ャイラ先生の「五禅支を育てる」コース4:喜 その2 経典読解、著書読解
*増支部経典を1つと、シャイラ先生の2つの著作の喜のパートを読んでいきます。
Focused & Fearlessの喜のパート
●尋と伺が安定していると、自然と軽やかさと喜びの感覚が生まれる。マインドは明るく、機敏になる。喜にはいきいきした関心が含まれている。
●喜を高めようと必死で努力する必要はない。喜は注目されるnoticedことで成長するので、喜の心地よい質に敏感になることで、十分に喜の成長をサポートする事ができる。
●喜はさまざまな形で出現し、必ずしも劇的なものではない。気持ちが上がる内面の微笑uplifting inner smileという形で出てきたり、軽さlightnessと安らぎeaseの微妙な感覚としてはじまったりする。こうした様々な形の喜の特徴を見極めることを学ぶ。
●喜が満ちたfull、微細な、安定した性質に発展したとき、伝統的には「すべてに浸透する喜び」と表現され、禅定の要素となるまで強化されたとされる。
●喜は尋や伺を強化する。喜は五蓋の瞋恚に対する解毒剤となる。喜は心地よいもので、瞑想者は、注意を向けて維持しようとする苦労が和らぎ、瞑想の中でようやく何かが起こっているように感じる。
心地よいものthe pleasantから、心地よさpleasantnessを見分けるワーク
●日の出を見る、猫の滑らかな毛並みを感じる、温かいお茶を飲むといった日常の出来事から、心地よい体験を見つける。喜びの対象(視覚的なイメージ、暖かさや柔らかさの感覚)と、それが呼び起こす心地よさの間で、注意を移動させる練習をする。
●執着を加えることなく、心地よさの体験の中に注意を落ち着かせる練習をする。
●もっと欲しいという欲が出てきたら、それに気づく。この執着の感覚は何か? この執着の感覚は、心地よさを増やしているのか、減らしているのか? など自問してみる。多くの人にとって、執着の感覚は、収縮contractionや分離separationの感覚によって認識されるだろう。
●心地よさを遠ざけず、心地よさが意識を満たすことを許容する。
*まず日常の中で心地よい体験を探す。あえて選んで行為してもよいだろう。猫を撫でる時、意識は手触りや猫の視覚刺激などが占め、それが猫撫で行為を駆動している。その体験が心地よいものだとして、その心地よさの方にあえて意識を向けること。心地よさを生み出す刺激と、心地よさ自体の間で、注意を何度かシフトしてみること。これは瞑想中に、喜が出てくるような対象や条件を知ること、喜自体を味わうこと、この両者に注意を向けることとパラレルな行為であり、それゆえ練習する価値があるのだと思う。
Wisdom Wide and Deep の喜のパート
●喜は、瞑想対象に対する、はっきりした喜びを伴う興味の質qualityである。
●喜はいくつかの形態で現れる。①肌にふるえや鳥肌が立つような感覚、②体の中に稲妻が走るような感覚、③波のように押し寄せる感覚、④浮いているような高揚感、⑤すべてに行き渡るような喜び、の5つである。
●禅定の要素として機能する喜は、瞑想の対象を直接に知ることによって生じる、無感覚の喜びである。喜は瞑想対象を喜ぶという特徴を持つ。瞑想対象に対する興味の強さは、五蓋の瞋恚を克服するのに役立つ。
●喜が生起しても、呼吸から注意をそらすようにさせてはいけない。喜を観察してしまうと、喜は心をかきたてるような振動として感じられる傾向がある。エネルギーに満ちた喜びが、意識をリフレッシュさせ、禅定を促進するような機能を果たすためには、(その喜びは)落ち着いていかなければいけない。喜にとらわれず、喜がプロセスの中で成熟することを信頼しなければならない。
*アナパナ瞑想の最中に、マインドワンダリングや眠気が強くて「上手くいってない」感じがする時は、だんだん辛さが出てくる。呼吸に注意を維持しやすい時は、比較的ラクで、見通しのよい感じがする。喜/ピティというとリトリート後半でたまたま高い集中が実現した時のボーナスステージのようなものだと思っていたが、毎回のセッションの中で感じるラクな感じの中にも、弱い・未熟な形態での喜が含まれているのだろう。
*そして喜の出現は、ほぼ必然的に、癖として、喜への欲を発生させていると思う。この欲や、喜が得られない・持続しない事への怒りが、喜の成熟を妨げているのだろうか。
*上記のワークのように、心地よい対象、心地よさの感覚、心地よさへの執着を区別する練習をしておくと、呼吸瞑想中に喜を生じさせつつも、そこに拘らずにいる事ができるようになるのだろうか。
増支部経典5-176「喜悦経」
*光明寺経蔵訳で読み、あらすじをまとめる。
●世尊が、アナータピンティカ居士と500人程の優婆塞に対して曰く。
●あなたがたは、比丘サンガに衣、食事、臥具・坐具、医薬品などを寄進している。だがそれだけで満足してはいけない。「私たちはどのような手立てによって、折にふれ遠離(pavivekaṃ )と喜へ到達して住まうべきだろうか」と、このように学ばれるべきです。
●サーリプッタは、世尊に対して、世尊の話を称賛し、内容を繰り返した後に曰く。
●尊者よ、弟子たちが遠離と喜へ到達して住まうときには、その者には5つの状態が存在しません。①欲に関わる苦と憂。②欲に関わる楽と喜。③不善に関わる苦と憂。④不善に関わる楽と喜。⑤善に関わる苦と憂。
●世尊はサーリプッタの話を称賛し、同じ内容を繰り返した。
*釈尊は、在家に対してはいわゆる施論・戒論・生天論を語る事が多かったとされますが(仏教思想のゼロポイント)、在家弟子たちに対して遠離と喜を目指すように言うこともあるのだなーと思った。
*欲と不善に対する苦しみや喜びがない、というのは分かりやすい。善に関わる苦しみdukkha(不満足)や憂domanassa(悩むこと、気に入らないこと)も、なくしていく。一方で、善に関わる楽と喜はあってもよい、という意味にとれる。
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