哲学者と両脳交互思考

道徳情操論』アダムスミスの著作

道徳的適切さを指摘した上で、第三者である「公平な観察者」が「同感(sympathy)」でき、当事者は「内なる人」として内面化する。そして、常識(良心)とは、第三者の目で見るということで、「自己規制」しつつ相互行為するものである。そして、これにより、内なる道徳を持つ「フェアプレー」の世界である社会が形成されると主張する。この文章を読んで、思考が同位してると認識した(アダムスミスは科学的には理解していなかった、左脳、右脳の機能と、自分が両脳交互思考をしているのを)

ソクラテス」問答法とは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが用いた、対話によって相手の矛盾・無知を自覚させつつ、より高次の認識、真理へと導いていく手法を指す。

前文はソクラテスの対話法といいますが、ソクラテスは気づきました、考えれない人がいるが学習知識で見分けがつかないし、本人も認識がないので、お互いが知識の及ばない分野での論理的対話に措いて論理思考追及出来ないのを立証するため(ソクラテスは未だ理解していないが私の推論の導き)

デカルト『われ思う、ゆえにわれあり』よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しい    (すべての人が自分んと同じ思考とした前提であり、両脳交互思考の真理の断定)

(デカルトが方法的懐疑を行った)一つ一つの事がらについて、その疑わしい点、それがわれわれを誤らせやすい点について、反省することに心を用いつつ、前から私の精神に忍びこんでいたすべての誤謬を、次々に根こそぎにしていったのである。(左脳の観念と右脳の観念との両者的にの観念のする合わせの段階での自己感覚の表現の説明)

ショーペンハウアー  なんであれ、人は忘れることができる。ただ自分自身、己自身の存在を忘れることはできない。(生得的思考)

書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。

(無思想、思考停止、考えれない人)

学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人である。(思考停止と両脳交互思考)

実務的な生にとって、天才は、劇場での遠眼鏡よろしく、必要なものである。

(両脳交互思考者の必然性)

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