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【雑記】5億年ボタンは押すべきではない――その絶対的な理由とは

押せば100万円、ただし5億年の時を過ごさねばならない――もしこんなボタンがあったら、あなたは押しますか?押しませんか?


この「5億年ボタン」の話は、ネットで時たま話題になる。
正確な条件はこうだ。

ボタンを押すと空間に飛ばされて、そこは餓死などの心配もなく、寝る事も出来ない。自分の身一つで5億年生きられる設計となっている。5億年経過すると、全ての記憶が消去され、元の場所へ戻る。
そして100万円を入手できる。

ニコニコ大百科「5億年ボタン」より

この5億年ボタンを語るうえで重要なのは、

  • 5億年という膨大な期間、何もない状態で生きなければならない

  • しかし、その記憶は完全に消去されるため、後からすれば、ボタンを押しただけで100万円が出てきているのと違いがない

という二つの点であると思う。

さて、この問題は答えがないため、当然押す派と押さない派に分かれる。
このとき、押す派は「ボタンを押しただけで100万円が出てきているのと違いがない」という後者を強調し、押さない派は「5億年という膨大な期間、何もない状態で生きなければならない」という前者を強調する。

どちらも説得的であるかのように感じるこれらの選択は、実は、押す派にとっては非常に困難な問題が付属される
本記事では、なぜ「押さないほうがよいのか」ということを、押す派の問題点、そして押さない派の問題を起こさない解釈を提示する

押す派の不文律:「後からすれば」の正体とは

まずは、押す派の大まかな考えを見てみる。
押す派にとって、「押す前の自分」と「押した後の自分」は同一である
押す派にとって、押す前と押した後の自分は一貫しており、「5億年を過ごした自分」は一貫する自分とは全くの別物であると考える。

5億年過ごした自分が現実の自分とは全くの別物である、という考えは、一見突拍子もなく見えるが、実はそうでもない。
5億年過ごした時間が完全に消去されるということは、その時間は絶対によみがえってこない、ということでもある。
また、押した後、周囲の人間がその時間があったことを知ることもないだろう。
よって、自分にとって感じたことのない、周囲にとっても知っていない時間など、そもそもないも同然ではないのか?というわけである。
また、この論の補強的説明として、エンターキー理論が挙げられたりする。
つまり、私たちが普段押す「エンターキー」も、それが5億年ボタンである可能性はあるのだから、「5億年ボタン」についても、それを押す問題は何もない、と言っているのである。

さて、こうした押す派の観点には、実はある無条件の感覚がある。
それは、「後からすれば」自分は一貫しているし、「後からすれば」5億年も何もなかったことになる、という視点である。
実はこの視点は、非常に答えるのが困難な問題提起を発生させる

この問題提起は、エンターキー理論も含めると2つ発せられる。

そのうちのまず一つは、「死からすれば私たちは『ない』も同然ではないのか」というもの。
まず、「後からすれば」という表現は、未来であることを絶対化する視点である。
そして、この未来の視点を根拠にするためには、その未来がいかに根拠として説得力を持つか、ということが重要である。
だが、未来とは、可能性の形式である。それは「何かがあるだろう」という可能性を示し、それを考えるならば「何かがないだろう」(=死)という可能性も発生するのは必然的である。
この「何かがないだろう」という死の可能性は、未来の視点を持つならば必ず含み持たれるものだ。
「死」とは「ない」ものであるから、未来の視点を絶対化するならば、「未来が死ならば、すべてはないも同然である」と表現することは可能だ。

もう一つは、「今からすれば過去は『ない』も同然ではないのか」というもの。
これは未来から現在を規定するのとは少々わけが違う。
まず、エンターキー理論の主張とは「私たちが普段何気なく押すエンターキーも5億年ボタンかもしれない。しかし、私たちは何も感じていない。つまり、5億年ボタンは何も起きなかったも同然だ。よって、5億年ボタンは押すべきである」というものだった。
これは可能性を必然と読み込んでいるので、1つ目の可能性(未来)から現在(必然)を見通すことは可能なのか、という文脈に落とし込むことは可能である。
とはいえ、あくまでもこの論理を好意的に解釈し、「エンターキーが本当に5億年ボタンだった」としよう。
しかし、これでも問題は生ずる。これは現在の力を絶対化し、過去の力を無化している。つまり、現在がこうならば、それにそぐわない「過去」はないも同然である、というわけである。
だが、もし「過去」がないも同然なら、それは本当に「ないも同然」なのではないのか?
過去の力を無化していることを考えるなら、この「エンターキーの5億年ボタン」は、「起きなかったも同然だ」の部分を「起きなかった」に置き換えて、「過去には起きたが、それは起きなかった」と表現できるはずである。
だが、そんなもの、まさしくないも同然である。起きたのに、起きなかったものというのは、結局何も起きていない
そうして何も起きていないものを、どうして5億年ボタンという未来の話に適用できるのか

押さない派の〈特権〉――押さない派はこのようにして正当化される

このように、押す派を選択することは、回答すべき困難な問いが発生することになるのに対し、押さない派はそのようなことを考える必要はない
なぜなら、押さない派は現在を特権化することが可能だからだ。
現在とは、そうなっている、ということを、否応なく真にする。この絶対的な必然性にとって、死の可能性は意味をなさない。もし死の可能性が現在に到来し、それが実現したならば、そのときはそうなっていることが真だったというだけであり、現在はそれに成すすべがないというだけにすぎない
だが、5億年ボタンの場合はそうではない
5億年ボタンの場合、それを押すか押さないか、その可能性を選択することができる。つまり、現在において「そうなっているということを真にする」という性質を用いて、どれを真にできるかが選択可能なのだ。
このとき、5億年ボタンを押すということは、その後5億年を現在として過ごさざるを得ない(注: 5億年ボタンの前提は、否応なく真とする)ということだけが確定的であり、それ以外の未来は可能性にすぎない。
つまり、5億年をすごしたのちに記憶が消えるということが確定していたとして、それはそれとして、結局は5億年を記憶を連続させたまま、それを現在として過ごさなければならない、ということがはっきり言える。
結局、5億年を「そうなっていることを真にする」という否応ない性質を持つ現在として過ごすのであれば、それは過ごさないほうがいい。
よって、5億年ボタンは押さないほうがいい、となるのである。


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