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季節の谷間の鎌倉散歩 歴史に思いを永福寺跡 20.03.15 12:15

瑞泉寺から駅方面へと歩いて永福寺跡へ。

永福寺は源頼朝が滅ぼした奥州藤原家や弟義経など奥州合戦の戦没者を弔うために建てたもの。鎌倉三大寺社の一つと言われるほどのものだったが、創建200年後火災により消失したそうだ。

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中心の堂宇が2階建てだったため二階堂と呼ばれ、それがこの辺りの地名になったらしいので、永福寺は幻でもその堂宇はいまだ地名に名を残している。(鎌倉、奥が深い)

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今は発掘調査後礎石が復元されているが、このご時世、鎌倉市に到底堂宇を復元するほどの余裕はなく、礎石の広がりを見て寺の大きさを想像するだけだが。

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なので、長閑な山間の空き地程度の認識が今の永福寺跡だ。
隣では市民がテニスを楽しんでいる。
歴史とは程遠い雰囲気。

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そもそもついこの間まで永福寺跡だってなにもないところだった。
それを世界遺産登録に向けてなのか遺跡の掘り起こしが始まり、あれよあれよという間に永福寺跡ですとなった気がする。そして代わりといっては何だが世界遺産登録は泡と消えた。発掘損だ。

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鎌倉の歴史って、伝なんとかばかりで、ホントなのかウソなのか想像なのかが分かりづらいところがある。日本人ならなんとなくそうなのかと納得もするけれども、外国人にはそういう忖度みたいなものって通じないのだろう。
鎌倉の地に武士が築いた幕府がありましたといっても、ホントですかと言われたときに言葉がない。鎌倉の地に鎌倉時代からそのまま残るものって数えるほども残っていないだろう。

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しかし頼朝も東北で散々藤原氏を叩いておいて、御霊を弔うとかなんだかなぁ。やるだけやったのは自分だというのに。事が終わればいい人風を装いたかったのだろうか?平家追討と義経探索として守護地頭を設置し、藤原氏を滅亡させたことで全国を手中に収めた。
頼朝も、武士と言うよりは政治家だよなぁ。
実質的な日本制圧は承久の乱の鎮圧で決定的になるのだが。

今となっては長閑とした表現のしようがない永福寺跡の礎石に腰を掛けて、鎌倉時代に思いを馳せるのもいいかもね。
ぽつりぽつりとしか観光の人も来ないから。





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