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シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース7:出離(離欲) その5 講義その2

(●はシャイラ先生お話や文献のメモ、*は私のコメントです)
*今回はもう一つの講義の要点をまとめていきます

講義:出離(離欲)と、手放しのためのいくつかの方法

●この講義では、出離について、また手放すためのいくつかの方法について話します。まずは増支部経典の一節からはじめましょう。
●経典ではこう説かれます:感覚的欲望は、対象物自体の中にあるのではなく、自分の反応や思考の中にあると。
●インド滞在中、師からこういう話をききました。西洋人はみんなベンツを欲しがるでしょう。どうしてもベンツが欲しいと想像してください。お金をためてお店で新品のベンツを買って、家に持って帰った。嬉しいでしょう。では、なぜ幸せなのか。欲しいものが手に入ったから? 色がきれいだから? いつでも使えるから?
●もしかしたら、幸せの原因は、それを求めるという苦しい欲望が終わったからかもしれない。
●考えてみる価値のあることです。欲しいものを手に入れなくても、欲望が終わる事を経験するだけで、心の幸福が生じることがある。
●座る瞑想で、また日常生活の中で、発見と遊びの精神を持って(in the spirit of discovery and play)、欲望の動きをみてみましょう。何が欲望を刺激するか。欲望を生じた時にどういう経験をするか。欲望に基づいて行動をするとき、しないときは、それぞれどんなときか。欲しいものが手に入らなくても、欲望が終わる事があるか。欲望の終わりには、幸せの体験があるか。
●受動的な瞑想者は、痛みとの関係を探求することに長けている事が多い。不快な感覚と、不快な感覚に対する嫌悪感を見分ける事ができる。痛みと向き合うことで、望まない出来事に対しても平静さ、バランスを保つことを徐々に学んでいく。
●だが、自分の好きなものや快いものとの関係でも、こうした平静さとバランスが必要だ。快い対象との関係を安定させ、欲望の動きに引き込まれることなく、快い対象のそばにいることができるようになる。
●「スリが聖人に出会ったとき、スリはポケットしかみない」ということわざがある。私たちも同様に、欲望によって目をくらまされ、友人や芸術家を見落としてしまうかもしれない。
●相応部経典35-230では、漁師が餌のついた釣り針を湖に投げ込み、魚はそれに食いついて、漁師の思うままになる。同様に比丘たちよ、私たちの世界には6つの釣り針があり、それは欲望を喚起し、ラブリーで、納得感があり、喜びを生み出し、魅惑的でやきもきさせるような外観を持っている。釣り針に食いついてしまうと、比丘はマーラの思うままになってしまうのだ。
●自分のライフスタイルを振り返ってみましょう。私たちは何に惹きつけられ、食いついてしまうか。
●離欲の実践は、誘惑されがちな典型的な分野をよく選ぶことです。伝統的な離欲の実践では、食事、寝具、衣服、性行動、快適さ、所有物、娯楽、お金などに制限を設けます。食事・睡眠・衣服を否定しませんが、正しく使用するようにします。
●自分のマインドをみて、自問しましょう。マインドはどれほど好みにうるさいか、満足しているか。自分の態度はどれほど執着しているか、寛大か。富や物質を手に入れるために非倫理的な行動をあえてとる事もあるのではないか。喪失や変化を、どれだけ恐れているか、または理解しているか。物の使用はどれだけ賢明か。個人的なプライドが関与していないか。所有物が自分のアイデンティティになっていないか?
●増支部経典4-28が、比丘らがどんな種類の衣服にも満足していることを称賛しています。私たちが必要なものは、比丘よりも多いかもしれないが、同じように、生活の中で離欲の実践を行うことができます。たとえば、クレジットカードでの支払い、クッキーをどれだけ食べるか、コーヒーを何杯飲むか。テレビやゲームの時間、買い物の頻度を制限することもできる。会話の中でうわさ話をしない、ダンマのことだけ話すなどもできる。
●現在のアメリカ人は、とても快適なベッドに慣れています。しかし歴史的にも文化的にも、これは非常に贅沢なものです。私がアジアを旅したとき、たとえ中所得者の家庭でも、全員の寝室にベッドがあるわけではなかった。インドでは夜は床にマットをしいて寝て、朝になるとそれを丸めて、その部屋で食事をとる、というのが一般的だった。私もしばらくバンで寝起きしたり、床で寝たりしていました。
●快適なベッドや一日3回の食事が悪い事だというつもりはありません。ただ離欲を追求したいならば、日常の中で当たり前に行っているいくつかの事について、遊ぶつもりで止めてみるといいかもしれません。そうすると、時間や資源の使い方について、思った以上に選択の余地があることに気づくかもしれません。私たちの快適さや快楽は、時間や資源を奪っていることも多いのです。
●皆さんには、贅沢や気晴らしのなかから自分の興味を持つものを選んで、離欲を試してみて欲しいです。離欲の実践は、教義ではないし、押し付けではないし、他人へのアピールのためのものでもありません。離欲の実践を通して、自分は何に執着しているか、何が抵抗のトリガーになるかを知ることができます。そして平穏や充足感を育てることを助けます。
●ブッダは、欲しいものをつかむという動きを断ち切る必要性について、強い言葉で語っておられます。私たちはこの教えを避けることはできないと、私は考えます。官能的な経験や欲望と幸せを結びつけてしまうと、人生に苦しみの条件を作ってしまうことになります。離欲の実践を通して、平静さや充足感を得て、快適さのための多くの物は必要なくなります。そして貪瞋痴から離れることで、自然なプロセスで、優しさ、静けさ、リラックス、開放感が生じるのです。

*DeepLはrenunciation(出離、離欲)を、いつも「断捨離」と訳してくれます。まあ似ているものではある。断捨離、ミニマリズム、片付けの魔法、こうしたものが流行しているのは、よい事であるような気もする。これらと離欲とが、どこが同じか、どこが違うのかと問うてみるのは有益かもしれない。
*お店もネットも繁華街も、私たちが食いつくのを待つ釣り針でいっぱいです。スーパーでのお買い物は、ある意味ではとても楽しく、時間と気づきをしばらく忘れてしまいます(デパートではないところが庶民的ではある)。
*家には様々な商品がたまり(頭の中には様々な情報がたまり)、散らかってくる。不要となったものをすて、部屋がすっきりするのは快感だ。数日ほどネットや本を離れて過ごすのもすっきりする。
*こうした断捨離や片付けの実践と、離欲の実践は、地続きではある。一方、欲望の動きを観察すること、欲望をつかまないようにする事、それがどのような心を生じるかを観察すること、こうした点は違うところだろう。外形的には似ていても、後者の有無で、違う方向に進むのだろうか。
*”in the spirit of discovery and play”はいい言葉ですね。実践で確かめよう。

*コースの紹介、もう少し続けると思います。

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