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イタリアのお母さん

マリーサ・ディ・ルッソ先生の訃報が入る。闘病されていることは知っていた。ついにその時が来た。なんともしんみりしてしまう。

ぼくはふまじめな学生だった。「ディ・ルッソの授業」(当時はそう呼び捨てにしていた)に出た記憶がほとんどない。唯一覚えているはLL教室(language laboratory)のブースに入ってヘッドフォンをかぶらされたこと。今でこそ「ミム・メム練習」(mimicry and memorization practice 模倣と記憶の学習)だったとわかる。あのときはほとんど拷問に思えた。

ミム・メム学習法は、外地に派遣される兵士たちに外国語を教える「アーミーメソッド」として発達し、基本的にオペラント条件付けに基づくものだ。キューブリックに『フルメタル・ジャケット』(1987)に詳しいが、オペラント条件付けというのは、簡単に言えば「考えるな」「命令にしたがえ」「撃てと言われたら、撃て!」「殺せと言われたら殺せ!」ということ。これによって、ある種の条件反射を叩き込まれた兵士は、まさに「フルメタル・ジャケット」(ハーグ条約で戦場での使用が許された完全被甲弾)として、戦場に送り出される。

語学の学習でもまた、新しい言語に適応するため身体には、ある種の条件反射が求められる。「チャオ」と聞こえたら「チャオ」を、「ブォンジョルノ」には「ブォンジョルノ」を返すのだけど、「コメ・スタイ?」が聞こえたら繰り返すのではなく、「ベーネ」を返すこと。そんな言葉の条件反射を「模倣と記憶」の上に叩き込んでゆくのが「アーミーメソッド」であり、音声を重視することから「オーディオ・リンガル法」と呼ばれ、第2次大戦後の語学教育において新しく、実践的で、効果的な方法として、世界的になっていた。

考えてみれば、ぼくだってそうやって英語を学んだのだ。英文を音読し、暗唱し、綴字は声を出しながら何度も書いて覚えた。それが当たり前だった。高校までの学習で圧倒的に足りなかったのは、リスニングであり、そのリスニングへの対応を重視するのが、オーディオリンガルだったというわけだ。

だから1980年代の初頭にマリーサ先生は、そんな方法をイタリア語教育に導入しようとしておられたのだろう。今ならわかる。けれども当時は、ヘッドホンで拘束されたうえ、突然に「オシバ、リスポンディ」という声が頭に響くわたるの苦痛でしかたがなかった。真面目に通っていたら、最後にはきっと『フルメタル・ジャケット』でヴィンセント・ドノフリオが依代となった「ほほえみのおデブちゃん」のような末路を辿ることになっていたはず。だからまあ、逃げ出してよかったのだと思う。

言語の習得には、たしかに模倣と反復、そして記憶が大切なのだが、きっとそのつぎに即興がなければだめなんだと思う。ぼくはきっと、模倣も反復も、そして記憶もあいまいなまま、すぐに即興に飛びついてしまったのだ。たしかに言語というものには即興が必要だ。臨機応変に、その場その場で、即興的に対応すること。それがなければ言語ではない。だから教室から逃げ出して、逃げ出すことは「即興」だったのだ。もちろん、当時そんなことは考えていない。ただ嫌だっただけだ。でもそれでいいとも思っていた。好きなようにやってやる。そう思った。でもそれって遠回りなんだよね。でも遠回りはネガティブじゃない。そこでしか出会えないものだってある。それが財産になっている気もする。

そんなわけで、教室から逃げ出す劣等生で、遠回りばっかりのぼくだったけど、マリーサ先生はいつだって同じだった。ぼくは喜んで会いにはゆかなかったけど、会えば(ぼくにとっては「出くわしてしまった」とき)、いつだって笑顔で声をかけてくれた。例のあの劣等生を見下すような陰険な眼差しをされたことがない。

そういえば、外大には語劇というものがあって、ぼくは一年を2回やったものだから、なんとその語劇に2年連続で出演した。そんなぼくをマリーサ先生は、まるで冗談みたいに褒めてくれた。「すばらしい、まるで歌舞伎みたい」だという。歌舞伎ではない。ぼくがやったの一年目はゴルドーニ、二年目はデ・フィリッポなのだ。でもそれがきっと、すごく歌舞いた演技だったのだろう。

思い出すと恥ずかしいのだけど、褒めてくれたときの先生のコトバには、なんの皮肉も込められていなかった。少なくともぼくは、まっすぐほめられたと感じたのだ。だからうれしかった。

留学して帰ってきた時には、「オオ、フィナルメンテ・ティ・ポッソ・アッブラッチャーレ」と言って抱擁してくれたっけ。留学経験のない男子学生が、突然に先生に抱擁なんかされたら、きっと月まで逃げ出してしまったはず。でもマリーサ先生は日本文化の研究者でもあったからか、そうやって気を遣っていてくれてたのだと思う。あの「アブラッチョ」はこそばゆかった。温かかった。

この帰国したときの話には落ちがある。たしか、どこに行ってきたとか尋ねられて、ぼくが「シエナ」と答えたら、先生から呆れ顔をされ、「オシーバ、何年イタリア語やってるの。シエナじゃなくて、Siena (スィエナ)です」。イタリア語がバンバン話せるようになったつもりの僕だったけど、これには頭を抱えてしまった。先生にはかなわない。LL教室の恐怖までもが蘇ったのを覚えている。

でもね、この「シエナのエピソード」jは、自分がイタリア語を教えるときに披露させてもらっている。おかげで自分が相変わらず出来の悪い生徒だと自覚し続けらるし、教室での引き出しもひとつ増えたというわけだ。

その後ぼくは、出来の悪いなりにイタリア語を教えはじめ、日伊協会なんかにも関わるようになり、スピーチコンテストの審査員をされていた先生ともときどきお会いするようになった。ゆっくり話す機会はなかったけど、会えばいつもの先生だった。闘病されていることも聞いた。パンデミックが落ち着いて、イタリアに行く機会をもてるようになったら、同窓のみんなとお見舞いにゆこう。そう思ってはいた。でも思っているだけで終わってしまった。

親父の時もそうだった。おふくろのときも同じだ。なんだか思っているだけど終わってしまう。でも終わってしまった気がしない。いつでもまたひょっこり会えると思ってしまう。マリーサ先生って、なんだかイタリアのお母さんのみたいな人だったんだな。もう逝ってしまわれたけど、今、ぼくの記憶のなかに、その優しくて、怖くて、厳しくて、甘い、あの表情が次々と浮かび上がっている。

どうか、安らかにお眠りください。