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できのわるい生活とその他雑事の報告

まず最初に書いておかなければならないのは,このnoteのアカウントに紐づけていたTwitterアカウントが凍結された,ということです.現時点(2023年2月3日17時頃)において詳細は判明していないものの,どうやらこの凍結は限定的なものではなく,Twitterにおいて全体的に行われた模様です.復帰はいつになるかは分かりませんが,しばらくはnoteで身も蓋もないことを書くことを続けようと思います.


さて,実のところ,Twitterが一時的にでも凍結したのは私にとって僥倖でした.というのも,Twitterにおけるツイートの活動は,私の精神を高めうるがゆえに,私の情緒を極めて悪辣な形で逼迫していたからです.このことを説明するためには,まず,私がどのような意識でTwitterを用いており,どのような意図がありえ,そこにはどのような企図があったかということの所見が要請されるかと思います.

そもそも,私がTwitterを運用するうえで有していた意識というのは,この媒体が決して内容として一次的になりえないことに着目することによって確保されていました.すなわち,Twitterにおいて行われていることが「何かを喋る」のでもなく「何かを書く」のでもなく「何かをつぶやく」ことに,私は何らかの示唆を覚えていたのです.最近ではこのことを「書き言葉による話し言葉の模倣」と形容し,それが原理的に残り続けるもの(ex. デジタルタトゥー)でありながら,決して見向きもされないことさえありうる場として把握することにより,Twitterを運用するうえでの基軸として云為していました(といってもこの所信表明自体は一度ツイートとして流したっきりでしたが)

このことがなぜ私に示唆をもたらしたかといえば,以前までのnoteを読み,把握されている方であればご理解いただけると思いますが,私の思索上の試みとして,私は原理なる事態を存在論的に自明であることを把握するために「明晰」(メタファーとしての自同律)であることよりも「妄想」(メタファーとしての爆発律)であることをより重要視しているためです.
これははたして私の企図における知的能力の貧弱さや,措定としての道徳規範のおぞましさ(余談になるので詳細は省きますが私自身は根強いところで神の十全な機能として実現し得る奈落の事態を信頼しているように思います),また私の神経症的傾向などが起因すると見るのが蓋然的でしょうが,そのことを明晰に捉えることによって(つまり蓋然がまさに確からしいことを確信することを試みるのによって)私自身を「治療する」やり方は,少なくとも今日におけるまで失敗してきました.
私がこのとき極めて愕然したのは,いかに精緻な,それは理論が精妙であることの示唆であったり,まさに自らにおいて得心がいくことであったりも含みますが,そのようなことが,ただ,何の内容も伴わぬ,しかし事実的(形式的逆説のともなわないザッハリッヒな事態)な「疑い(懐疑と区別して以下疑惑と呼称)」という現象により,その形をそのままにして(ここが重要です つまりはその真実性,ひいては形式的逆説として形式上の真説を指示する事態については一切を異ならせることなく)あらゆる価値を既にして(形式的に先行して)喪失に至らしめていたことです.
このとき「そもそも」(真実にへばりつくようなやり方)の話になりますが,当然のことながら,これは真実的事態においては無意味です.というのも,上記の文章の後半において,定義においては「形式的逆説のともなわない」と表記されていたはずの疑惑が「形式的に先行して」と恣意的な解釈が行われています.この時点で,私があくまでも私自身を真実的な体系における一員(すなわち人間)であるとしたとき,それはまごうことなき虚偽であることが示唆されていると思います.
そして,ここからになりますが,では,もしもこのときの「虚偽」が,真実のうちにおいてその余地を確保することがあるとするのならば,それはなんでしょうか?このとき,ふたつの喩えを引き合いに出しましょう.一つは真実が世界において十全に表現されている「A世界」と,もう一つは真実が世界において表現される余地のない「B世界」とです.さて,B世界において,このとき真実という事態は無意味でしょう.なぜならば,その世界内において真実が表現されない以上は,それがどのようにしても真実の価値を有することはありえないためです.そして,A世界においてですが,このとき,A世界においても真実は無意味となるでしょう.なぜならば,表現という価値表現形式において,それは必ず交換としての形式を,すなわち形式的な逆説を採る必要がありますが,A世界において真実が十全に表現されているということは,すなわち真実が「端的な真説」であることを意味するはずです.ならばもしもそうなったとき,表現内における形式的な逆説とはあくまでもそこへと昇り詰めるための「はしご」でしょうか.ですが,まさにその「はしご」こそが,端的な真説で「あらざるをえない」のがA世界ですから,このとき,真実は真実としての価値を失っているでしょう.A世界における真実とは「真実そのもの」であるほかになく(そしていかなる表現もまた真実そのものであらざるをえず),そこに価値を認めるような逆説的な形式の実在は原理上認めようがないか,あるいはそれこそが既に真説でしかないためです.
さて,ここまでA世界とB世界を比較してきましたが,このとき,A世界とB世界における真実の階級(存在論的価値階級)は原理上ありえないことが示されたかと思います(当然,それは世界内容においてありえたりすることはあるのでしょう).ではこのとき,我々はA世界との真実と,B世界との真実とを,一体どのように区別すればいいのでしょうか?私は,それが端的な真実においては,決して比較しえぬのだと考えました.ではどうするか,というときに,ここでようやっと「事実」が,すなわち疑惑としての「強弁可能性」が主張され,少なくともそのようにしてA世界とB世界と区別することは「可能じゃないか」と「強弁する」ことに,私はひとつの道程を見出しているということになります.

長くなりましたが,私はこのような強弁可能性をより機能的な側面として実現するために,Twitterを運用していた,ということになります.しかしながら,あくまでも私の(ひいては我々の)いる次元というのは「真実」に存するのであり,あるいは存さざるを得ないのであり,私の試みる存在としてのアイロニー(生成論的存在論の強弁可能性)は,至極当然な形で「真実化」していたように思います.私にこれを忌避する権限は真実上与えられる由もありませんが,とりあえずは,Twitterが凍結されるまでのあいだ,もうしばらくはnoteにおいて,くだくだと色々なことを喋ってみたいと思います.
どうぞよろしくお願いします.

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