第46回「意味、とか」

ご無沙汰しております。

8月の投稿を最後に長く更新途絶えておりましたが再開します。

原因としては直前のnoteにも書いているようにPCの不調なんですが、その後画面が完全に点かなくなりました。
PCを借りて作品執筆はしていたものの、他人のPCで色々とログインするのが面倒だというのもあり、更新が止まっていました。

もちろんその間も競馬は継続していましたよ。
なお全敗。

つい先日新しくPCを購入し、今週末は牝馬三冠の最終戦、秋華賞。牝馬レースでは割と調子がいい、と思っている私としては気合が入ります。
そこでnoteの予想も再開します。予想自体は出馬表が出てからなので、明日以降更新いたします。

今回は、8月から10月までにあったことをもとに、思ったことをぬるぬると書き連ねたいと思います。
よろしければご覧ください。

第46回です。

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とはいえやっていたことはそんなに多くはありませんが。
人は終わりが見えると振り返りたくなる生き物。私も例外ではありません。大学生活の終わりが見えたことで、この2か月ほどは振り返る日々でした。

そもそも振り返りとはなんのためにあるのか。ケースバイケースだと思いますが、終わりに直面したときの振り返りは、意味を探すためにあると考えています。

そのゴールにたどり着くまでの道のり。目まぐるしく過ぎる日々。がむしゃらに送って、もがくように進む人がほとんどだと思います。そのときそのとき、立ち止まって考える余裕は暇はない。
だからこそ、ゴールが見えたとき、少しだけ肩の荷が下りて、後ろを振り返れる。ぐちゃぐちゃな足跡を、少しだけ愛おしく思える。

苦労や苦悩や苦痛や苦渋を、肯定するには、自分が納得するには意味が必要です。要するにそれらが必要なものだった、尊いものだったと、直感的に愛しさを感じていることに、理由が必要。

人間は一つのキャラクターではありません。こういうタイプだからこう考えている、という方向性はあるでしょうが、それは100%全部ではない。それでいいからこそ、苦しいものは苦しいと認めなくては。
以前から何度か書いていますが、しんどい気持ちをごまかす必要も、悪者にする必要もないと思います。苦しいんですもの、しんどいんですもの、しゃあないです。それは嘘じゃない。なんのために自分はしんどいんだってわざわざ錯覚させる必要があるんでしょうか。

ともかく、苦しい自分と、それを否定し鼓舞する自分、受け入れて進む自分。まとまりも一貫性もなくても、そういうもの。
しかし過ぎた時間と、そこでやってきたことだけは、取り返すこともできないうえに、事実と経験として積み上げることしかできません。

逆に言えば、積み上げられているだけ。それだけでは、そこに意味はありません。もちろん一つ一つ、考えて過ごして、意味を見出していくことも必要です。しかし振り返って、そのときに感じた意味すら吟味する。それが、終わりが見えたときの振り返りの必要性。

まぁこの振り返りもまた、長い人生の一部。
何年後かに見返せば、また異なる意味が見えてくるものでしょう。噛めば噛むほど味が出る。ビバするめ人生。

大学の卒業は、大学生活の区切り。しかし、多くの人にとっては学生、学校という環境から離れる区切りにもなります。私も例外ではありません。
また、私にとっては自身の生活環境が大きく変わる区切りにもなります。
大きな大きな区切りです。

大学生活で、鈴龍かぶと、あるいは鈴木龍、ほかの名前で色々作品を書いてきました。それだけでなく、学生として雑誌の編集作業などにも携わりました。すごくいい経験をしてきたと自負しています。

大学4年生になると、やはり生活の中心には就職活動が割り込みます。目をそらせない現実としてか、あるいは自分のやりたい職につければという理想か。どちらにしても逃れることはできません。
将来の選択のときです。

ふと、同時に先が見えるときがありました。
いつ終わるともわからない就職活動。しかしいつか終わりはやってきます。

なら、そのあとは?

大学生として、過ごせる残された時間。ただ卒業のために過ごす日々になるのではないか。つまり記憶の中の大学生の思い出を構成するのは、3年生までの日々になるんじゃないか。
なんというか、急に部屋の電気を消したときのような、孤独のような、虚無感のような、少なくともプラスの感情ではないものに襲われました。

それはいやだ。

答えはシンプルに出ました。
しかし難しいのは、もう4年生であるということ。忙しさではなく、残り時間の少なさです。自分に残る時間で何ができるのか。
ここで私は、今までの自分の活動において、個人の制作を除いて、自ら0からなにかを作ったことがないと気づきました。
長く続くプロジェクトのバトンを受け取り、次世代に渡すこと。すでに出来上がっているコミュニティの中で自分の役割を見出し、果たしていくこと。
それらが悪いこととは考えていませんが、いざ何かやりたいと考えてみると、やったことがないと今更気づきました。

そんな折、大学の同期が立ち上げた同人誌の制作プロジェクトへの参加の誘いを受けました。
これを主導している同期は、上記の私とは反対に、自分でやりたいことがあれば自分一人の力で成している人、多方面に作品を作ったりプロジェクトに参加したりしている人、制作を突き詰めて結果にしている人、という私にしてみれば無敵のメンバーでした。

その中で私にできることとは?
それはイコール存在価値。
ないんじゃないか?
つまり私が参加する意味はない。

断りました。

4年経って大学はホームになりました。入学時のそわそわとした緊張感とよくわからない逸る感情はなくなり、安心できる、落ち着く場所に。
今更、自分の無力さを思い知るような場所に行く意味はあるんだろうか。それに正直、彼らは怖い。なぜそんなことができる? なぜそんなことをする? 私とは住む世界が違う。見えているものが違う……。

大学の校舎を見上げ、入学前を思い返し。今ならわかる。
そわそわした緊張と一緒にあった、あの逸る感情は、恐怖。
新しい場所、知らない場所、そこに行く恐怖。暗闇に進む恐怖。

しかし不思議なことに、逸る恐怖は、足を止めることではなく、進めることをせかす。それはおそらく、大学の入学にあたって、私が色々なことに挑戦したいと考えていたからだったのでしょう。

後悔なく死ぬ。

理想論でも、追い続けることをあきらめたら、それこそ後悔することになる。だからこそ、この恐怖に従うしかない。

ぶわっと、血がたぎるように、思い返される恐怖心と緊張感。しかし4年の経験で私が得たのは、確かな自信です。
この恐怖心と緊張感に挑むことに、私はぞくぞくとした興奮を覚えました。

そうして、参加を決めました。

私は、この活動に誘ってくれた同期の彼らに感謝しています。
ひねくれている彼らの人間性が好きです。
そういう一面を知れた。知らなかったら、参加しなかったら、何年かあとに彼らの噂をしながら酒を飲んで手放しでほめたと思います。
すごいな、まねできない。俺とは違う。

でもそんなことはなかった。
もちろんすごいし、まねできないことをやってのける男たちです。でも私と違うことはない。同じように悩んで苦しんで、粘って、血反吐吐いて、妥協して、でもこだわって、身を削って、それでも、それでも、それでも。
泥臭くて人間臭くて、だからすごいし、まねできないと思った。
でも同じ人間だから、俺も負けてられない、やらなくちゃ、と思わせてくれた。
こう思っていることを彼らに直接伝えることをするつもりはありませんが、私の人生のなかで、大学生活の章があるとしたら、やはりこの経験は、本当に大きい。とはいえ何年かあとに、彼ら酒を飲みながら、このときのことを回顧して笑いあっていたら、熱くなってしゃべるかもしれませんが。

この活動をしたことで、残る大学生活も色々やろうという気になりました。
隠居なんてとんでもない。
大学4年生、まだまだ時間はあります。色々、特に大学でできること、学生だからできること、をやりたいですね。

そんなこんなで長くなりましたが、振り返り。
ここまでの道のりや出来事に意味、とか色々のせてみました。
これから先の日々にも。

…第46回 了

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ということで秋華賞予想を近々アップします。

また競馬予想noteになるかもしれませんし、ならないかもしれません。
上記の活動を通して、書きたい欲はあるので、手が回れば、積極的に更新していきます。

かつてのように、毎日更新のカクヨム作品とかもやってみたいですね。

ぞくぞくします。

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