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シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース7:出離(離欲) その2 経典読解

*本モジュールの経典読解は増支部9-41「タプッサ経」。光明寺経蔵による和訳と英訳を比較参照しながら、あらすじを追いかけてみます。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/an/an09/an09c41.htm

●ある時タプッサ居士がアーナンダ尊者に質問した。「我々は、欲楽を受用し、欲楽を喜び、欲楽を楽しみ、欲楽に喜悦する在家者です。我々にとって、離欲はすなわち、断崖の如くに思えます。」「私はこう聞きました。法と律においては、これは寂静であるとみて、若い比丘らの心が、離欲に対して躍進し、浄信し、住立し、解脱している。これが比丘らと凡夫との相違点です。すなわち離欲が。」
●アーナンダ尊者は、一緒に世尊に尋ねましょうと提案した。二人で、托鉢後に林で座っていた世尊に近づき、アーナンダ尊者は、上の発言をそのまま世尊に伝えた。世尊が答えて曰く。
●アーナンダよ、それはそのとおりです。私も修行中に、「離欲はよきかな、遠離はよきかな」という思いがありました。(しかし)「これは寂静である」と見ながら、その私の心は、離欲に対して躍進せず、浄信せず、住立せず、解脱しませんでした。いかなる因縁があって、こういう事が起こるのか。
●私にこのような思いが起こった。『私は、諸欲における危難を見ておらず、私はそのことを多修していない。私は、離欲における功徳を証得しておらず、私はそのことを習行していない。それゆえ、これは寂静であると見ながら、私の心は、離欲に対して躍進せず、浄信せず、住立せず、解脱しないのだ』〔と〕。  
●私にこのような思いが起こった。『もし私が、諸欲における危難を見て、そのことを多修し、離欲における功徳を証得して、そのことを習行したならば、これは寂静であると見て、私の心が、離欲に対して躍進し、浄信し、住立し、解脱するであろう、という、これは道理として存在する』〔と〕。
●私は、後のとき、諸欲における危難を見て、そのことを多修し、離欲における功徳を証得して、そのことを習行しました。『これは寂静である』と見て、その私の心は、離欲に対して躍進し、浄信し、住立し、解脱しました。
●その私は、諸欲から離れ、不善の諸法より離れて、尋をともない、伺をともない、遠離より生じた喜と楽ある初禅に達して住しました。  
●アーナンダよ、この住法によって住するその私に、欲にともなう想の作意が現行したとしても、それは、その私にとって病〔の如きもの〕となりました。  
●たとえばアーナンダよ、安楽な者に、病にいたるまでの苦が起こる、まさにそのように、この私に、欲にともなう想の作意が現行したとしても、それは、その私にとって病〔の如きもの〕となりました。  

(以下、第二禅~第八禅、想受滅まで、ほぼ同様の文章が繰り返される)

●その私は、あまねく非想非非想処を超えて、想受滅に到達して住し、私の諸漏は智慧によって見られ、遍尽へ至りました。
●『私に智なる見が生じた。私の心解脱は不動のものとなった。これが最後の生である。もはや再有は存在しない』と」。

*釈尊の修行時代の事が語られていて興味深いです。
*「離欲Renunciation はよい、遠離Seclusionはよい」という思いがあり、それは寂静peaceであると見ていても、自分のマインドは離欲に対して熱心ではなかった。離欲について自信があり、落ち着いていて、決心した状態ではなかった。釈尊は、それはなぜか、と問う。
*諸欲における危難をみて、そのことを多修する。離欲における功徳を証得して、そのことに習行する。そうした実践がないからだと。そうした実践によって、離欲に対して熱心になり、確信を持てると。
*あえて現代風に解釈してみると。欲から離れる事はよいことだ、リトリートで欲から離れた生活をするのはよい事だと分かっていても、離欲への熱心さや確信は出てこない。欲の危険性をみる練習、離欲の効果をみる練習を積み重ねることによって、離欲への熱心さや確信が出てくるのだと。
*というわけで、本モジュールの課題がまさにそうであるように、日常や瞑想において出てくる欲を観察し、その危険を考察し、また欲を手放すことを実践・観察することで、離欲への熱心さや確信が育つ。それによって禅定の流れに向かうと。そういうお話だと思う。
*サマタ瞑想は集中力を高めるテクニカルな実践という想定を持っていたのが、少し相対化された感じがします。現在コースで実践している事が、釈尊が実践し、語った事とつながりがあると知ることは、とても励みになりますね。

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