記録

お久しぶりです。20歳の誕生日というビッグイベントがあったにも関わらず、気が病んでしまっていたこともあってか、毎日少しだけ下書きしては文章にしないまま過ごしてしまったので、今日全てここにまとめます。以下。

4月17日

起きる。起きたくない。また寝る。これはダメだ、鬱みたいなやつだ、やばいぞ、と、Twitterで呟いてしまう。みんな同じことを思っているのか、それとも今コロナ関連のことを呟いたら何でも反応されるのかどっちかわからないが、まあまあな数のいいねがきてびっくりしていると、平民さんにどうぶつの森やってますか?と訊かれる。まだSwitchもってないのでやっていませんと答えると、人じゃねえよ…と返ってくる。その後も、棒きれ、はやく人間になれよ…などといわゆるエアリプをもらったのだが、つくづくこの人は、優しい人なんだと感じる。Switchをはやく手に入れて、どうぶつの森をはやく始めたい。入荷してください。

4月18日

人の気配がほとんど感じられない
とだけメモが残されていたが、なんのこっちゃわからない。お出かけした記憶も記録もないから、きっと塩屋を少し歩いての感想だと思う。この日は雨がとても強い日で、窓際に座って窓を背にして本を読んでいたことを記憶している。ティノ・セーガルを知った日もこの日であったか。
おやつにはオリーブオイルのクッキーを作ったし、お昼にみたテレビの影響でハワイに行きたくって、晩ご飯はハワイプレートを作った。こう書くと充実しているような感じだが、多分この日あたりで精神が限界になってしまっていて、そういうのを話すとすごくやさしいのがせいぞうさんなので、つい甘えてしまって反省する。まだ19だし、みたいな心の甘えがあるのだけれど、成人したからには自立しなければ。

4月21日

書類を書きにいくために、元町にあるバイト先へ。数日ぶりの外出で、不安な反面少しわくわくする。せっかくここまで出てきたのだから、今お金を落としていきたいお店に行って晩ご飯を買って帰ろうと思い立つ。そんなお店を探し三ノ宮まで1駅分歩いてから気がついたのだが、まだ神戸に通って1年と経たない私には足繁く通う店なんてなかった。学生のうちは仕方がないのかもしれないけれど、思い出の店、みたいな、マーキング、みたいな、そういうことも、外に出てご飯が食べられる世界になったらしていきたいなと感じる。
幼稚園の前を通ると立て看板に4月の行事予定が貼ってあったけれど、施設には人気がなかった。そこには毎月のお誕生日会や遠足の予定が書いてあって、それらはどれもきっと中止や延期になってしまったのだろう。私も4月生まれなので、もしあの年頃、誕生日が1年で1番のイベントのあの年頃のお誕生日会がなくなってしまったのなら、と想像すると、きっと泣いたりだだをこねたりしてしまうだろうと思うし、それをなだめるお母さんも大変だろうなと思う。みんなお誕生日会も遠足もなくなってしまったの、かなしいね。そう心の中で呟く。
とこんなことかんがえていたらもう10代が終わってしまう。10代のうちに考えられることもっとあるのに、こんなこと考えていていいんか?など。こんな中迎える20歳って、一生忘れないやん、とか考えながらも、やっぱりみんなと会えない中迎えるさみしさがある。いやそんなことじゃなくって、大人になるってどういうことなんやろう、とか、なんか色々、考えていた。忘れてしまったけど。

4月25日

ドライブしたい、と母にねだる。それならと昼から、ちょっと良いお肉を買いに母と車で三木まで行く。が、みんな同じことを考えているようで、店の外まで長蛇の列ができていて、こりゃいけねえなと結局並ばず、買わずで引き返す。その帰り、だだっぴろい無人の平野の中作業している道路建設の現場と出くわした。高く盛られた土にかくれて、ショベルカーの人が乗っている部分みえなくって、ただひとりでに、ぽつんと機械が1匹、作業をしているようにみえた。世界の果て、人間がいなくなったそこにロボットだけが存在していて、作業をしている、みたいな未来が想像されてしまって、なんだかアニメみたいだなと思いながら、そんな未来、と思う。続きはなんて言いたかったのだろう。
おひるごはんのことで少し母と険悪になる。母と険悪な雰囲気になるのは、いつもご飯のことか掃除のことであるように思う。
昔から何十回ときいた曲の歌詞をぽろぽろと間違える。忘れてしまっているようだ。大好きな曲なのに、少しさみしい。
ちなみにこの日はもっこす道入門の日でもある。加えて、この日の深夜に事が落ち着いた。

4月26日

テレビを見ていると、何やらお金持ちっぽいお家のおもてなしのシーンが流れていて、ああゆう場でお寿司がでてきたら、何からいただくのが正解なんやろうかと疑問に思う。あるタレントさんはこれなんですか?とききながら、ヒラメを選択していた。これが正解なのではないかとおもった。白身からいただくのがいいんやない?マグロとヒラメとやったらヒラメの方がいいやろ、と母。めっちゃわかる。いやヒラメも高いし美味しいねんけど。ヒラメも充分高いのに、という言葉を思い出して、平民新聞を読み返す。
お家にチャーシューをUberしてもらったあと、Netflixをみながらまったりする。と書くとなんかめちゃめちゃ近代的やな。かっこいいな。彼が女の子みたいになってたのが印象的やった。かわい。て言ってしまった。ちょっと苦かった。
23日の日記を24日に読んでいたとき、食パンの端っこの部分のことやマリオカートのことが書かれていて、私の誕生日などきっと把握していないだろうけれど、あれっと思った。

こうしてみると、書いていない日は書いていない日で、日記を書いていない日という記録になるのだなぁ、とも思った。けど、やっぱりちゃんと記録したいなぁと思うし、何よりもっと文章を書かなければ。記憶と記録というテーマを考えるにあたって、いい悪いという評価基準で判断することはできないのだけれど、記録することがどんな意味を持っているのか、記録することによって、もっと深く考察しなければならない。

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