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1000日チャレンジ 942日目 「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(若い読者のための科学史)CHAPTER 25 The Greatest Show on Earth

ゴールまで58日

★BMI:22.6

「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(Bynum, William著;Yale University Press;2012年)を原著で読み進める(全40章)

◎CHAPTER 25 The Greatest Show on Earth
★主な内容
チャールズ・ダーウィン(1809-1882)は、医師の子として生れたが、博物学や生物学に興味をもって育った。医師への道を断念して牧師を目指した彼はケンブリッジ大学に入学する。大学での博物学や地質学の今日中との交流を通して博物学者への道を志す。大学卒業後、イギリス海軍の軍艦”ビーグル号”に博物学者として搭乗する機会を得る。彼は1831年~1836年、この船で世界各地を訪れた。その間の日誌「研究日誌」(現在は「ビーグル号航海誌」として知られている)は科学の旅の記録として現在でも読み継がれている。この旅で、彼は、チリで大地震による海岸線の大きな隆起をみたり、南米大陸で現在の種と似た多くの化石をみつけたり、そして、ガラパゴス諸島では、島によって異なるゾウガメや鳥たちの観察を行った。帰国後、親から子への遺伝について考察するなかで、適者生存(彼はこれを自然選択とよんだ)というアイデアにいきつく。彼は自身も飼っていたハトでブリーダーが優秀な特質のハトを作りだしていることを知っており、このような人為選択と同じことが、非常にゆっくりとではあるが自然界でも起こっているのではないかと考えるようになった。しかし、彼はこの説をすぐに公表できずにいた。
1858年、イギリスのアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823-1913)がダーウィンに自身が発表しようとしている短い論文について意見を求める手紙を送ってきた。そこには、ダーウィンの自然選択の考えと同じことが書かれていた。ダーウィンの友人たちは、そのことに焦って、ロンドンのリンネ協会において、ウォレスとダーウィンの仮説を共同発表させた。その後、1859年にダーウィンは「種の起源」を出版した。
「種の起源」での主張の中心は2つあった。1つ目は「自然選択が有益な形質 の生存を優遇する」こと、もう1つが、「自然選択は自然の状態で長い期間 をかけて新しい種作り出した」つまり進化をおこした、というものだった。この説は、それまで観察されてきた多くの事象をうまく説明することができた。「種の起源」は多くの批判も受けたが、ダーウィンは生涯、この本の内容の改訂を続けた。

★単語
naturalist
;博物学者、criticise;批判する、transmutation;転換、barnacle;フジツボ、natural selection;自然淘汰(選択)、emphasize;強調する、inheritance;継承、astonishing;驚くべき、pollinate;受粉する

※アルフレッド・ラッセル・ウォレス;「Alfred Russel Wallace
(1823―1913)イギリスの博物学者、進化論者。マンモスシャーに生まれ、土地測量や建築業に従事したが、学校教員時代に昆虫学者ベーツH. W. Bates(1825―1892)と知り合い、1848年から1852年まで、ともにアマゾン地方の博物採集を行った。さらに1854年から1862年にかけてマレー諸島に旅行し、博物学および動物地理学の研究を行った。この間に経済学者マルサスの『人口論』を読んで、ダーウィンとは独立に生物進化の「自然選択」の原理に思い至り、「変種がもとの型から出て無限に離れていく傾向について」On the tendency of varieties to depart indefinitely from the original typeという論文を書いて、1858年2月にダーウィンに送った。ダーウィンはこの論文を地質学者のライエルに送り、ライエルと植物学者のフッカーの勧めによって、自説の抜粋や、アメリカの植物学者グレーへの手紙をウォーレスの論文とともにリンネ学会で発表し、一方、執筆中であった種の起原に関する大著を中止してあらましのみを書き上げ、翌年に『種の起原』として出版した。ウォーレスは「自然選択による種の進化」の考えをダーウィンの功績に帰し、それを「ダーウィニズム」とよび、1889年には同名の著書を出版した。そのほか、生物の分布に関する研究でも大きな業績をあげ、オーストラリア区と東洋亜区との境界線であるウォーレス線(ワラス線)にその名をとどめている。進化論に関しては、のちに、人類の脳は自然選択の結果ではありえず、「なんらかの高度な知性存在が、人類の発達の過程を方向づけた」と結論して、ダーウィンと対立した。晩年は心霊術に凝り、また種痘には、動物の成分を人間に接種することは人間性に対する冒とくであるとして、反対を唱えた。」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)より引用)
※自然淘汰説;「自然選択説とも。進化の要因論として,C.ダーウィンとA.R.ウォーレスが同時平行的に到達した説。生物は原則として多産性で,そのために起こる生存競争の結果,環境により適応した変異個体が生存し,その変異を子孫に伝える。このため生物は次第に環境に適応した方向に向かって進化するという考え。ダーウィンはこの説を《種の起原》において本格的に論じ,それによって進化論は広く認知された。その後20世紀に入り,遺伝学や分子生物学の裏づけを得て,現代の進化論の中でも中心的な位置を占めている。」(平凡社百科事典マイペディアより引用)

ダーウィンもまた、科学的な競争の中にいたということを改めて知った。現代では、彼の説は修正をしつつ分子生物学的な裏付けを受けて増強されている。同じようにガラパゴスに行っても、誰もが同じことに気がつくわけではなく、やはり科学の基本は観察であり、”当たり前”を疑う姿勢なのだと感じた。


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