20代、最初の転機

念願のひとり暮らし。
希望に満ち溢れた大学生活が始まった。

大学での4年間は、私にとって人生の宝物と胸を張って言えるくらい充実した時間だった。
信頼し合える友達、尊敬する先輩、可愛い後輩たちに出会えたおかげで、内面から変わり、周りへの「感謝」無くして生きていけないことを学んだ。


大きなきっかけは、バレーボール部に入ったこと。
部活といっても経験は問わず、決まった時間に来たい人だけ集まって楽しくバレーボールをするサークルのような雰囲気だった。
中学でバレーボール部に所属していたので、あまり深く考えず入部することを決めた。
初めて参加した日から、ゲーム中には「〇〇ちゃん!パス!」と先輩たちから名前を呼ばれる。
点を取ると「ナイスー!」とチーム全員からハイタッチ。
緊張はすぐに解け、アットホームな雰囲気が大好きになった。

部活は、週3回だったが毎回人が集まるわけではない。
サークルを掛け持ちしている人も多かったし、大学生はバイトで忙しい。
私は朝にバイトをしていたし、もう一つ所属していた委員会とは曜日が被らなかったので、ほぼ毎回体育館に足を運んだ。
ゲームができないほど集まりが悪い日は、先輩がごはんに連れて行ってくれることもあった。

4回生の先輩Oさんは、私と同じように毎回体育館に来ていた。
後輩たちに優しく、初対面の相手でもいじってくるような気さくな性格で、みんなから好かれていた。
雨が強く降っていて、4人しかメンバーが集まらなかった日。
「ごはん行こう!」とみんなを連れ出してくれ、当たり前のように全員分の食事代を奢ってくれた。

Oさんだけでなく、先輩たちとご飯に行くと1回生が財布を出す機会なんて全くない。
いつもは、先輩が数人いることが多いので、2人、3人で全員分を割って支払ってくれていた。

今回、先輩はOさんひとりだった。
4人分を負担させてしまうのはさすがに申し訳なく、「いつも、すみません。わたしも出します!」と言うと、
「1回生は財布なんか出さんでいい!今のうちに奢られとき。後輩ができたときに自分がされたことをしてあげて。」と、優しく返された。


先輩たちと過ごす時間はとても居心地が良かった。
厳しさや怖さみたいなものは一切無くて、ついタメ口で話してしまうほど近い距離間でいてくれたし、何をするにも程よく甘えさせてくれた。
2つ、3つ年下であることを気にせず、学校内で出会えば友達のように話しかけてくれ、たくさん相談に乗ってくれた。遊びにも誘ってくれたし、旅行に行ったりもした。

これまで周りにいなかった価値観を持った人ばかりで、親に言われると嫌なこともすんなり聞き入れられたし、勉強が一番大事だと凝り固まっていた考えを和らげ、人と関わることの温かさを感じさせてくれた。

これまでの学生生活で、後輩から慕われた記憶は無かった。
接し方もよく分からないし、敬語で話されることにどうしても距離を感じてしまい、年齢の異なる人たちと打ち解けることが出来なかった。

「先輩たちにしてもらったことを、今度は後輩たちにしてあげたい」
次第にその思いが強くなり、2回生になる頃には、次は自分がアクションを起こしていく番なのだという自覚が自然に芽生えていた。


実は、もうひとつサークルに所属していた。
新入生歓迎会をきっかけに、「生協学生委員会」という存在に興味を持ち、友達と見学に行き、すぐに入ることを決めた。

当時の委員長は、カリスマ的存在だった。
大勢の前でも臆せず全身を使って表現するパフォーマンスが得意な、「リーダー」そのものを体現したような人だった。
入ったばかりの新入生にとっては遠い存在で、目に止められることなんてあり得ないと思っていた。

執行代の3回生は、8月の合宿をもって引退となる。
4月に入ったばかりの1回生には、4か月余りの短い時間はあっという間すぎて、特に深い思い出もないまま代替わりとなってしまう。

引退式を兼ねた夏合宿。
そこで3回生からメッセージの寄せ書きをもらった。
そこに書かれていた委員長からの言葉はこうだ。

「〇〇は、リーダーに向いている」

衝撃だった。
これまで、リーダーの役割をしてきたことは何度かあるが、委員長にそんな話をしたことはない。
それどころか、大して喋ったことも無かったので、大人しく内気な性格に見られているだろうなと自負していた。


この言葉は、大袈裟ではなく、私の人生を大きく変えた。
その後、学生委員会にどっぷりはまっていくこととなり、卒業後の進路にも大きく影響を及ぼした。

続きは次のnoteで。






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