シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース5:楽 その1、概要と課題
*今回から5番目のモジュール、楽にすすむ。コースももう後半だ。
*喜と楽の区別はなかなか難しい問題だ。オリエンテーションから復習しておくと:
●喜(ピティ)は、心が喜び、瞑想対象に興味を持つ感じ。砂漠でオアシスをみつけた時の感じ。Feelingではなくmental formation(行)である。喜が育つと、瞋恚(怒り)を抑える。
●楽(スカ)は、瞑想対象を知ることで出てくる喜び。砂漠のオアシスで水を飲んだ時の感じ。Feelingである。楽が育つと、掉挙後悔を抑える。
*理論的には上記はよく分かる話だ。前モジュールの掲示板で、ある参加者の方が次のような発言をしていたが、まあそういうものなんだろうなーと思う。
「喜と楽の違いについて、自分の経験から書くことはできないが、経典や他の先生が話していることをリピートします。喜と楽は一緒に起こる。両者がどう違うかは、第三禅定で喜が消えた時にはじめて理解できる。それまではおそらく知的に理解する事しかできない。」
*まずは2つの課題の確認をしていきます
課題1 瞑想実践――感覚feelingのトーンに気づく
●日々の瞑想の中で、何度か、観察している事にどのようなfeeling toneが伴うか自問してみる。マインドフルであるとき、マインドフルネスに付随する感覚に気づく。マインドフルの喜びpleasureを気づきawarenessに浸透させる。
●瞑想の終了時、どのような感覚であったかをメモし、瞑想の喜びを認識するのに役立った微細な手がかりcueを特定する。
●日常生活での楽しさ、喜びに目を向ける。それらは感覚的な快刺激から生じたものか、徳、集中、手放し、親切さ、瞑想の発展から生じたものか。
●感覚的な喜び、瞑想的な喜びは、それぞれマインドにどのような効果を与えるか。
*この課題は重要なものに思える。サマタ系の呼吸瞑想を行っている際、集中と落ち着きが出てきて、呼吸が微細でなめらかな感じになる事はよくある。呼吸に注意を向ける実践をしているから、通常は「呼吸が微細でなめらかなになった」と体験する。しかしこの時に気づき自体に注意を向けてみると、気づきも微細でなめらかになっている(ように感じられる)。また、軽さや喜びみたいなものも出ており、そこに注意を向ける事もできる。
*つまり①呼吸、②気づき、③気づきにともなうポジティブな感覚、そのそれぞれに注意を向ける事ができる。①と②を交互にみていると、呼吸と気づきをさらにすり合わせるというか、両者のタイミングや形態がさらに細かく同期するような、そういう感じが出てくる。①②に加えて③もときどきみると、呼吸や気づきにも喜びが満たされる感じが出てくる。こうしてある程度意図的に②や③に注意を向ける事は、呼吸と気づきをさらにフィットさせ、そこに喜びも加えて、集中や落ち着きをさらに増してくれるような感じがある。そして「②や③にときどき注意を向ける」という操作は、自然にはなかなか起こらない(意図的に練習する必要がある)のではないだろうか。
*今の自分の瞑想体験として、感覚的な喜びと瞑想的な喜びは、セットで出てくるし、あまり区別せずに扱っているように思う。両者を区別できるようになること、それぞれのプロセスを見守ることでその機能をみていくことは、たぶんこの先にすすむために役立つだろう、と予測する。そうしていく事で、感覚的な喜びが減り、瞑想的な喜びが増えて、呼吸への集中と落ち着きが増すことになるのだと思う。しばらく意図的に取り組んでみようと思う。
課題2、五蓋の掉挙を克服する
●掉挙は、現在の体験に対する不満を表し、すべての不善の状態に共通する要素である。苦の洞察として掉挙を認識することを怠ると、マインドはより楽しい刺激を求めてしまう。
●以下のエクササイズを試してみましょう:
(1)多くの気ぞらしが掉挙に燃料を与える。不満が生じたとき、またどのように不満に反応するかに気づく。
(2)楽しみfunのために今何をしているか。その楽しみは充実感contentment、洞察、深い幸福をもたらすものか、掉挙の持続をもたらすものか。
(3)善の状態に関連して充実感や微細な喜びが生じたら、喜びに気づき、これ以上何も必要としないような静かな幸福を十分に経験することを、自分に許します。
(4)空想、強迫思考、心配で自分を楽しませる習慣的パターンを手放す練習をする。マインドフルな注意、集中、手放し、親切な意思に付随する、微細な喜び、安らかさease、充実感にマインドを向けることを練習する。
*掉挙もまた、今の自分が取り組むべき課題だと思う。掉挙が現在の体験に対する不満だというの、とてもよく分かる気がしますね。現在が不満で、何かで満たしたいけど、何で満たしていいか分からない。または何かでとりあえず満たそうとするけど、満たされていない。まさに苦であり無明であるなあと。
*日常で、不全感とせきたてられている感じが、常にある。その一つの源泉はお仕事の内容にあるのだろう。70%、80%でやればいいやと思えば余裕をもってこなせるが、ベストを尽くそうとするといくらでも時間がかかる。「仕事術」みたいな本には7-8割がよい(余力を残しておくのがよい)とか書いてあるが、目の前の患者さんに対して、あなたの事は7-8割でやらせてもらいますよ、というわけにはいかないだろう。いろいろ調べ物をしたり工夫したり時間をかけたりで、おそらくは予後はよくなる。それなのにそれをしないで済ませる、というのは、どうも性分としてできない。ただ時間をかけるとするときりはない。だいたいは疲労か、夕食をとる限界の時間などで仕事を中断するのだが、いつもそこに不全感と葛藤がある。
*休日にもお勉強や調べ物はするが、それ以外には(きりがないので)仕事のことを考えないようにする。このオンとオフの切り替えはできるほうだと思う(瞑想実践の成果ではあります)。しかし一人で時間を使えるような時、どこかいつものせきたてを引きずっている。最近はオンライン瞑想会的なものが増えたから、休日はできるだけそういうもので予定を埋める。そうでないとだらだらと時間を使って、自責感が出てくることが多い。オンライン瞑想会に出たほうが明らかに充実度が高いのだが、そういう外的な規制がないと時間が巧みにつかえてないということでもある。ここには学ぶべきところがあると思う。
*上記の掉挙の課題はまさにこの点に関わりそうで、是非取り組んでみたい感じだ。
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