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シャイラ先生の「五禅支を育てる」コース5:楽 その2、経典読解

このモジュールでは3つの経典を読む課題がある。光明寺経蔵の和訳を中心に、一部英訳も参照しつつ読んでいく。(以下、光明寺経蔵の各経典のリンクを貼っておきます)


経典読解1 増支部4.28「聖種経」Noble lineages

●釈尊が比丘らに語りかけて曰く。4つの聖なる種は、世界の起源以来の、混濁したことのない、知者から非難されないものだ。4つとは何か。
①いかなる衣でも満足し、衣を得られなくても悩まず、衣を得ても執着せず、(そのことで)自己を称賛することも、他者を謗ることもない。そのことについて巧みで、怠惰でなく、正知正念の者。これを「世界の起源からの聖種に住まう比丘である」と言われる。
②団食について、同様の繰り返し。
③臥座具について、同様の繰り返し。
④修習の喜び、捨断の楽しみについて、同様の繰り返し。

●そうした者は東西南北のどこに住もうと、彼は不快に耐え、不快は彼に耐えられない。

*衣服、食事、臥座具という即物的なものの後に、最後に「修習の喜び、捨断の楽しみ」を持ってくるところが興味深い。衣服や食事や寝具と同様に、修行上の快不快についても、執着せず、慢を作らず、巧みであることを強調しているようにも読める。

経典読解2 増支部4.41「三昧修習経」

●(釈尊が比丘らに語りかけて曰く)比丘たちよ、これら4つの三昧があります。4つとは何か。
①修習され、多修されると、現法における楽住へと導くような、三昧の修習。諸欲より遠離し、第四禅に達して住まう。
②修習され、多修されると、智見の獲得へと導くような、三昧の修習。光明想を作意する。開かれた、覆われない心で、光輝ある心を修習する。
③修習され、多修されると、正念正知へと導くような、三昧の修習。諸受feelingが、生じる際に知られ、持続する際に知られ、滅する時に知られる。(諸想、諸尋について同じ形式の繰り返し)
④修習され、多修されると、漏の滅尽へと導くような、三昧の修習。五取蘊における生起と壊滅を随観して住まう。「〈色〉はかくのごとし。〈色〉の生起はかくのごとし。〈色〉の滅没はかくのごとし。」
(以下、受、想、行、識について同じ形式の繰り返し)

*光明想は清浄道論に四十業処の1つとして出てくるようです。たとえば太陽や月の光やろうそくの明かりが円形の窓から差し込んで、地上や壁に円形を作るとき、それを観て、それを対象にサマタ瞑想をするようです。
*4種類の瞑想について述べています。この4つがなぜ説かれるのか、よく分からないです。

経典読解3 相応部36.29「パンチャカンガ経」

●棟梁のパンチャカンガ(以下P)か、ウダーイン尊者(以下U)と話した。
P:釈尊により、いくつの受が説かれたか。
U:3つの受が、釈尊によって説かれた。楽、苦、不苦不楽の3つである。
P:2つではないですか。不苦不楽は寂静の楽に含めて説かれたのでは。
U:いいえ、3つです。
(二人の問答は繰り返され、平行線になった。アーナンダがその対話を聞いていて、釈尊にその内容を告げた。釈尊はアーナンダに対して曰く。)
●理趣によっては、2個の受が説かれる。理趣によっては、3個、5個、6個、18個、36個、108個の受が説かれることがある。
●五妙欲がある。いかなる5か。五妙欲を縁として生ずる楽なる喜悦、これが欲楽といわれる。
●『有情たちは、この楽なる喜悦を最上のものとして感受する』と主張する者がいるが、私はこの見解を承認しない。よりすぐれた、より勝妙の楽が存在するからです。ここに比丘が、じつに欲から遠離し、不善の諸法から遠離して、尋をともない、伺をともない、遠離より生じた喜と楽ある初禅に達して住します。これが、よりすぐれた、より勝妙の楽です。

(以降、第二禅~第八善、想受滅が同様の形式で説かれる。第二禅~第四禅の箇所を抜粋しておく)
②尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある第二禅
③喜の遠離ゆえに捨あって住し、正念正知にして、身体によって楽を受け、それについて聖者たちが、『〔そこに到達した者は〕捨にして念あり楽に住す』と述べるような第三禅
④楽の捨断ゆえ、また苦の捨断ゆえ、じつにすでに喜と憂が没しているゆえ、不苦不楽であり、捨によって念が清浄である第四禅

*第一禅~第八禅を説く経典はちらほらあるようです。感受の分類の議論からはじめ、禅定の楽が「勝妙の楽」として称賛される。途中の議論の展開がよく分からなかったです。


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