noteをはじめた理由と自己表現

私がnoteをはじめた理由は布教note、沼落ちブログにいいねを押したかったからです。





え?それだけ???は?と思った方。本当にそれだけです。



私は、小学生の頃、毎日のように図書室に行き、毎週のように本を借りていました。文字を読むことが大好きで、成長していくにつれて、当時ははっきりこの表現が面白いとかまでは考えが至らなかったのですが、今思えば無意識にそういう文の違いとか面白さの虜になっていたんだと思います。創造されて生まれてくるものが大好きでした。

しかし、自分自身はとにかく自己表現が苦手でした。いつも普通でなければいけないと思っていました。別に何か突出したものがあっていじめられた経験など一つもありません。強いて言えば、最近、小さい頃を思い出していて思い当たることが2つありました。

一つは、母親です。私の両親は公務員と医療関係というお堅い職業トップ2みたいな(公務員と医療関係の皆様すみません。本来はとても良い意味です。)2人なのもあるのか、両親の職業を誇りにもっていただけに、幼い頃の私の思考は直接役に立つか・立たないかの2択でその他の職業に偏見を持っていました。そこに拍車をかけたのが母親でした。母親は、国家資格を持っている事とピアノを長年すごい先生の元で習ってきたというプライドがあるらしく、とにかく勉強が出来ない人と歌が下手な人は嫌い。といった好き嫌いが激しい人でとにかく辛口です。そして何にでも真に受けるタイプなので、テレビのドッキリなども可哀想などと言って一刀両断(笑)そんな母親の発言を聞いて育っていた私は母親の言うことが全てだと思い込んでいました。生憎、私の家には自由に使えるパソコンもゲーム機も有りませんでした。外の世界を知ることなく視野がどんどん狭まっていき、母親の言うことが「普通」なのだと思い込んでいたのかもしれません。

もう一つは、親友です。親友は私と真逆のタイプでした。程々成績が取れる私と全く勉強したがらない親友。クラスでとにかく静かにしている私と興味のあるものは積極的に立候補する親友。好きなものがなかった私と好きなものを好きと言える親友。ところが、学年が上がるにつれて親友は「空気が読めないヤツ」のような扱いをされ始めました。それを側で見ていて、当時は本当にこの子のようにはなりたくないとさえ思いました。親友のように自分を出していったら虐められるのだと学習してしまいました。


この2つが原因なのかただの自分のもとからの性格なのかわかりませんが(こういう人のせいにするとこほんとよくない(笑))とにかく作文が全く書けませんでした。(今も)まだ感想文とかならマシなのですが自分の思ったことを書きなさいと言われるとそれを読んだ人に笑われないかという事ばかり考えてしまって筆が全然進まない。。志望理由書とか地獄でした(笑)



一方、親友は今となればなんだかんだありつつも社会人を全うし良い彼氏を持ち、多分私より充実して生きています。(こう言うのを比べてしまう時点でダメなんだろうけど)何より、壮大な夢を真剣に語れるのが本当に羨ましいです。私は今ごろになって勉強以外の特徴があること、自己表現の重要性を実感し始めました。


noteを書いている方は自由に自分の言いたいこと、感じたことを素直に書かれています。そのことが凄く凄く羨ましいです。ここで最初に述べた話に戻りますが、布教noteとか沼落ちブログ(もちろん自分のはそれっぽく書いただけなので含みません笑)  のように自分の好きなことを自分が感じたまま書けるって私からしたらとてつもなくすごいことで。それにいいね!って気持ちを届けたい。自分もそんな文章が書けるようになりたい。そう思って始めたnoteです。










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