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シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース6:一境性 その4、講義

(●はシャイラ先生お話や文献のメモ、*は私のコメントです) 
*一境性についての講義ですが、長めで、やや難解でした。要点を何とかまとめてみます:


*一境性とは

●五禅支の第五の要素、一境性について話します。これは通常、注意の一点集中のone-pointed性質と表現されます。
●アビダンマでは一境性を次のように表現しています:マインドは対象と結合し、さ迷いや逸れることがない。関連するメンタル要素を統合する働きをする。レンネット(凝乳酵素)が牛乳の粒子をチーズにするように、関連するメンタル要素(心所?)を結びつけるのだ。
●一境性はリーダーの性質を持つと言われる。というのも、すべてのメンタル要素をリードし、目的のために奉仕する有効なチームとして役立つことを可能にするからだ。
●アビダンマでは、一境性は普遍的なメンタル要素の一つに列挙される。一境性はあらゆる意識的プロセスにおいて生起する。意識はどんな瞬間にも常に一つの対象をとる。私たちがマルチタスクをしていると思っても、実際には、ある瞬間には1つの事を行い/認識し、別の瞬間には1つの事を行い/認識しているのだ。
●つまりこの意味では、マインドは常にone-pointedである。一度に一つだけone thing at a time、それが私たちが何かを知る時の固有のあり方だから、一境性は善の状態でも、不善の状態でも生起する。
●ではなぜ一境性が五禅支の一つなのか。禅定の実践において、一境性は、他のメンタル要素を結合して、没入を維持するという、優位なdominant立場にある。
●瞑想中に尋・伺と一境性の違いに気づくのは、難しい場合があるが、こうした区別について心配しすぎる必要はない。

*一境性と貪欲
●一境性が五蓋の貪欲を克服すると聞くと、驚くかもしれない。なぜ一境性が貪欲を克服するのか。貪欲のある状態では、常に満足の欠如がある。貪欲はより多くのものに手を伸ばし、次に獲得できるかもしれないものを志向するため、満足が得られず、心に平安が訪れない。一方、マインドが集中し、統一され、集中している時は、満ち足りて、安定している。これ以上は何も必要ないという感覚になる。こうして一境性は、貪欲のエネルギー、貪欲の強迫的な不満への解毒剤となる。
●一境性が育って禅支になると、不満足感は一切ない。意識は瞑想対象に落ち着き、気が散る事も迷う事もない。それは無風の中のランプの炎の、安定した光のようなものだ。
●マインドを一つの対象に落ち着かせるのが困難な場合は、刺激を求め続けるというマインドのふるまいに興味を持って調べてみるとよい。気晴らしがどのように働くか、どのように注意を誘惑するか。世間とは多数の釣り針が仕掛けられた池のようなものと言えるが、私たちはどの釣り針に噛み付くだろうか?
●一つの対象に注意を向けている時は、注意が逸れる傾向について学ぶことになる。何に刺激されているかに気づく事で、何に集中しているかだけでなく、集中するために何を排除する傾向があるかにも気づく事ができる。
●何が自分の仕事で、何が自分の仕事ではないかを決めるのです。多くの物事を手放しlet go、多くの物事をそのままにしますlet be。そして自分が重要だと決めたことに、注意を向けるのです。
●呼吸に注意を向け、それ以外には何もしない、それが私たちの仕事です。しかし、注意の一点集中を高めていくと、どのように気が散るのか、どのように執着が生じるのかといったことにも気づくことができるようになります。
●特定の身体感覚、メンタルの状態、感情が注意を引きつけ、注意を瞑想対象から引きつけるのはなぜか。それはどのように起こるのか。何を掴んでいるかに気づき、どのように執着しているかに気づいてください。
●集中したマインドの性質を探求するには、非常に優しい接触gentle touchがないといけない。一点集中の注意の練習の過程で、落ち着きのないマインドについて、気が散ることについて、執着について、欲望について、学んでいきます。

*五禅支のまとめ

●五禅支は、サマタだけでなく様々な瞑想実践において、育てる事ができる。五禅支は、私たちの道における強力な資産assetとして利用できる。五禅支は、意図的な努力の積み上げによって成長するのではなく、マインドフルネスの継続によって、また手放すlet go意思、放棄するrelinquish意思によって育つ。
●マインドの質は、粗いものから微細なものへと変化していく。正しいマインドフルネスと正しい集中を育てるなら、各禅支を個別に育むための多大な努力は、実際には必要はない。行う事の多くは、最初に注意を向けてそれを維持する事で、残りの要素はそこから発展していく。
●集中力を高める時、各禅支の強さを分析したり評価したりせず、ただ瞑想対象に集中する実践を行う。各禅支がその背景で働いて、瞑想を深めるのをサポートするようにさせる。
●瞑想対象を手放して、メンタル要素を対象とするような、洞察のための調査的なアプローチに移行するのは、集中力がある程度高まった後のことである。
●禅定だけでなく、洞察が起こるためにも、五禅支が確立されてなければならない。五禅支があること、五蓋がないことは、注釈書の伝統ではupacāra-samādhi(近定行)の特徴だとされる。これは禅定より手前の集中状態であり、access concentration, neighborhood concentrationなどと英訳される。
●サマタの実践をしたことがない瞑想者でも、近定行を経験する事はある。こうした(近定行、禅定という)区別を知らない瞑想者が、たとえば楽が強く出た時に、禅定に入ったと考えてしまう事がある。このように五禅支はあるが、禅定ではない事がある。
●五禅支は禅定の状態だけに存在するものではないのに、禅支(禅定の要素)と呼ばれるのはなぜか。それは、五禅支によって、第一禅定~第四禅定が明確に特徴づけられるからである。
●第一禅定では五禅支が揃う。第二禅定では尋・伺がなくなる。さらに喜がなくなって第三禅定となる。最後に楽がなくなって第四禅定となる。
●サマタでは、第一に五蓋を理解し、認識し、捨て去るスキルが必要です。また善い状態、正精進、そして五力(信、精進、念、定、慧)を育てるスキルも必要です。
●集中に焦点をあて、集中の発展をハイライトするとき、相対的に粗い善要素を手放し放棄するプロセスを経て、マインドはますます微細で洗練された深い安定に落ち着くことができる。だがこのプロセスでは急いではいけないし、強引になってもいけない。実践が自然に展開するところを信じなければならない。
●呼吸への、巧みで一貫した注意によって、五禅支が育つ。五禅支は瞑想対象に注意が深く落ち着くための支えとなる。

*一境性は、瞑想実践中の心所を結びつけ、指導するリーダーのような役割を持つ。何となくですが羊飼いや牛追い人を連想しました。
*one thing at a time、スマナサーラ長老も瞑想のインストラクションで同じ表現を使っておられたように思います。それが私たちが何かを知る時の固有のあり方であるという命題を、どのように受け取るか(どのように表現するか、実践するか)、はっきりしない感じが残ります。
*一つの対象に注意を向ける実践では、注意が逸れる傾向について、また心が何に刺激を受けるかについて学ぶ事になる、というのは、重要なポイントのように思います。どのように気が散るか、どのように執着が生じるか。
*一境性が貪欲を克服するという点、羊飼いや牛飼いのたとえが使えそうな気もします。経典や法話にも、象や猿など、動物を飼いならすたとえはよく出てきますね。

*一境性についての講義が長めでかつ難解だったため時間がかかってしまった。コースは現在、すでに最終モジュールに入っている。一境性について十分に理解したとは言えないが、次のモジュールに進もうとおもう。

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