司さんの「背に乗る者と草原をゆかん」(三田文學冬)は父も母も介護しなければいけない状況に陥った語り手が、馬になって“背負う”覚悟をする、老老介護の現実を示した物語。 父親が亡くなったことで背負う責任が集中し、結果的に余命わずかな母親と向き合う機会を得られた、という話の筋がきれいです。 一方、母親が父親の介助に疲れ切っていた状況を想像すると、語り手の将来をもどうしても考えてしまう不穏さをもたらしていました。

 工藤千尋さんの「ファム・メゾン」(TRIPPER春季)は、脚が不自由で子どもをうめない叔母と二人暮らしをする大学生を語り手に、つながるところが同じでもわかちあえない他者の「痛み」と向き合う過程が描かれます。自らの肉体(と、それに付随する体質)の軋みを描く際、わびしさを強く抱かせるような文体で書かれているからこそ、受け入れながらも屈しようとしないラストはより希望として映ります。

また、三島由紀夫賞の候補作にも選ばれた間宮改衣さんの「ここはすべての夜明けまえ」(SFマガジン2月号)も対象作。嫌っていた身体性を喪失しても家族に搾取され続けた女性によって紡がれる家族史です。 ひらかれた平仮名で書かれる、世俗からの乖離を抱かせる筆致にふと混ざる〈アスノヨゾラ哨戒班〉のような現実の固有名詞によって人間を感じさせるようになっており、短い紙幅で多くのトピックが盛り込まれていました。

 最終的には、「人間の肉体を持つ非人間」と「非人間的な肉体を持つ人間」、 人間から遠ざかった異なる二者が極めて人間的なコミュニケーションを交わす、その尊い瞬間を描くことで、意思をもったひとりの人間として生まれなおしていきます。 書く / 話す による印象・役割の違いも上手く書き分けられていました。

予想

展望

 下世話ではありますが、芥川賞候補に何が入るのかの予想も立てていこうと思います。
 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。


 まず、芥川賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、例によって文學界に掲載されていた作品の検討から。

 芥川賞の候補に入った経験もあり、ネームバリューもある尾崎世界観さん「転の声」はほぼ確実でしょう。作品内容も文句なしの一級品。

 さらにもう一作、新人賞受賞作かそれ以外か——といったところですが、今回は純文学以外のあらゆるジャンルで活躍し始めている坂崎かおるさん「海岸通り」が入るのではないかと予想します。短編の名手だからこそ、短編〜中編の賞である芥川賞でさらなる輝きを放つのでは。

 他誌にいくと、群像新人文学賞を受賞した豊永浩平さん「月ぬ走いや、馬ぬ走い」は話題性が高く、世評からしても入る可能性は高そうです。前期は珍しく新人賞受賞作が候補に入りませんでしたが、もともと毎回一作以上選ばれるのが定番です。

 そして作品の完成度がひたすら高くなっていく朝比奈秋さん「サンショウウオの四十九日」も流石にそろそろ……といったところ。なお、私は朝比奈さんの作品を「植物少女」「あなたの燃える左手で」「受け手のいない祈り」と直近三期にわたって候補作予想に挙げつづけており、一度も選ばれていないので、こうして挙げることに引け目を感じはじめています。

もう一作は非常に悩むところですが、受賞第一作で題材の扱いも巧みだった、そして私が好きだった松永K三蔵さん「バリ山行」を挙げます。
 そのほかだと、石田夏穂さん「世紀の善人」、川野芽生さん「無茶と永遠」、向坂くじらさん「いなくなくならなくならないで」、岡本学さん「X/Y-Z」、内村薫風さん「ボート」……あと五作品ぐらい挙げてしまいそうなので打ち止め。

 というわけで、今回の予想はこの五作品です!ででん!

第171回芥川賞 候補作予想

朝比奈 秋「サンショウウオの四十九日」(新潮5月号)
尾崎 世界観「転の声」(文學界6月号)
坂崎 かおる「海岸通り」(文學界2月号)
豊永 浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(群像6月号)
松永 K 三蔵「バリ山行」(群像3月号)
(五十音順・敬称略)

  例年よりも混戦気味の今回。朝比奈さん、尾崎さん、豊永さんの下馬評が高めですが、どの作品が候補入りしても驚きません。

 そして最後に、私の好みだけで選んだ、私的芥川賞候補(下半期のベスト5作品)も記して終わろうかと思います。

私的ベスト五作(五十音順)

赤松 りかこ「グレイスは死んだのか」(新潮4月号)
石田 夏穂「世紀の善人」(すばる1月号)
尾崎 世界観「転の声」(文學界6月号)
豊永 浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(群像6月号)
松永 K 三蔵「バリ山行」(群像3月号)
(五十音順・敬称略)


 上半期もよい小説がたくさんありました。あとは芥川賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。

 それでは、ごきげんよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?