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シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース5:楽 その4、講義

*楽(スカ)についての講義を読んでいきます。
(●はシャイラ先生お話や文献のメモ、*は私のコメントです)

●喜びや幸せとあなたが呼ぶものを体験した時のことを振り返ります。それは感覚的ではないものでしたか。感覚的でない喜びとはどんなものでしょうか。
●楽は感情のトーン、パーリ語では受(ヴェーダナー)と呼ばれるものに属し、心地よいという性質を持っています。喜は心所の一つで、メンタル要素に分類され、注意をリフレッシュする機能を持つ。楽は背景ではたらく受であり、体験を味付けするflavor。
●五蘊でいうと喜は行であり、楽は受である。清浄道論では次のようにたとえられる:砂漠を進む疲れた旅人が、池を見つけたり(この先に池があると)聞いたりすると喜が生まれ、実際にたどりついて水を飲めば楽が生じる。
●楽は強く明確な快であることもあれば、とても微細で安らぎにみちたものであることもある。私たちの生活では心地よさを与える、感覚的な体験が多くある。不健全な状態で楽しいものも多くある。だが瞑想の進展にとっては、瞑想対象を知る事に関連する喜びに関心を持つべきだ。禅定の要素としての楽は、瞑想対象に持続的にマインドを落ち着かせることの結果として生じる、深い喜び、充足感、平和、安らぎの経験である。
●だから五禅支としての楽は、感覚的な欲求ではなく、また五蓋の貪欲ではない。それは明確に非-感覚的な、崇高なsublime心地よさであり、中立ではなく快の側に偏っている。瞑想者は楽が強いとき、「ずっと座っていられる気がした」「(終了の鐘の音がなっても)立ち上がりたくないと思った」となどと感じる。マインドは呼吸と一緒にいたいと思い、他の感覚には興味が向かない。
●楽は、行き渡るような深い充足感のため、掉挙を克服する。万事問題ない、今のままでよいと感じ、「次に行こう」などとは思わない。
●楽を育てるために、積極的に何かをするわけではない(むしろそれはできない)。心地よい感覚は、体験にともなって単に生じるだけです。しかし瞑想者はしばしば楽を見逃してしまう。楽によって心地よさが増し、集中を高めるサポートとなることを、許容しない(don't allow)。
●だから、楽を生じさせようと思わなくていい。ただそれが生じたとき、バランスのとれた努力をサポートするという、その機能と役割をただ把握するだけでいい。余裕のあるマインドでそれに気づくだけで、もっと欲しいではなくちょうどよい、ここで休むrestことができる、という感じを持つのです。
●だから、楽の性質や感じに敏感になりましょう。ただし、感覚的な喜びと非感覚的な喜びを明確に区別することがとても重要です。というのも、五禅支の楽は、瞑想対象に注意を向け続けることによって得られる快であり、マインドフルネスと捨によってえられる喜びだからです。
●ほとんどの精神状態は身体に反映され、それは精神状態を知る手がかりになります。悲しみが姿勢に現れたり、怒りが圧迫や熱、身振りとして現れたり。もし怒りがなくても、怒りのジェスチャーをすることで、一瞬だけ怒りに同調する事ができます。俳優はこうした訓練を受けていますね。身体に意識を向けることで、感情にはたらきかけることもできます。
●しかし禅定の訓練では、身体に注意を移すことはしません。身体的な手がかりを使わずにどうやってマインドの中で起きている事を知るのか、という疑問に思う人もいるでしょう。身体とマインドは常に一緒に発生しており、常に絡み合っているのです。だから楽を身体的な体験として感じられる事は問題ありません。
●しかし集中力を高める瞑想では、身体に注意を払わず、瞑想対象だけに注意を払うので、身体の質に気づかない事がよくあります。歩く瞑想に切り替えた時、「わあ、足が軽い!」と感じるのです。穏やかな集中は、ある種の身体的な軽さを生み出します。
●しかし(集中瞑想では)身体的な現れには注意を向けません。これらはメンタルな現象であり、物質の特性ではないと、ただ理解します。だから私たちは、主にメンタルな要素としてそれを知る。
●私たちは身体に響くその心地よさの体験を楽しむ事ができるが、瞑想対象から目をそらして、身体的な心地よさに目を向けるべきではない。瞑想対象に注意を向け続け、意識の背景で楽の感覚が広がる事を許容し、座っていて・呼吸していて快適だ、it's fineと言えるようにします。その心地よさは、新たな瞑想対象にはならず、瞑想対象をより知ることのサポートとなるのです。
●清浄道論では、楽のこの性質を、父親の膝の上で眠るこどもの喜びと安らぎにたとえています。心地よさ、リラックスがあり、身を任せる能力があります。
●私たちは自然に呼吸させ、無理に変形しません。坐ることと呼吸することを楽しみ、瞑想の対象に注意を向けて維持することに、充足感や苦痛のなさが行き渡るようにします。瞑想において尋と伺を行い続けるのですが、それらは喜や楽に支えられるのです。
●多くの瞑想者は、欲や空想に向かうか、痛みに焦点をあて、こうした喜びについては忘れてしまいがちです。しかし時折、受をみて、痛みと喜びを認識できるように練習することは、とても役に立ちます。
●痛みから喜びにシフトできるよう練習します。たとえば私は関節炎があり、手にはずきずきと痛みがある。心地よい温かさがある。痛みを喜びに変えることはできないが、両者を行き来することはできる。
●膝や腰に痛みがある。痛みが変化する。ときに非常に鋭い痛みがあり、それは一瞬で終わり、心地よさがある。こうした受のダイナミクスに敏感になります。
●瞑想中に呼吸に集中しているとき、呼吸に苦痛はない。私たちが心地よいと感じるのは、集中するときのマインドの状態です。マインドが呼吸に出会い、注意が持続するとき、マインドフルネスと集中の精神状態に喜びがあります。
●そう、それは甘美sweetである。こんな素晴らしい体験をした、人に話したいと考え、慢を強める事があります。慢は心地よい状態だが、汚れdefilementである。貪欲と同じものです。だから私たちは、瞑想の主題に関連した心地よさを探すのです。

*なかなか実用的な講義だと思いました。喜は行であり、注意をリフレッシュする。楽は感受であり、体験を修飾する。五禅支としての楽は、瞑想対象に集中することにより生起する、安らぎや充足感であり、非感覚的な喜びである。楽は勝手に出てくるので、あえて作ろうとしない。楽は瞑想対象とせず、あくまで呼吸に注意を維持すべきだが、ときどき喜や楽を確認し、それらが注意の維持に役立つようにする(=呼吸に気づくことを喜ぶ、楽しむ)。まとめるとこんな感じだろうか。
*瞑想者は痛みはよくみるが、喜びはあまりみない、という指摘は興味深いですね。瞑想の最初や半ばで仏道を歩むことの喜びを再確認する事、瞑想対象に集中する事によって生まれる喜びの存在をときどき確認して味わってみる事は、役に立つ感じがします。

*楽については以上でだいたいコースの内容をさらえたので、まだ一部の内容や実践としては積み残しがありますが、次回からは一境性に進む予定です。コースの公式の進行も本日(5/30)までが楽なので、なんとかついていけていますね。


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