覚醒した時に考えたこと

50を過ぎた時に、行動能力や認知能力に大きな欠落が生じているのをはっきりと自覚しました。残された時間の使い途を考えるには、まだ社会に求められる状態(それがいくら狭い範囲であっても)が立ち止まることを許さず、また、衰える思考能力にも甘えて、何ひとつ方針を定めずに押し流されていました。

たとえば小説家が、繰り返し作品を描くことで表現に洗練を加えていく時間の重ね方に、私は憧れを持つと同時に、そうしたことが生きる価値だと信じてきました。

言語を芸術的に操ることなど到底できないけれど、老化は言葉を失わせていくのと同義だと発見したことの重大さには、打ちのめされました。

感じるものが薄味になっていくのに連れて、語る言葉すら無くなってしまうのはあまりにも残酷に思えました。

いつどうやって、何に衝突して、この人間のシェイプが削り込まれ、独特な姿を形成したか、客観的な事実と感情的な受容のあり様を証言するために、あるいはその隠喩として、某かの作品に置き換えたい願望を抱きながら、年齢と共に能力が高まるどころか、徐々に減少する無念さは、人生を浪費したと認めるのに値する敗北感とそう変わりません。

noteを利用することを思い立ったのは、「作品」が難しくとも、なんとか言葉を、心の奥底から引っ張り出すだけでも、基礎訓練として続ける必要を感じたからでした。そうでなければ、ただ退廃するのみだと切実に思いました。まだ少しでも正気であるうちに、仮想ではあっても社会に言葉を投げかけ、その責任のうちに、正しい表現(内なるもののリフレクトとして)を求めていくことは、生きた時間を正当化するための最小限の行為になり得ると考えます。

生きるための営為として、楽器で音を出したり、それを使ってみたい方に操作法を伝える時間を、こうして現在も与えられている状況に感謝しています。しかし、本当の願望に向かっては、このように不自由を強いられながらでも、なんとか辿り着けないか模索していきたいし、それを気付かせる夢を見て目覚めた朝であったから記しておきたいと思いました。


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