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庵野秀明に告ぐ【シン・エヴァンゲリオン劇場版感想】

何も情報を入れずに映画を観るのが好きだ。ガチャガチャをまわす時のようなドキドキ感。最高の映画かもしれないし稀代のクソ映画かもしれない。最後までどうなるか分からないからこそ、自分にその映画が刺さったとき、その体験は一生の想い出になると思うのだ。


シン・エヴァンゲリオン新劇場版𝄇を観た。前日夜からネット絶ちして初日の朝さっそく観に行って、ひたすらいろんな人の感想をよんだら私も何かしら書き残したくなった、ので書く。最初に言っておくが筆者はカヲシンの腐女子である。CPメインの話じゃないし特に他CPについて攻撃したりはしないが腐女子に親を殺された人はバックしてほしい。あとエヴァファンとしてはペーペーなので「何言ってんだコイツ」と思いながら温かく見守ってほしい。


結論から言うと、とてもおもしろく心に残る映画だった。テレビアニメ版放送時には影も形もなかった20歳の私から見ても、である。だけどきっとこの映画は、かつて若者だった――エヴァに熱狂していた人々のための映画なのだろう。


と、本題に入る前に大して濃密でもない自分とエヴァの想い出を少し語りたい。所謂、自分語りというやつである。

私がエヴァを初めて真面目に見たのは大学一年生の夏、友人とともに徹夜してぶっ続けでテレビアニメ版を履修した。徹夜する必要とかなかったのでは?と思うがもうノリと勢いのなせる業だった。あと噂のカヲルくんが早く見たかった。めちゃめちゃ終盤に出てきた挙句すぐ死んでしまったけど。

そんな感じで最終話まで見たので最初の感想は「意味わからん」。もはや旧劇を見る余力はなく、友人とは最終2話が意味不明だったこととカヲシンの話で盛り上がった。一応考察も読んだがなんか凄いなあと思うだけで特に何の感情も湧かなかった。

私とエヴァの物語はここで終わるかと思われたが、友人のLINEがきっかけで物語は意外な方向へと舵を切る。

「エヴァQ めっちゃカヲシンだった!」

そこまで言うならみてみるかーと思い旧劇を飛ばして新劇を見た。エヴァQを見た。

エヴァQ にハマった。

そして、エヴァにハマった。

そう、私はあの悪名高いエヴァQからエヴァにハマったのである(腐女子の中では珍しいことじゃないのかな)。もちろん最初はカヲシン尊い……していたのだがエヴァQの考察動画や考察サイトを巡回しているうちにエヴァの世界観に魅了されていった。見ていなかった旧劇をツタヤで借りてきて、漫画版は全巻メルカリで買った。ネット上に漂う大量の解説を読み漁り、人類補完計画のあらましやメタ視点での考察も若干は理解できた。頭が悪いので未だにきちんと説明できないが。「いうてやっぱりエヴァQこそがエヴァなのよ」とかエヴァ未履修の友人に言ったこともある。痛いね。でも好きだよ、Q。

そんなこんなでシンエヴァの公開が近づいてきた。まだハマって間もないのに完結するのかと思うと少し寂しくなる。だがコロナの煽りを受け映画は延期。かわりと言うわけではないがファーストガンダムを履修した。やがて新たな公開日が決まりとうとうこの時が……と思いきやまたも延期。しかたないとはいえど辛い。今まで待ち続けてきた人の気持ちがほんの少しだけではあるが分かった気がした。

そして、公開日が決まった。さすがにもう延期はないだろう。最初は軽い気持ちだったけれど今はそこそこファンと言えるくらいになったはずだ。新劇は金ロー、旧劇はDVDで再履修しわかりやすい解説動画を見返す。これでも頭が追い付かなかったらもう知らん、後は頭のいい考察班に任せる。


3月8日。曇天。時は来た。田舎なので満席ではなかったが客入りは上々。灯が消され、映画が始まる。「これまでのヱヴァンゲリヲン」、OKOK。マリのエッフェル塔ぶっ刺しアクション、ここまでは知ってる。そして、見知らぬ天井。

トウジがいた。ケンスケがいた。そこには「世界」が広がっていた。登場人物の周りで展開される「セカイ」ではない、たくさんの人々の手によって紡がれている「世界」がそこにはあった。溢れる温かさと優しさ――ひたすら攻撃的に、馬乗りで殴られ続けるような衝撃を覚えた旧劇とは明らかに違う。

実のところ、私はエヴァが綺麗に完結する可能性はほとんどないと思っていた。きっと考察厨が狂喜乱舞するような心象風景やら精神世界やらが出てきてなんかよくわからん感じで終わるんだろうな。だってQからどうつなげれば綺麗に終わるんだよ。どうせ映画が終わってツイッター開いたら皆「やりやがったな庵野」とか言ってんだろ。

だけど、普通の人々との触れ合いの中で人間性を獲得していく黒波さん(とてもかわいい)や精神が大人になったアスカ(やりやがったなケンケン!)、アスカの身体を見ても「最低だ、俺って…」しないシンジくんを見て、そしてオチビサンの絵本を見て「もしかしたら綺麗に終わってしまうかもしれん……」という予感が私の中に芽生え始めた。きっと最終的なメッセージは旧劇と変わらない感じになるだろうけど、今の庵野秀明(敬称略)なら旧劇とは違った結末を見せてくれるのではないか?

私の予感は的中した。

信じられないくらい綺麗に終わった。よくわからないところもあったけれど大きな考察ポイントはたぶん大体回収されたし、キャラの心情も考察の余地がないくらいに説明されていた。特にミサトさんとゲンドウ。ゲンドウの独白なんてそのまま鬼滅の刃世界に転生してもやっていけるんじゃないかと思うほどの分量だった。なんで戦ってるのか、何をやりたいのかも非常にわかりやすかった。わかりやすすぎて本当にエヴァ?と疑ってしまうほどだ。渚指令のところは流石にさっぱりだったけど…(ユーロネルフの指令なの?それともゼーレの指令なの?破後だと加持さん死んでるよね)とにかくあまりにも綺麗で爽やかなラストに涙がにじんだ。

だけど、エンドロール中私は少し期待していたのだ。このあと何かがあることを。このままでは終わらないことを。

私が、というより私のずっと前からエヴァを好きだった人達の空気を感じとったのかもしれない。こんな綺麗に終わってたまるか。まだ続くって言ってくれよ。いっそのこと全部ぶち壊しても構わないから、だからどうか、行かないでくれ。


エンドロールが終わっても、誰も動かなかった。きっと何かを待っていた。

「終劇」

その二文字を見て、ようやくエヴァは終わったんだと認識した。拍手は起こらなかった。耐え難い喪失感とどこかふわふわとした満足感に包まれながら私は席を立った。


なんだか不思議な気持ちだ。私が初めてエヴァを見てからまだ2年も経っていないのに、ずっと前から見守っていたような気がする。いろんな年代の人が書いたいろんな時代の感想を見て、その熱量を追体験できたからかな。でも、だからこそ私にはわかる。これは私のために作られた映画ではない。

きっとこれは、25年前にテレビアニメを見て、シト新生を観に行って、EOEを観に行って――そうやって長い時間をエヴァとともに過ごしてきたファンと、他でもない庵野秀明自身が「エヴァの呪縛」から解放されるための映画だ。


旧劇場版で庵野秀明が観客に突き付けたのは「現実は夢の終わりである」「だから夢(=アニメ)ばっかり見ていないで現実に帰れ」という多数のオタクにとって非常に心が痛むメッセージだった。このあまりにも暴力的なメッセージに耐え切れず、エヴァ或いはアニメ自体から離れてしまった人も少なくなかっただろう。逆にますますのめり込んでいくファンもいたのだろうけど。

ただ、どちらにせよ旧劇で「エヴァの呪縛」を解くことはできなかったと私は思っている。怒りも苦しみも、虚無感も熱狂も、いずれも本当の終わりにはなり得ない。シンジは結局ゲンドウと親子喧嘩できなかったし、アスカの首を絞めることはできてもアスカを抱きしめて「好きだ」と伝えることはできなかった。傷ついても他者と生きていくことを選択したシンジは確かに希望なのかもしれないけれど、身体中が血まみれなうえに自分でリスカまでしている状態の人に「お前ら現実逃避ばっかしてんじゃねえよ。いい加減他人と向き合えよ気持ち悪いな」って言われながらナイフでグサグサ刺されてる気分になる映画を観て最初に導き出される感情はむしろ絶望だ。こんなのトラウマになるか開き直るかの二択ではないか。 

まあつまり何が言いたいのかというと、旧劇はエヴァの呪縛を解くどころか心の奥底まで打ち付けてしまったんじゃないか?ということである。そしてその度合いはたぶんその人の中でエヴァの占める割合が高かった人ほど大きい。映画館でそんな映画を観る経験は滅多にないと思うので私としては羨ましいが、当人たちにとって必ずしも許容できるものではなかっただろう。忘れたくても忘れられない。心の何処かでエヴァに囚われ続けている感覚。


シン・エヴァンゲリオン新劇場版はそういった呪いを丁寧に取り除く作業をしていた。根底にあるテーマは変わらない。他者とのふれあいについてである。だがアプローチの仕方は大きく異なっている。他者がいることの痛みや苦しみを主に描いていた旧劇とは違い、シンエヴァはむしろ他者がいることによって生じる愛や優しさにフォーカスされている。庵野秀明にも様々な心境の変化があったのだろう。Qでその辺の辛さが十分すぎるくらい描かれていたことも大きいと思う。やはりQは最強だった…?

シンエヴァが観客に触れる手つきは非常に丁寧だ。今までの謎や設定についてかなり詳細に(あくまでそれまでのエヴァと比べてだけど)説明してくれるし、私達が見たかったミサトさんや少年漫画の主人公みたいなシンジくん、そして思わず笑っちゃうような碇家親子喧嘩まで見せてくれた。一本一本丁寧に、あの時のファンに刺さったままの棘が抜かれていく。新世紀の方まで回収されて、今までの25年が無駄じゃなかったことも感じさせてくれる。

あの時首を絞めることしかできなかったアスカに「好きだった」と言った。ああ、本当に終わらせるつもりなんだと思った。これは爽やかなお別れのための儀式だ。共依存から抜け出して、それぞれが幸せになるための儀式。それはアスカだけじゃなくレイも、カヲルも、他のキャラクターも同じだ。そしてまた、ファンと庵野秀明自身も。

シンジは旧劇にいなかったマリの手を取った。拒絶し、傷つくことを繰り返してきたシンジが誰かの手を取って楽しそうに駆け出していくだけでもう泣ける。観客の背中をそっと押してくれるようなこの感じ。なんて優しいラストなんだ。


いやいやいや、ちょっと待ってくれ。と思う人もいるかもしれない。シンジとアスカがくっつかないどころかそれぞれ別の人を選んだっぽい結末になって、それのどこがオタクに優しいんだよ。結局「俺今胸の大きいいい女と幸せにやってるんだよ。お前らもいつまでも2次元に恋してないで現実の彼女つくって幸せになれよな」ってことなんだろ?EOEと同じじゃん。もはやEOEの方がマシだわ。シンエヴァはクソ。

実際公開初日のアスカスレにはこんな感じの呪詛が撒き散らされていた。怒りすらなく「アスカはただの絵だったんだ」と悟りの境地に達するものもいた。アスカ好きやLAS勢程ではないと思うがカヲシン勢も結構お通夜状態になっていた。「卒業した方がいいのかな」的な趣旨の呟きも一つや二つではなかった。

だがそこまでこの映画を悲観的に見なくてもいいのではないかと個人的には思っている。だってあの駅にはマリだけではなくアスカもレイもカヲルもいたんだから。シンジが彼らに存在してほしいと願ったから彼らはあの世界にいる。仕組まれた運命から解き放たれ普通の人間として幸せになってほしいというシンジの思いが、あの世界の彼らを形作った。紛れもなく愛だ。その先に、依存し傷つき合うことのないシンジと彼らの新たな関係性が生まれると考えるのはそんなにおかしなことだろうか?


90年代やゼロ年代のアニメオタクに対して世間がどういう接し方をしていたか、私は知らない。今よりずっと風当たりは強かったと聞くが、その空気感は当人たちにしかわからない。ただ、そういう時代の人にとってアニメはいつか「卒業」しなければならないものという意識がどこかにある気がする。でも、必ずしも「卒業」する必要はないんじゃないかな? 現実を捨てて過剰に逃避してしまったり、愛ゆえに自分や誰かを傷つけてしまったり迷惑をかけたりしなければ、「好き」であることは決して嘲笑されるものでも非難されるものでもない。

虚構があるから私達は現実を生き抜いていける。そして現実が無ければ虚構は存在しない。現実と虚構は等価値だ。だからこそ虚構を現実から逃げる手段にしてはならない。じゃあ私達は虚構と――アニメとどう接すれば良いのか。

「幸せになろう。なるべくみんなで。生きてる限り。そのためなら私たちきっと何度でも、仕切りなおせるよ」

エヴァのセリフではない。松本理恵監督の作品『京騒戯画』から引っ張ってきたセリフである。なんでこの作品を持ち出したかというと私が勝手に京騒戯画はメタフィクションなのではないかと思っているからだ。まあそれはおいといて、私達は「なるべくみんなで、幸せになるために」アニメを見ればいいのだと思う。アニメを見なくても幸せならそれでいいし、アニメを見ることによって幸せになれるなら離れる必要はない。虚構は虚構として愛していい。自分の中で何か心境の変化があったら「仕切りなおして」愛し方を変えればいいだけなのだ。だから「ただの絵」なんて悲しいこと言わないでほしい。……なんか話が脱線したな。


話を戻すと、あの駅のシーンは禍根やしがらみを清算したシンジの「仕切りなおし」である。駅を飛び出したシンジの未来には無限の可能性が広がっている。そのままマリと結ばれる(もしくは既に結ばれている)かもしれない。あの後アスカやレイ、カヲルともう一度出会って恋に落ちるかもしれない。もしくは全然違う誰かと生きていくかもしれない。庵野秀明がどう思っているのかはわからないが、明言されていない以上、どう解釈するかは観客の自由だ。

「おしまいじゃないよ。 むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ。」

私は『輪るピングドラム』が一番好きなアニメなのですぐ「実質ピンドラ」とか言ってしまうが、やっぱりシンエヴァも輪るピングドラム味にあふれてると思う。そういえばカヲルくんとシンジくんってどちらも「愛による死を自ら選択した者」になりませんか??

本題に戻ります。

確かにエヴァの物語は完結した。観客はエヴァとお別れをした。だがおしまいじゃない。むしろそこから始まるのだ。シンジも私達も、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが持っていた緑色の切符――どこまででも行ける切符を持っている。ここからは私達の自由だ。呪縛から解放されたうえで、もう一度エヴァを愛することもできる。少し距離を置くこともできる。すっきり卒業することもできる。とりあえずもう一回映画を観に行くこともできる。

「あの時」に囚われた人々の手を取って緑色の切符を与えてくれる映画を「優しい」と言わずして何と言うことができようか。


私はこれからもアニメや漫画を愛する。エヴァを好きでいる。もちろんカヲシンも推し続ける。それが私にとっての幸せだから。私が幸せだと、私の周りの人もより幸せになれると思うから。

きっといろんな選択肢があるだろう。ただ、アニメやエヴァから離れることを選んだ人、シンエヴァが公開される前から既に離れていた人もときどきこちら側に戻ってきてくれると嬉しい。なんたって今は深夜アニメが興行収入一位になる時代である。


当初の予定より随分長々と書いてしまった。本当は推敲とかした方がいいんだろうけど、思いのままを綴った文章を消すのも勿体ないのでこのままにしておこう。

何も情報を入れずに観たシンエヴァは無事私の中で一生の想い出になった。私のための映画じゃなかったけど、私は今こうしてクソ長いお気持ちを書き殴っている。きっとこの時間を忘れることはないだろう。

だから、私にこの文章を書くエネルギーを与えてくれたシンエヴァに、これまでエヴァに関わってきたすべてのスタッフに、そして庵野秀明総監督に敬意を表して、

庵野秀明に告ぐ

私はアニメが好きだ。今までも、そしてこれからも。シンエヴァを観て、その気持ちは一層強くなった。

でも私がシンエヴァを観て感じたことは全部私の勘違いで、結局あなたは「オタクは現実に帰れ」と言いたいだけなのかもしれない。

それならそれでいいさ。私は私のやり方で、私の考え方に基づいてアニメを愛していくから。

そしていつか、私もそっちに行くから。

だから待ってろ、庵野秀明。



こっ恥ずかしい黒歴史を生産してしまった。でもまだ精神がガキの今しか書けないと思うので書いた。ガキだなーって笑ってほしい。私も10年後にこれ見てゲラゲラ笑えたらいいな。その前に消してるかもな。

言いたいことは大体消化した。これで一区切りだ。じゃあ最後に、また会うためのおまじないでこの文章を締めることとしよう。


さようなら、全てのエヴァンゲリオン。

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