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東日本大震災を訪ねて③

昨年の3月、東北を訪れた時のお話です。
(Noteを書いたのは去年)

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3月10日。

この日は、宮城県の閖上(ゆりあげ)・荒浜へ。

荒浜は、案内をしてくださった方々が、3.11で実際に被災された地。

私たちのために、当時のことをたくさん話してくださった。


活気をもう一度、ゆりあげ港朝市

閖上では、朝市へ。

このゆりあげ港朝市は、30年以上も前からずっと続いているものだという。

津波の被害を受けて、なにもかも無くなってしまった後、

近くのイオンの駐車場で再開し、ふたたび閖上に戻ってきた、という歴史を持つ。

着いたら、せりが始まっていた。

値段で競るのではなく、持っているうちわをいかに早く上げられるかで競る。要は勢い。

実際、スピードなんて見きれないから、主催者の裁量次第なところが大きいのだけれど。笑

…………

この市場で買ったものを、海沿いで焼いて食べることができる。

最高に美味しかった。

↑山形新聞の方が取材に来ていて、撮ってもらった!


焼くのを手伝ってくれたお店のおじさんは、本業は「屋根屋」だと言っていた。

先輩の話によると、ボランティアでこの朝市に来ている人もいるという。

閖上をもう一度盛り上げるために、朝市に活気を取り戻すために。

…………

ゆりあげ港朝市の横には、「閖上の記憶」という震災関連の展示がされていた。

閖上の記憶

震災で亡くなった方の遺品などが、展示されている。

この展示の場所であるプレハブは、クラウドファンディングで支援を募り、やっと購入できたものだという。

それ以前は貸しスペースを借りてやっていた。

こうして展示を続けることも、とても大変なことなのだと、はじめて知った。

津波によって曲がったガードレール


荒浜

ついに、荒浜に到着。

まずはじめに、東日本大震災の慰霊碑の前で手を合わせた。

この慰霊碑の高さは、荒浜を襲った津波の高さとほぼ同じ高さでつくられているという。


慰霊碑の横には、震災で亡くなった方の名前が記された石碑がたっていた。

その名前を指さして、
「これ、同級生の〇〇」

そう先輩は言う。

私にとっては、石碑の名前は「誰か」が亡くなったんだという記号でしかなかった。

けれど、先輩にとっては、
顔も声も知っている大切な人で、

「誰か」が「先輩の大切な人」に変わった時、どうしようもなく辛い気持ちになった。
何も言えなかった。

…………
海岸沿いの松の木

この荒浜の海岸沿いには、松の木がたくさんあったという。
松は潮風に強くて、何十年後かには松林になるね、なんて話してたらしい。

でも、津波を浴びて、この松はだいぶ枯れてしまった。

もっと言えば、この松の枯れている部分の高さまでの大きさの津波だった。

…………

先輩が、昔の荒浜の写真を持ってきてくれていた。

写真をとった場所と、同じ場所に立つ。

震災前との比較

「ほんとに、なんにもないですね」

本当にここに街があったとは、思えない。

そして、8年経っても更地のまま。

…………

地震があったその日のことを、話してくれた。

先輩は、お母さんが家にいたから、車で逃げたという。
まさか、家が流されるなんて思ってないから、PCは2階にあげて、泥棒が入ってはいけないと玄関の鍵も閉めて。

一度避難してしまえば、情報は入ってこなくて、どんな状況になっているかは分からなかったらしい。

深夜のラジオで、「遺体が200~300」という言葉が聞こえてきた時は、ん?って感じで、状況は読み込めず、

一夜明けて水がひいたあと、荒浜小学校から七郷中学校(海岸から5kmほど)まで歩いてきた人達から、

「荒浜には家がないよ」

という言葉を聞いて、家が流されたということを初めて知ったという。

歴史の中で、過去に何度も津波の被害を受けてる荒浜は、「津波がきてもだいたいどこまで」という認識があったらしい。

だから、地震が起きた時、「家から出ない方が安全」だからと、逃げなかった人もいたという。

でも、東日本大震災の津波は、それを超えた。

津波は、海岸から4km離れたところまで到達。
家にいた人は、のまれてしまった。

…………

誰と話していても、
「誰もこんなになるなんて思ってなかった。」
そんな言葉をつぶやいていた。

誰しも、自分は大丈夫、と思ってしまう。

けれど、そんな奢りの気持ちを持たず、
津波の脅威を認識して恐ろしいと感じることが次の震災に備える第一歩だと、実感した。

(2019.3.10)

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