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無主の地

 さっき書いた「悪魔の誘惑と人生の自転車」を読んでくれた知人から、チェコで大統領を務めた劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel、1936 - 2011)の「死にいたる権力」(『世界』岩波書店, 559号pp.64 -69, 1991)をすすめられた。なるほどこれもまた「権力」に関して、とても示唆に富む文章だ。以下、備忘のため、その知人に書いた返事を若干書き直した上で、転載しておく。

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 そうなんですよね、権力とは死に至る病なんですね。だから権力に関わる政治の人は、ことさらに謙虚である必要がある。それはそうなんです。でも、謙虚な人だって誘惑されてしまう。これをどう防ぐか。ひとつの解はアメリカの大統領制ですね。あれは、政治家が人として謙虚であろうとなかろうと、システムとして死にいたるまで権力を与えることがない。そんなふうに設計されている。たとえば内田樹さんなんかは、そのアメリカ論でそう論じます。

 そう考えれば、イタリアの大統領制も似ています。任命権しかもたない大統領ですから、その権力はほとんど象徴に近い。これもシステムとしてうまくできていると思えます。でも、プーチンは違う。任期を伸ばしてしまった。こういうことをやると権力のその病の相を剥き出しにします。それがぼくたちが今、目の前にしている事態ではないでしょうか。

 人は権力をめざす。その権力には悪魔が宿っていて人を誘惑する。そう考えて制度設計をするしかなありません。政治は長い時間をかけてそういう制度を設計してきた。古いところは古いなりの制度を作り上げ、新しいところは新しい制度で、そういうシステムをめざす。長く続くシステムはそれなりに有効性があるのかもしれません。

 いっぽうで、悪魔が宿る権力は、そもそも政治だけのものではない。それは、社会文化のあらゆるところに見出せるものです。なにしろ悪魔は、言語とかコミュニケーションの背後に隠れている。そして経済的な交換様式もまた、それが言語とコミュニケーションに基づくものである以上、そこには悪魔が潜んでいる。そう思うのです。

 そもそも権力は言語をその源泉としています。悪魔が隠れているのは言語なのではないでしょうか。ぼくはそう考えてしまうのです。だから、普遍宗教はその言語を否定しにかかる。仏教的な解脱は、言語的な循環、あるいは交換様式にやどる悪魔(輪廻)からの解放ですよね。おそらくキリストも同じです。キリストが神の子であり、神のこ子として死に、神の子として復活するのは、言語の否定と、言語の救済なのではないでしょうか。

そんなふうに考えてくると、ぼくらが目の前にしている悲劇とその「やるせなさ」は、言語の限界と可能性の狭間に開かれた、言語を無効にしてしまうような光景なのかもしれませんよね。その圧倒的な暴力の場において、言語には何もできない。何もできないけれど、それではやはり言語でしか、その場を収めることができない。言語が無力でありながらも、同時に唯一の救済でもあるような場所。それは言語という主を失ってなお、主人の到来を待ち焦がれている無主の地なのではないか。そんなふうに思うのです。

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