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「誰かのため」なんて、当たり前だった。

すごい就活やキャリアで呪いの言葉のようにまとわりついていた「誰かのため」という言葉。
私にとって、すごく耳が痛くなる言葉だった。

自分の「やりたいこと」を考えると、「目立ちたい」「世の中に影響を及ぼしたい」といったことばかり口にしていた。

だから、「人の命を救いたい」「人のために役に立ちたい」と話す人を見て、「あの人は本当に心が綺麗なんだな、すごいなあ」と見ていた。
それに比べて自分は、、、と悲しくなっていた。

自己中心的で、とても情けなくて、なぜかできない。
誰かのために動かなきゃ、そういう思考にならなきゃ、そう考えていた。

でも、そういった考えは間違っていると感じた。

「誰かのため」というものも、結局は「自分のため」になると思っている。
「ボランティアで困っている人を助けたい」という人も、「自分という存在が誰かのためになりたい」ということなんじゃないかと変換できる。
だから、「自分のため」も「誰かのため」に変換できる。
だから、「世の中に影響を及ぼしたい」ということも、「世の中の誰かのためになる」というざっくりな言い換えができる。

しかし、自分の過去を振り返るといつも「自分のチームのために動く」ということをやりたがっているように気がした。

大学時代、よさこいサークルに所属していた。踊りも上手くなかったし、周りから慕われているわけでもなかった。
大学1年の夏から、自分のチームだけでなく他のチームの練習にも参加するようになり、交友関係が広がった。そこから、他のチーム以外の練習に参加したり話も聞いたりして、自分がそれまで自分たちのチームがどれだけ甘いのか痛感した。
常に賞をとるような競合チームがどんな意気込みで日々の練習に取り組んでいるのか、どういう問題意識を感じているのか、自分たちが踊る作品をどうやって作っているのか。覚悟が全く違うことを感じた。

気づいたら「どうしたらチームをもっと知ってもらえるのか」「どうすれば賞を取れるのか」といったことばかり考えていた。そこから、いろんなチームの演舞を見たり、チームの仕組みを考えたり積極的に発言するようになった。

つまり、「誰か・何かのため」に頑張る、ということが当たり前だったのだ。確かにこれも、「自分のチームの価値を上げたい」という自己中な思いが根底にあると思う。
でも、もっと活気を作りたい、もっと明るくしていきたい。気付いたら「誰かのために」動いていたのではないかと感じている。

そして、こういって動いたことで「一緒に頑張れて楽しかったよ」「あなたがリーダーでよかったよ」と言ってもらえた。
こういった瞬間を思い出すと、ああ私も誰かのために動けていたのかな、と感じる。
もうとっくにみんなの心には残っていないだろうが、確かにその期間だけは「誰かのために」動いて、目標にめがけて全力でやり切る。

仕事、プライベート、どんな時も全力で、お客さんのために、友達のために動いていると感じた。

プレゼンでは誰よりもクライアントのことを考えて資料を作るようになった。クライアントのことを考えて上司の言うことにも意見することもあった。(ひねくれた新人でごめんなさい)夜遅くまで資料作りすることも苦にも感じず、1人で黙々とやることも多かった。だから最終的に、自分の提案がクライアントに褒められた時、とても嬉しかった。

プライベートでも、友達や親にサプライズでこっそりものを贈ったり、誕生日だったらそんなに仲良くなくてもメッセージを送っていることもある。友達の相談には真剣に応える。(これ普通は聞くだけの姿勢が正しいとされていることもあるけど)

だからあるとき、
「ああ、私は誰かのために動くことはどんなことでも無意識に行動していたんだな、だから目標の中に残りの自分のためにが露出しているんだな」
と考えるようになった。

「気付いたら」誰かのために動いていた。これも自己肯定感を保つための勝手なこじつけかもしれない。
でも、自分の中で少し気持ちが軽くなった気がするし、自分のことをちょっとだけ好きになれた気がした。





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