卒業論文【ライフコースの崩壊から見えてきたもの-これからの時代に必要な力-】

松下凜子
【テーマ】

ライフコースの崩壊から見えてきたもの
-これからの時代に必要な力-
What We Have Seen from the Collapse of the Life Course
-What we need in the future-

【要約】
 近年日本では将来の生活や仕事に対する希望は失われ続け、暮らし向きに対する不安は徐々に高まり続けている。それは先行きの見えない不安というような言葉で表されて、みながどこか諦念感を持って日常生活を過ごしているように感じる。
そこで、本研究では社会学的なアプローチにより流動化している日本でどうしたら幸福に暮らすことができるのかについて提言したいと考えている。以下の章ではさまざまな方法を用いて、産業構造ならびに就業構造、職業構造の変化が起こった背景を分析する。
 第1章では、脱工業化社会やバブル崩壊がもたらした日本社会制度の変化とその影響が日本人の価値観にどのような影響を与えたかを分析した。結果、かつての日本では、一般化されたライフコースが存在していたことに加え、どの「場」に所属しているかがアイデンティティ形成に繋がっていたが、不確実性の増した労働市場に変わり、頼りにできる「場」が姿を消しつつある社会を迎えていることが分かった。その上、そもそも一般化されたライフコースにはさまざまな問題があったこと、またこの変化によって、若者の価値観の変容や個人主義の到来が説明できた。つぎに、第2章では、第1章で明らかになった若者の幸福度の増加に注目し、近年の幸福度研究についてまとめた。すると、所得や学歴(=場)よりむしろ自己決定力が幸福度において重要であることが明らかになった。また、目先の幸福よりも自己実現のために人生を選択していくことが結果人生の幸福感に繋がることも明らかにされた。第3章では、一般化されたライフコースの崩壊がもたらした価値観の変容がどういった形で社会に露呈していたかを分析した。その結果、人びとが不安定化したライフコースをカウンセラーやSNSを活用して誰かに承認されることで自己決定の正誤を判断している可能性があると分かった。最後に、以上の章を踏まえ、ライフコースが崩壊することにより、自身でライフコースを創っていくことが必要な社会になったことが考察できた。そしてこの変化は、「自己決定」をする機会が増えることに繋がる。これは一見先が見えないことによって不安が広がる社会になるように見えるが、幸福度研究により今まで重要とされていた「場」が実は幸福に繋がっておらず「自己決定力」が幸福度と相関関係を持つことが分かったのだ。つまり、ライフコースの崩壊は人々に自己決定することを促し、それは人生を主体的に生きられる人、幸福に生きる人を増やす大きな正のきっかけになっている可能性が考えられる。先の見えない不安が日本社会に広がっている今、その現状に対して逃避するように目先の幸福ばかりを追求して多幸的になるのではなく、「自分で選択(=自己決定)して人生を創っていこう」という価値観を全世代に普及することが日本社会における喫緊の課題なのではないか。

【Abstract】

In recent years, people in Japan have continued to lose hope for their future lives and jobs, and anxiety about their living conditions has gradually increased. This is expressed in terms such as "uncertainty about the future," and it seems as if everyone is living their daily lives with a sense of resignation. Therefore, we would like to propose a sociological approach to how people can live happily in Japan, a country in flux. In the following chapters, we will use various methods to analyze the background of changes in the industrial structure, employment structure, and occupational structure. In Chapter 1, we analyzed the changes in the Japanese social system brought about by the deindustrialization of society and the collapse of the bubble economy, and how these changes affected the values of the Japanese people. As a result, it was found that in the past, in addition to the existence of a generalized life course, identity formation was linked to which "ba" one belonged to in Japan, but that we are now facing a society in which the labor market has become increasingly uncertain and the "ba" one can rely on are disappearing. The generalized life course had various problems to begin with, and this change explained the transformation of young people's sense of values and the advent of individualism. In Chapter 2, we summarized recent happiness research, focusing on the increase in the level of happiness among young people identified in Chapter 1. It became clear that self-determination, rather than income or education, is important in the level of happiness. It was also revealed that making life choices for self-actualization rather than immediate happiness leads to a sense of happiness in life. In Chapter 3, we analyzed how the transformation of values brought  was exposed to society. As a result, it was found that people may be judging the rightness or wrongness of their self-determination by having their destabilized life course approved by someone else through the use of counselors or social networking services. Finally, based on the above chapters, we were able to examine how the collapse of the life course has led to a society that requires people to create their own life course. And this change leads to more opportunities for "self-determination. At first glance, this may appear to be a society in which uncertainty spreads due to the uncertainty of the future, but research on happiness has revealed that the "ba" that was previously considered important is actually not linked to happiness, and that the "ability to self-determine" is correlated with happiness. In other words, the collapse of the life course encourages people to be self-determined, which may be a major positive catalyst for increasing the number of people who can live their lives independently and happily. As uncertainty about the future spreads throughout Japanese society, it is an urgent task for all generations to spread the value of "making one's own choices and creating one's own life," rather than becoming euphoric in the pursuit of immediate happiness as if trying to escape from this current situation.


目次

はじめに

第1章 産業構造ならびに就業構造、職業構造の変化
第1節 一般化されたライフコース
第2節「場」の持つ意味
第3節 一般化されたライフコースと「場」至上主義が包含する問題
Ⅰ「場」の形骸化
Ⅱライフコースから外れた場合
Ⅲアイデンティティ喪失
第4節 ライフコースの崩壊と不安定化した「場」
Ⅰライフコースの個人化
Ⅱ変容した若者の価値観-能力主義の終焉-

第2章 幸福度研究
第1節 発展した幸福学
第2節 幸福度において重要なこと

第3章  価値観変容がもたらした新しい文化の到来
第1節 心の時代
第2節 個性・自分らしさ

おわりに

参考文献


はじめに
 今の日本社会は混沌としている。人類がこれまで経験したことのない変化に直面し、個人の生き方や価値観も急速に変化し誰もが何かしらの不安を抱えている社会だ。少し前の日本では人生の成功モデルが確立されており、ライフコースに一度乗ることができれば、終身雇用・年功序列賃金など安定の生活が待っていた。しかし、1990年代に起こったバブル経済崩壊や脱工業化による産業構造ならびに就業構造、職業構造の変化により、通常多くの人が乗ることができていたライフコースが不安定になった。言い換えれば、所属する「場」に依拠できていた時代から「場」に頼ることができず、その人が持つ「資格」が重要視される社会に変容したのだ。このように価値観は変化しているものの、確実な経済成長を前提に作られた制度と、その制度を当然と思いがちな価値観が絡み合い、変革が進まない。みんなの人生にあてはまり、みんなに共感してもらえる「共通の目標」を政府が示すことは難しくなっているのだ。そしてこのことが日本社会の在り方に不満を募らせ、どうせ自分の力では変えようのない社会であると未来に絶望する人を続出させる要因になっているのではないか。
そこで本研究では、産業構造ならびに就業構造、職業構造の変化がもたらした日本への影響を分析する事から始め、その変化が日本人の価値観にどういった影響を与えたのかを明確にすることから始めたい。


第1章 
産業構造ならびに就業構造、職業構造の変化
第1節 一般化されたライフコース

 敗戦以降日本は、個人の進学機会や就業状態、家庭生活が個人の生得的な社会経済的属性(例えば地域社会や定位家族の状況)に条件づけられるという社会的貧困状態からの脱却を進め、戦後復興を達成した後、「皆が同じような人生を歩める社会」を実現するため、多くの社会制度が整備されていった豊泉周治(2010)。その影響により1960年~80年代の日本では、人々が人生の重要イベントを経験する「適齢期」が非常に細かく決まっていた。例えば、学校教育を終える時期や正社員として就職する時期、結婚する時期や最初の子どもをもうける時期がそれにあたる。また、一連のイベントを経験する「正しい」順番が存在することがあたりまえだと思われていた(嶋崎2008)。社会のレールが要求するとおりのことを「正しい」タイミングで行えば、人生の不確定要素はきわめて少なく、その上日本の社会制度は、人々が学校、職場、結婚生活など、一つの安定した「場」から次の安定した「場」へ移行するのを助けていたのだ(メアリー・C・ブリントン2008)。また1960年~1980年代、日本は工業化社会にあったといえる。工業化社会とは、一般に、自動車などの製造業を中心に組織化された社会で、第二次世界大戦後の高度経済成長期を経て確立されていき、1970年代後半から80年代にかけてそのピークに達し黄金時代を迎えた。画一的製品の大量生産が行われる大工場のベルトコンベアを前にして働く多くの労働者と事務職に従事する大卒の少数の労働者が中心となり、安定した雇用と持続的に増大する所得の下、同じようなデザインや機能を持つ規格化された工業製品を購入するなどして、物質的に満たされた生活を追求していくような社会であった。藤井(2018)は、工業化社会において大切なことは、組み立てられたライフコースに乗ることであると述べる。日本では「ライフコース」という用語は、一般的には「人生」として理解され、使用されている。また、ライフコース研究の先駆者である社会学者のエルダーは、ライフコースを「年齢によって区分された生涯期間を通じての道筋であり、人生上の出来事についてのタイミング、移行期間、間隔、および順序にみられる社会的パターン」(Elder1978:21)と定義し、「社会制度によって具象化され、また歴史的変動の影受ける」(Elder1992)としている。また、日本ではこうしたライフコースをもとに、独自の社会システムができたが組み立てられた。
この仕組みについて教育学者である本田由紀の「戦後日本型循環モデル」を参考にする。「戦後日本型循環モデル」とは、仕事・家族・教育という3つの社会領域が、互いに資源を一方向的に流し込み合う循環構造を形成していたことを特徴とする。経済成長を前提とし、仕事からは主な働き手である父親によって、長期安定雇用と年功序列賃金制を基に家族に賃金が流れ込み、家族からは消費の主体である母親が、教育に対して費用と意欲を流し込み、教育からは仕事に対して新規学卒一括採用によって新規労働力が流れ込むという循環である。このように、ライフコースは個人の人生や個人の生き方の過程と同義でなく、社会構造のひとつの要素として捉えることができ、一般化されたライフコースに乗ることで、年々上昇する賃金と安定が約束され、安心して家族を作ることができたのだ。

第2節「場」の持つ意味
 また、ライフコースに乗ることに加えて、どのような「場」に所属しているかが個人のアイデンティティ形成に深く関係していたと考えられる。この考えは、社会的アイデンティティ理論として人間全般にあてはまることではあるが、日本ではこの影響は顕著にみられる。「場」の研究で有名である社会人類学者の中根千枝は著書『タテ社会の人間関係』で人間関係を分析するカギとなるのは、「資格」と「場」であると説明している。「資格」とは、社会的個人の属性、つまりその人が持っている特性を意味する。例えば、学歴・地位・職業などのように、生後個人が獲得したものもある。資本家と労働者、あるいは地主と小作人などというのも資格であり、特定の職業集団、一定の父系血縁集団、カースト集団など、そういった属性によって集団が構成されている場合、資格による社会集団という。一方で、資格の違いによらず一定の枠によって一定の個人が集団を構成している場合、「場」による設定ということになる。例えば、会社などの所属機関や大学で例えると、教授・事務・学生は資格で、「○○大学の者」というのは場になる。中根千枝(1964)は、場、すなわち会社や大学などの枠が社会的に集団構成、集団認識に機能し、個人のもつ資格自体は第二の問題になるという。また、この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社や官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれていると中根は分析する。ここで、本論文における「場」を「その人が所属している、ある特定の集団 例:○○家や○○大学、株式会社○○」と定義する。また、日本では、「場」がその人のアイデンティティをイメージさせる。実際、日本人にとってどの「場」に所属しているかが重要という日本独自の価値観は令和になった今でも根強く残っている。2021年6月に大手就活情報サイトのマイナビが自社のサービスに登録している就活性1万6千人余りに、タイトルに「大東亜以下」などと書いたメールを誤って送付したことが話題になった。「大東亜」といった表現は、大学受験などの際に偏差値で大学を分類する俗称として使われているもので、所属する大学ごとに受けられるサービスが違う、いわゆる「学歴フィルター」なのではないかという指摘が世間では相次いだ。このニュースは、個々の人間を判断する際にその人個人の能力、「資格」というよりかは、学歴というその人が所属する「場」が重要視されていることを示す良い例になるだろう。またここで、日本で「場」がなぜここまで重要視されているのかを学歴に焦点を当てて検討したい。竹内(1993)は,日本で学歴が重視されている背景を次のようにまとめている。西欧ではエリート中等学校や高等教育機関は、伝統的な貴族文化の伝播と再生産装置だった一方で、日本の近代学校は伝統的支配階級の文化とは断絶した西欧文化の伝播装置として出発した。西欧のエリート中等学校や高等教育機関は「上流階級」文化の場であったのに対して、日本のそれは「舶来」文化の場であった。そのため、日本の高級文化の大半は外国からの借りものであって、人が高級文化に接し、文化人風になっていくのは、学校を通じて獲得する度合いがはるかに多かったのだ。また、エリート学校の文化がすべての人にとって等距離にあり階級開放的になりやすかった。このようにして、日本ではどのような階級に生まれたかよりも、どのような学校を卒業したかの方がその人の価値観、態度、趣味などを弁別する手掛かりとなり、人々はエリート学校入学を志願し、受験社会が誕生した。また、本田(2008)は、一貫して日本で見られる特徴のひとつに、物事を精神論的ないし努力主義的に説明しようとする傾向があることを述べている。これら2つの研究から、これまでに日本で「場」が重要視される理由は、戦後日本の戦略モデルの確立をもとに、生まれや育ちなど関係なく努力によって「場」を変えることができる可能性があったからであるといえる。ここで、「場」を重要視する考え方を「場至上主義」とでも名付けておこう。このようにライフコースの制度化が進展することによって、ライフコースの予測可能性が高まり、安全な「場」を得ることで、公的ライフコースへと個人が同定される程度が高まった嶋崎(2008)。またそれと同時に、高度に制度化されたライフコースは、相互に明確な境界化がなされ、個人のもつ社会的属性、資源、スキル、力量・能力と親和性をもっており、ライフコースの階層化と文化を深めたのだ(Buchmann1989)。このように一般化されたライフコースに乗ることに加えてどの「場」に所属するかがその人のアイデンティティを判断する材料の1つになっていたのだ。

第3節 
一般化されたライフコースと「場」至上主義が包含する問題

この節では、上記した一般化されたライフコースと「場」至上主義が包含する問題点について言及する。

Ⅰ「場」の形骸化
 本田由紀(2008)は、「戦後日本型循環モデル」について3つの領域(仕事・家族・教育)の結びつきが強すぎるがゆえ、それぞれの領域の本質的な意義が見落とされがちとなることを指摘している。例えば日本の大学は、「入ってしまえば卒業できる」と言われているようにいい企業に就職するためという目的が強く意識され、受験戦争が激化する一方で、「学ぶこと」の本来の意味が見失われてしまう。またこのことが、「大学で何を学んできたか、より入試の偏差値が高い大学に入学する人が優秀」というアンコンシャス・バイアスを生む。これは、会社においても当てはまる。日本ではかつて実力主義の考え方はあまり広まっておらず、年功序列型であったため、所属する会社によってある程度生涯年収が予測できた。2022年、米ギャラップ社が実施した「熱意あふれる社員」の割合調査の結果、仕事への熱意や職場への愛着を示す社員の割合が5%であり、調査対象129ヵ国中128位と最下位レベルにある。また最近の ISSP2015年調査において勤め先への定着志向(非 - 転職志向)の高さについて変化がみられる。1997 年、2005 年 調査では、日本人の定着志向の高さは1位であり、比較対象国のなかで群を抜いて高いレベルであった。しかし、2015年調査では大きく数値を低下させており、まだ上位グループにはとどまっているものの、もはや特徴的な数値とはいえなくなっている。これらの結果について多くの研究者がそれぞれの見解を出しているが、人びとは会社という「場」に所属することが目的になってましてや成果が妥当に評価されない環境下において主体性が生まれにくくなっていたのではないかと考える。また、3つの領域のなかの「家族」面では、両親が子どもたちにより良いライフコースに乗ることができるようにと熱を入れすぎることによって、子どもたち自身が教育を受ける意味などを見失ってしまう危険性がある。その例が「教育家族」だ。「教育家族」というのは、子どもの「就学の成功」、子どもの「高学歴化」が最大の関心事となった家族のことである。芹沢によれば、1960年代後半以降の日本で急速に拡大し、今では「ほぼ100%近くが教育家族だ」と言われるほどに、ありふれた家族の情景となった。ところがそのありふれた現実が、たとえば子どもの誕生と同時に「学資保険」がかけられるように、文字どおり「負債」となって子どもに重くのしかかっている。実際、大半の親が子どもに期待するのは、休まず登校して勉強し、進学して学歴をつけ、安定した職に就くという一般化された普通の人生のライフコースだが、その「普通」が強い規範となって、子どもに「いい子」であることを強要することになる。芹沢は、登校(好成績)、進学そして学校的価値への従順が「いい子」の三条件だと言う。子どもは絶えず学校的価値に従って生産的であることが期待され、その結果、教育家族化した家族は、子どもたちが『あるがまま』でいることを罪悪であるかのように導いていくと指摘している。知らないうちに背負っている「負債」に気づかず、「あるがまま」の自分を「罪悪」のように受け入れる子どもの自己のありようを、芹沢は不登校や引きこもり、家庭内暴力、拒食・過食症などのいくつもの事例から読み解いている。これらの例から共通して言えることは、人びとは世間で良いとされている「場」(=学校・会社)に所属できるかに力を入れすぎてしまうあまり、その「場」での活動が形骸化してしまっている可能性があるということだ。

Ⅱライフコースから外れた場合 
また、何らかの理由でライフコースに乗れなかった、あるいは離れてしまった場合についても触れておきたい。新卒一括採用の時期に大事故にあい、それまで陽気だった学生が「みんなと同じ時期に乗れなかったからもう無理だ」と閉じこもってしまい無気力になってしまった例がある。また、他にも受験に失敗してうつ病になってしまった学生の例などがある。今いる「場」から次の「場」にいく方法は受験や就職活動によってある程度制度化されている。その行われるイベントで失敗してしまったり、適齢期に乗ることができないと一般化されたライフコースに乗りにくく、戻りにくくなる現状があるのだ。

Ⅲアイデンティティ喪失
また、一般化されたレールに乗ることによって得ることのできるアイデンティティに縛られるあまり、その場を無くした途端にアイデンティティを喪失してしまう場合もある。豊泉周治(2010)は、何十年間も、日本人として人間としての自己の存在を、社会的役割によって規定されてきた団塊世代の元サラリーマンや母親たちの多くは、その役割を失いつつ、あるいは失ってしまったことで、困難に直面していると分析する。ライフコースから締め出され、自分自身でやっていかなければならなくなったいま、自己を見出すほかに選択の余地がないのだ。しかし、これまで何十年間も社会的役割を果たすべく、多かれ少なかれ自らを犠牲にしてきた彼らにとって、自分の人生を歩むことは難しい。豊泉(2010)の友人である50歳代のサラリーマンは、次のような嘆きを漏らす。数年前に久々に大学の同窓会に出席したところ、ともに体制に逆らったかつての同志たちが、名刺を交換していたという。すっかり自己のアイデンティティを失って会社人間に成り下がったということだが、自分を含めてみんなが、まもなく会社を去り、自分自身で生きていくことになる。そのとき、いったいどうすればよいのか、戻るべき自己というものはあるのか、と。この問題に関しては、女性よりも男性にとっていっそう重要な問題とされている。男性は、新たに自由の時間を得て活躍する人もいるが、だらだらと過ごすだけの人も多い。会社員としての役割や、妻・母親としての役割が小さくなったとき、「自分はいったい何者なのか。」という問いが生まれるのだ。多くの人は、自分が活躍していた頃の社会的役割にとらわれたまま、自己喪失感を抱いているのだ。この問題は「場」がアイデンティティを大きく規定する日本において深刻である。多くの人が一般化されたライフコースのなかでの歩みを終えたとき、その「場」に見出していたアイデンティティをどこに向けるべきなの分かり得なくなるのだ。

第4節 
ライフコースの崩壊と不安定化した「場」

 しかしながら、メアリー・C・ブリントン(2008)の研究によると、1990年代にこの「場」の在り方が変わり始めたという。主にバブル経済の崩壊による不況や冷戦終結によるグローバル化の進展と円高による製造業の生産拠点の海外移転、ネオリベラル化による規制緩和政策の推進によって、日本が工業化社会からポスト工業化し、産業構造ならびに就業構造、職業構造による変化が社会全体に変容を促したことが要因とされている。日本の若い男性が「普通」の人生の道筋(=一般化されたライフコース)を歩める確率が小さくなったのだ。一度ライフコースに乗ってしまえば「安心」の文化は、終わりを迎え、日本に突きつけられたのは、不確実性の増した労働市場、頼りにできる「場」が姿を消しつつある社会であった。また、ポスト工業化に生きる人々は、前述した「戦後日本型循環モデル」で想定されたライフコース、当時は夢や理想として考えられたライフコースから否応なく切り離されることで、それにつきものの画一的で規律的な慣行から解放され、好むと好まざるにかかわらず自由になるように仕向けられている藤井(2018)。これは、当たり前だとされていた規範が減ることで選択肢が増大し、生き方が多様化する状況でもあるとする。以下、一般化されたライフコースが崩壊したことによる影響を記していく。

Ⅰライフコースの個人化
 「どのような人生を歩むかは自己責任」とする個人主義の志向が、こうした状況に拍車をかけている。ライフコースの個人化とは、個人の自らの人生に対する統制力が増大することである。「伝統的拘束から解放されること」(Beck1992)と結び合わされて理解されることが多い。社会学者であるベックの所論を検討した伊藤(2008)によれば、個人化の過程には、人が伝統的な社会形態や紐帯から解き放たれ、行動に関する知識や信仰や規範について伝統が有していた確実性を喪失し、社会の中にまったく新しいやり方で組み込まれる状況が起こるという。つまり個人化とは、人間の人生があらかじめ決められた状態から解き放たれ、個々人の決定に左右されるものになることを意味する(Beck1998)が、産業社会からリスク社会へ移り変わる中で確実性が失われ、家族や安定的な職業集団、すなわち「場」がなくなり、リスクが個人に直接降りかかるようになることを意味している。「個人化」は個人の人生の選択の幅を広げるものであるが、社会の規範や価値の弱体化を個人への負担を強めることで補おうとする規範を要請するものでもあった(伊藤2008)。あらかじめ予想された将来に進むことができなくなり、自ら行った決定がその後の人生に影響を与える、個々人が「主体的に」進路を決定できるようになったとも言える。ベックによれば、「個人化された社会」において、人々は各自自らを行為の中心として、ライフコースや能力方向性、パートナーシップなどの設計事務所として理解しなければならないという(Beck1998)。また、「個人化」に関して社会学者である高橋英博が以下のような見解を述べている。社会的分業の体系そのものが、流動化して浮遊化しているがゆえに、日々生活の営みのなかで人々が取りぐんでいる相互行為やその内容についても、いつもどこか揺れていて、しかも、つねに移ろいがちなものとならざるをえない。そこでは、人々の相互行為が、かつてのように、どちらかというとなにがしかの所属集団において持続的に結ばれているというよりは、その都度にその必要に応じて、一時的もしくは断片的に結ばれるようなものになりがちになった。また、三上(2023)も、どこかの集団への所属(=場)や社会的地位・役割だけでは了解し合える部分がわずかでしかなくなったと述べている。現代の個人は内面化された社会規範によって自己をコントロールしているのでなく、そのつど状況に合わせて、自己をコーディネートしているのだ。それゆえ、現代人の自己意識はこれまでのいかなる時代の人間よりも強く、決して譲ることのできない「自分らしさ」や受け入れがたいものへの強烈な嫌悪、独自のこだわり等々、ある意味で、強固に閉じた自分を形成しているといえる。一方、個々それぞれがライフコースを自分で選択できるようになったということはつまり、人生のライフコースに「多様化」が始まったといえる。「多様化」に関しては、嶋崎(2008)を参考にしたい。嶋崎は『国民生活白書』(内閣府)を手がかりに「多様化」について登場背景をもとに分析している。『国民生活白書』(内閣府)をみると、「多様化」という言葉は、1980年に「より多様かつ個性的な生涯設計」という記述で登場し1980年以降、「個性化」とともに頻用されると嶋崎は分析する。1985年には国民生活の多くの面で個性化や多様化の動きといった表現がみられる。この時期には、「中流意識」も新たな局面を迎え、「人並み中流」から「違いがわかる中流」へと「中流意識の成熟」が指摘されている。人びとの間に、均質性から差異化の志向性が強まった時期であった。その背景として「人生80年」、「生きがい欲求」のように、経済的豊かさ、すなわち平準化や均質化がある程度達成され、一定水準以上の生活が保障されたことがある。そのなかで個々の差異化を求める志向が社会意識として成立し、「個性化」とならんで「多様化」が登場したと解釈できる。その流れは、その後の「格差」の再登場へとつながっていく。ただ、「個性化」と「多様化」に関しては、男性サラリーマンのライフコースモデルに基準が据えられており、このモデルからの一定程度の分散が「個性化」と「多様化」として許容されている。言い換えれば、中流を前提にした「個性化」と「多様化」である。つまり一般化されたライフコースは固定したまま、その周辺の代替的選択肢が多様になったことを指示すると考えられる。それゆえ、「個性化」や「多様化」は女性を対象に頻用され、具体的な制度変更は最小限にとどまっているのである。しかしながら、1986年に男女雇用機会均等法が施行されたものの、職業領域でのキャリア形成に関する制度化は進んでいない。いわば職業領域への参入だけが整えられている状態であり、結果的にいまだに個人の生き方の選択と環境的要因との関係に緊張状態があるといえる。このように嶋崎(2008)は、「人生の多様化」言説の浸透とともに、個人の生き方の選択と環境的要因の関係は困難な状況に直面しているという。さらにこの葛藤は、個人化によって、制度化を求めずとも正当化される傾向がある。その上で、「生き方はどこまで選べるのか」を高めるには、個々人びとが考えるライフコースを社会的選択肢とするための制度化が必要であると述べる。このようにライフコースの多様化が始まっているものの、実際制度的な面では主に元々ライフコースの選択肢が狭かった女性に対して実施されているものが多く、男性の人生の多様化に関してはあまり変化がない。つまりあらかじめ用意されたライフコースに乗らず、自身でライフコースを選択するという価値観が浸透して多様化が進んでいるという認識が広がっているものの、制度面では今まで自由が制限されていた女性等にターゲットが絞られており全員に共通するものではないことが分かった。

Ⅱ変容した若者の価値観-能力主義の終焉-
 統計や定義によってさまざまだが、上の世代のように制度化されたライフコースを歩まず、標準的な大人の生きがいである仕事や家族から距離をおく非正規雇用者や独身者は、20~40歳の日本人のうちおそらく3~4割いるとされており、就職活動が相変わらず硬直的であることを考え合わせると、今後ともライフコースに加わらないかもしれない若者は増えるだろう(マシューズ 2010)。1960~80年代、ライフコースには男性は会社のために自分を犠牲にし、女性は家族のために自分を犠牲にするという原則があった。そうした機牲を払うことによってはじめて、一人前の大人として価値ある人生を送ることができるとされていたのだ。かつての若者世代は、この秩序に反抗したものの、最終的にはこの秩序に加わった。なぜなら、高度経済成長期には社会秩序は効果的に機能し、正当なものと認められていたからだ。しかし、バブル崩壊やさまざまな構造改革を経て、一般化されたライフコースが不安定化し、今日の若者は、かつての若者以上に成功モデルを失った。実際、日本の雇用状況は一変したが、なかでも若い世代(15-24歳)の失業率は突出して高くなり、卒業して進学も正規就職もしなかった無業者の割合は1990年代に急激に高まった。若者が学校を出ても正規の職に就けない状態が特別なことではなくなり、ここから日本の戦後企業社会から作り上げられたライフコースが崩壊していることがわかる。今の若者が将来に希望を持てないと言う端的な理由の一つはそこにある。一昔前までは、確実な経済成長を前提に良い学歴を持ち、良い会社に入ることができ勤め続けることができたら生涯安泰な生活が待っていた。しかし、今では多様な生き方が認められて一般化されたライフコースに乗ることが必ずしも人生の成功モデルになり得なくなってきている。平成25年に行われた厚生労働省による「若者の意識に関する調査」では、日本の未来に対して不安を抱く若者が多いという結果が出た。ただ、就業形態別にみると、安定性の低い非正規雇用(嘱託社員・契約社員、派遣社員、パート・アルバイト)や自由業では、日本の未来に悲観的な人の割合が高く、安定性の高い会社役員・団体役員や公務員においては、楽観的な人の割合が高かった。この結果は、「先が見えない」状況が若者の不安感の大きな要因の一つであることを示す。またそれと同時に、職業によって不安感に差が出ていることから、日本全体への不安というよりもむしろ「場」がなくなってしまうことの不安なのではないかと考えられる。しかしその一方で、若者たちはバブル崩壊とともに主観的な幸福度を高め、他の年齢層を圧倒する幸福感を持つようになったのである。NHK放送文化研究所の『中学生・高校生の生活と意識調査』、また内閣府が行う『世界青年意識調査』はいずれも同一の調査機関が同じ方法でくり返し実施してきたものであるが、結果若者たちの生活に対する満足度が全般的に高くなり、「とても幸せだ」という「多幸な」若者が増えたことが分かったのだ。また、前述したNHKの調査に、「他人に負けないようにがんばる」か「のんびりと自分の人生を楽しむ」、「あなたが良いと思うのはどちらのほうですか」と、中高生に「望ましい生き方」を訪ねた項目がある。1982年から2002年までの変化をみると、この20年間で後者の「のんびりと自分の人生を楽しむ」ほうが良いというコンサマトリーな生き方を選択した若者が増えた。この結果を受けて嶋崎(2008)は、若者たちはバブル崩壊を受けライフコースが不安定化するという転換を経験しつつ、「良いと思う」生き方をしだいに反転させて、この時代を「幸せ」に生き抜いたという。村上(2010)によれば、「一定の目的のために最善の結果を生むような手段」に関心を払う行動が「手段的合理主義」であり、一方で「行動それ自体の価値のみを考え、その生むはずの結果を全く考慮しない」行動が「コンサマトリーな価値」であるという。日本では主にこのコンサマトリーという概念は、将来のことを考えずに今を享楽的に生きるという意味で否定的に捉えられていた(千石保1991)。また、古市(2011)は、20 代の生活満足度が上昇するのは一般的に「不況」と言われるような 「暗い時代」が多いことを指摘し、同時に「今よりもずっと幸せになる将来」を想定できないと考えられる高齢者は幸福度や生活満足度が高いことを挙げ、これより古市は、「今日よりも明日がよくならない」と思う時、人は「今が幸せ」と答えるのであるという解釈を行っている。また、戦後の高度経済成長期にはたしかに日本は、戦前に比べて「努力すればなんとかなる」といった開かれた社会になっていた。しかし。近年、この開放性は急速にうしなわれつつある。社会の10~20%を占める上層をみると、親と子の地位の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」閉塞感のある社会になった(佐藤2000)。さらに安田は、不況が人々の生活の土台を崩し、努力が機会を保障するという能力主義の考え方がなくなったという。「他人に負けないように頑張る」という能力主義出来な努力観が終わったのだ。つまり若者は将来を見るのを拒絶し、「今、ここ」に目を向ける若者の増加が、「多幸な」若者が増えた要因となったのだ。では、若者の幸福度が増えているということはこのライフコースの崩壊はこれからの日本社会に正の影響を与えているのではないか。第2章では、幸福感に関する研究を文献調査することで、上記した仮説について考察したい。

第2章 
幸福度研究
第1節 発展した幸福学

 幸福感はなにに影響されているのか、この章では検討したい。一般に言われる幸福度研究は、主観的幸福感と呼ばれる人々の主観的な生活の評価や幸福感を中心に研究する複合領域の分野で、哲学に始まり、医学、公衆衛生、心理学、社会学、経済学など分野の研究者が取り組んでいるものだ。幸福度に関しては、2010年度に国の成長戦略として研究が始まった。成長戦略に幸福度指標を作成する旨が盛り込まれた背景には、GDPを超えた指標である幸福度指標の作成が、日本だけでなく、欧州、北米、オセアニア、そしてアジアの国々で進んでいるという国際的動向と、我が国においては、特に所得の増加にも関わらず主観的幸福感が低いという主観的幸福を巡る課題が存在することがある。高度経済成長期は池田内閣の所得倍増計画からもわかるように国民総生産(GNP)に基づいた物質的な豊かさを重視しており、その後の日本の経済政策も公共事業中心であったが、上記したように90年代以降に起こった社会構造・産業構造の変化の影響で、経済成長が従来のように国民の豊かさと繋がらなくなった。山内(2011)らは、日本では経済的な側面はある程度満たされるようになってきたので、幸福度研究はこれまでよりも一層精神的な側面がより重視される傾向が強まってきていると考えられると述べた。また、幸福に関する研究が2010年あたりから急増している理由として、従来重視された経済的尺度の不十分さが強く認識されるようになったことにあるとも言われている。経済学の場合、幸福は消費増大に直結しているという功利主義の考えが広まっていたために幸福というテーマが早い段階で研究の対象外となっていた。また、心理学の場合、「人間は刺激に対応する機械である」という視点からの研究が中心となっていたために、ともに幸福ないし良い生活状態を探求するという視点が希薄化し、人間を狭い視点から扱う研究が一般化していた。こうした点への反省があったために、心理学では人間の主体性・創造性・可能性など人間の肯定的側面に焦点を当てるとともに人間の自己実現を追求する人間性心理学(マズローの欲求段階説)が20世紀半ばに提唱された。また、経済学においても人間の行動を観察することが重要であると、徐々にエウダイモニアが言及されるようになった。(岡部2015)

第2節 幸福度において重要なこと
 エウダイモニアとは、精神的に良い生活を送っていることを示す概念である。(OECD2013・32ページ)エウダイモニア的幸福とは、意義深い人生を送る上で有用な行為者としての潜在能力の保有の程度に焦点をあてるものであり、快楽というよりも人生全般の深い満足とかかわるものである。エウダイモニア的幸福は、研究者によってその構成要素は異なるが、前向きな感情(Positive-Emotion)、学習への関心(Engagement,Interest)、自己成長(Personal Growth)、立ち直る力(Resilience)、他者との肯定的関係(Positive Relations with Others)人生の目的(Purpose in Life)、自己受容(Self-Acceptance)、自制感(Environmental Mastery)、自律性(Autonomy)といった要素で構成されている(Deci andRyan 2006 ; Huppert and So 2009;Clark and Senik 2011)。(Boniwell 2008)の研究によると、長期的にみた場合、一時的な幸福や生活満足度を追求する人よりも、エウダイモニアを積極的に追求する人、すなわち自分の可能性や技能を発展させたり何かを学んだりする人の方が、自分の生活と人生に対する満足度が高い事が分かった。ここで、前章で述べた、「多幸な」若者が増加していることについてもう一度考えたい。第1章の最後で、『若者の幸福度が増えている(=多幸)ということはこのライフコースの崩壊はこれからの日本社会に正の影響を与えているのではないか』という仮説を示したが、「多幸」とはつまり今現在に関心を焦点化しそれが満たされることを重視する価値観である。この「多幸な」若者は時代に即して個人が考える「良いと思う」生き方を選び、幸せに生きているという見解は短絡的な考えであるということが幸福度研究を分析することによって明らかになった。今一度、若者の幸福感に関する研究を進めていかなければならないと思う。では、他にどのような要素が幸福感に繋がるのであろうか。この問いに関して、西村・八木(2020)が幸福感と自己決定に関して興味深い研究をしている。彼らは2万人の日本人を対象にした調査を行い、様々な質問をすることで、所得、学歴、健康、人間関係、自己決定(自身の意志で進学する大学や就職する企業を決めたか否か)のうちどの要素が幸福感に強い影響を与えているのかを調査した。結果、幸福感を決定する要因として、健康、人間関係に次いで、自己決定が所得や学歴よりも重要であることが明らかにされた。つまりこの結果から、どの「場」に所属しているかは幸福度と強い相関関係を持たないと考えられる。むしろ、自ら選んだ道を進む人ほど、より高い主観的幸福感を持っているのだ。このことは極端な例を出すと、もし名門大学を卒業し大企業に入るなど社会的に見て真っ当なエリート街道を進んでいたとしても、それが自分の選択でない場合は人生の満足度に繋がらないということである。ベストセラーとなっている辻村深月の『傲慢と善良』(朝日文庫)のなかでもこのことは描かれており、現代に生きる多くの人に共感を得ている。この小説のなかでは、自分で「選ぶ」経験を積んでこなかった経験が「自分の意志がわからない」かたちで露呈する主人公をもとに描かれている。進学先や就職先に留まらず結婚相談所やそこで紹介してもらう相手に至るまで、ほとんどを両親が選んでいた、という事実である。小説の中で「現代の日本は目に見える身分差別はないものの、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎて傲慢である。その一方で、善良に生きている人ほど、誰かに決めてもらうことが多すぎて“自分がない”。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう。」という言葉がある。これは現在の若者の生きづらさを上手く表現しているように思える。ただ、そのことに気づいた主人公は誰にも言わず自分の意志で遠方にボランティア活動に行くなかで、自分について見つめ直すというような内容だ。この主人公からもわかるように、「選ぶ」行為は重要なのだ。また、西村・八木(2020)の研究により自己決定は前向き志向に対して強い正の影響を与えていることも理解できた。自己決定によって進路を決定した者は、目的を達成するために、自らの判断で努力することによって、成果を達成する可能性がより高くなり、また、達成した結果に対して、責任と誇りを持つことが考えられる。このように、社会的に良いとされて、親や周りがそう言うからと決めた「場」より、むしろ失敗したとしても、「自分で決めたことだから」と失敗を認め、次に生かすことができるような自分で勝ち取った「場」が幸福度においては重要なのだ。また、自己決定とは、大学受験や就職活動、結婚など一連のイベントごとに限ることではない。日常に自己決定する場は溢れている。生物学者のダニエル・ネトルの著書『幸福の意外な正体』のなかでのイギリスで行われた調査の例を参考にする。研究者らは第一種(専門職)から第五種(単純労働)まで5段階に職種を分けて、生活満足度を調査した。結果、劇的な違いはないが、第一種(専門職)の生活満足度と第五種(単純労働)の生活満足度を比べてみると、10段階評価で専門職のほうが0.5ポイント上回っていた。特別な資格を持った専門職と、単純労働者の満足度の違いでまず、考えられるのは収入の違いであって、これは確実に生活満足度を上げると言える。しかし、研究者は生活満足度を上げるのは収入の違いだけでなく、自分の行動を自分で決めるという自由度を有しているかであると述べている。例えば、清掃員は毎日他人が決めた場所に行き、他人が決めた時間に出勤し、他人が決めた時間に退勤する。自分には選択権がない。一方で、専門職に関しては清掃員を雇用しているオーナーを例に挙げると、オーナー自身は清掃員の出勤時間・退勤時間等を決め、オーナー自身は出社するしないを自分で決めることができる。生活を自分で管理できる機会が与えられて、人は幸せを感じることができるということだ。本論文では検討しないが、幼児期の子どもや知的障害者、精神障害者といった人々は、自己決定の主体から排除され、通常「保護」の名の下に他者決定が正当化されて、自己決定の可能性が奪われている可能性があることが多いことを忘れてはいけない(金井2008)。まとめると、幸福度に関しては、目の前の幸せを追い求めるのではなく、エウダイモニア的幸福を得るために、多くの「自己決定」を通して自分の可能性を広げていくことが重要であると分かった。さて、日本人の幸福度は相対的にみてどうなのだろうか。国連の世界幸福度報告書によると、日本は幸福感および人生の選択の自由が低い傾向にあるとされている。多くの日本人が、社会制度に縛られた人生の中では自己実現を果たせないからこそ、その夢を生きがいの中に求めたと(豊泉2010)はいう。また、玄田(2001)は、一昔前までは、果たすべき社会的役割のために自分自身の夢を犠牲にした人が大勢いるが、今の若者はそういった犠牲を払いたくないと考えているうえ、父親世代のような職に恵まれなくなったことも事実であり、向上心のある若者にとって仕事と家族を生きがいとすることは難しくなっているという。また若者だけでなく、どの世代にも当てはまることだ。何十年間も日本人として人間としての自己の存在を、社会的役割によって規定されてきた団塊世代の元サラリーマンや母親たちの多くはその役割を失いつつ、また失ってしまったことで困難に直面している。大多数がもっぱらテレビを観ながら日々を過ごしており、「何をして生きていくべきなのか」日本における一般化されたライフコースから閉め出され、自分自身でやっていかなければならなくなった今、彼らは自分自身で何にも縛られない自己を見出すことが必要とされているのだ。しかしこの現状は言ってみれば日本社会のチャンスではないだろうか。一昔前までは一般化されたライフコースに乗ることができれば将来の安定は決まっていたことから、その属している「場」にいることが何よりも重要でその「場」の中での自己決定はそれほど重要視されていなかった。つまり、自己決定する機会が少なかったのだ。しかし一般化されたライフコースが崩壊した今、むしろ自分自身の選択を通して人生を歩まざるを得なくなった。一見不安社会になったように見えるが、自己決定の場が増えることで主体性あふれる人生を歩むことができる時代になったと言えるのではないか。

第3章 
価値観変容がもたらした新しい文化の到来
第1節 心の時代

 この一般化されたライフコースの崩壊がもたらしたことである文化が生まれた。そしてその文化から不確実なライフコースを歩まざる得なくなった人々の葛藤がみえる。その文化とは、「自分探し」や「癒し」など、セラピー風の文化である(嶋崎2008)。1980年代半ば以降、経営管理者が管理する「官僚制的消費資本主義」の展開が本格化し、古い地域的な経済の大半を支配し、そこに浸透し、人びとの職業生活をもっぱら経営管理者による経済的な効率追求の下に再編成することになった。また、財界の経営管理者たちの意に率いられた、引き続く「行政改革」と「構造改革」が起こっていた。小沢牧子が指摘するように、これらの動きと併行して、この「心」にまるわる教育や専門家が広まったという。ベラ―によれば、心の専門家は、経営管理者と共通の文脈のなかで、個人主義化した人びとの内面に働きかけて、私的なライフスタイルと「人生の意味」を経営効率の追求に折り合わせ、あるいはその不適応を治癒する者だという。心の専門家には、自己を見出すことが一番に求められていたのだ。このことがとても重要である。正解とされていた明瞭なライフモデルコースがなくなった今、「自分はなに者なのか」、「自分は正しいライフコースに乗ることができているのか」が不明瞭になったのだ。この兆候はSNSを見ることでよく理解できる。「100日後に○○する人」や「新卒で会社を辞めた女」などみな自分にキャッチフレーズを付けて、インスタグラムやティックトックなどのSNSを通して自己表現している。これはまさに、「自分はなに者なのか」また、「自分は正しいライフコースに乗ることができているのか」を、SNSを通して確認しているのではないか。彼らは、正解、不正解という感覚をかつて人々がカウンセラーに求めたように、イイネ機能といういとも簡単に得られる承認欲求を通して感じているのではないだろうか。このように、一部の日本人は自身のライフ(=人生)を何らかのツールで表現し、それを承認してもらうことによってその葛藤を抑えようとしているようにみえる。

第2節 個性・自分らしさ
 また、この文化と同じく「個性」や「自分らしさ」が叫ばれる時代にもなった。1985年中曽根首相は「心の時代」という言葉を用いて「国民が物の時代を超えて、心の時代へ前進しようとする熱意は、教育改革への強い期待となって現れている」と「教育改革」に言及した。良い例として、1993年が「脱偏差値元年」と呼ばれたように、その転換は、業者テスト・偏差値の利用を禁止した高校入試改革の始まりであり、その理念として打ち出された「個性重視」を謳う「個性化」教育への転換であった。以降、高校入試制度の多元化・多様化が図られ、選抜にあたって「偏差値」ではなく調査書が重視され、それに基づいた推薦入学制が拡大された。そして同じ頃、小・中学校の教育現場では「主体的な学習の仕方」が強調されるようになり、調査書の原簿に当たる指導要録の改訂にともなって、「関心・意欲・態度」を格別に重視する「新しい学力観」が唱えられた。生徒の評価に際して、「知識・理解」よりもむしろ「関心・意欲・態度」という、一人ひとりの「個性」に関わる人格的な評価(ABCの三段階評価)が先に立つかたちになったのである。そうした学力観の転換を受けて、さらに「生きる力」や「人間力」がその後の新たな教育目標に掲げられた。この時期以降、日本の若者が「個性化」教育や「主体的な学習」の名の下で、実際にどのような「個性化」や「主体的な学習」を目標とする「規格化する判断」にみずから進んで同調し、「失敗者」となる不安のなかで、権力に従属化される自分を経験することになったのである。絶えず評価のまなざしを意識する学校空間において、評価する権力から見られているのかもしれないという不安は、本当の自分を見せられないことと同一であろう。日本の若者は、個性化、生きる力、人間力といった一人一人の主体性を欲求する目標が掲げられる中で、「自分はダメな人間だ」という無力さの感覚をますます募らせてきた。だが一方で、みずからの生活世界に幸福を求める価値観に繋がった。ここから、人が自分の人生を調節できる感覚(=自己決定力)をつけることは重要なことであることが分かる。また、ここで2つ危惧すべき点がある。1つ目は、個性・自分らしさがそれ本来の意味を成していないことだ。上記したようにアイデンティティが形成される時期に学校では、個性が評価される。つまり、評価の目を気にした個性・自分らしさなのだ。それは『いい子』でいることが求められている。一般化されたライフコースが崩壊したことにより成功モデルがなくなったとされているものの、評価を気にしないといけない点において若者の葛藤が残る可能性が高い。また2つ目に日本は、何か欠けているとなると、海外をモデルに、すぐに充足しようとすることが問題であると考えられる。これを欠如理論と園田(1991)は指摘した。欠如理論とは、西洋の歴史的体験や社会構造を過度に「普遍的」だと思い込むこところに成立した。西洋にあるものが日本にないとすると、日本の後進性はその欠如した知識や制度が原因とされた。逆に、西洋になくて日本にだけあれば、今度はそれが日本の社会の欠如の原因とされる。これは、日本に欠如している西洋に優れたものを日本に導入することが知識人の役割であったことが要因といえる。しかし、落合(2018)は、元来、日本人には、西洋的な依拠なき個人に立脚する考え方は戦略的に向かず、日本人が「個人」を無理に目指していると指摘する。つまり、「個人」という言葉だけが浸透してみな突出していないからと、意見を持っていないからと「失敗者」と認識してしまうことに注意が必要である。つまり、日本人なりのアイデンティティを考えていかなければならない。土井(1971)は、個人はできることなら集団の利害を自己のそれに一致させたいと願っているという。従来日本では人情よりも義理、個人よりも集団が重んじられてきたが、これは一見極めて理に適っていたことが分かる。大体人は集団を求め、集団なくしては生存することができないのだ。つまり自分の意見を捨てて、集団の意見に同調することが良いとされ、またそのことが集団内部の人間関係の摩擦は最小限に抑えられ、集団活動の効率は一段と高くなる要因となった。日本人が古来国難に際して一致してそれに当る美風を誇ることができたのは、主としてこのことであると土井が分析している。このように、自身でライフコースを選択できるようになった今、「個性」「自分らしさ」「自分探し」などといった形で価値観変容が露呈していることがわかる。

おわりに
 本研究では、一般化されたライフコースの崩壊により価値変容が起こっていることを踏まえ、変わった先に、また過程にどのような力が必要であるのかを検討した。人生の道筋の可変性が高まっているなか、強固な社会規範ではなく、個人がその道を「自己流」にアレンジし、「自ら」進んで行けるような生成的な「自己構築原理」が必要とされている。スイスの社会学者であるコーリー(1985)によれば、近代社会の社会構造や統制システムの変化が加速し、複雑性と流動性が高まるなか、社会の構成員の権利と義務を直接「個人に」固定し、人生における浮き沈みといった変化のすべてをカバーするような社会化の様相が必要としていると分析している。コーリーは、それはライフコースが示すような時間的な経過プログラムによって可能であるという。そしてこのような「プログラム」は、ある意味で生き方の個人化過程における前提となっている。「柔軟な人間」(Sennett 1998-1999)が社会的に必要とされるようになり、自分で自分を社会の中に位置づけるというあらゆる差異化において、ライフコースは、個人と制度が相互に神話的に修正し、参照しながら、一種の規範的、機能的なフレームワークをつくっていくことができるとしている。ライフコースの崩壊により、誰もが安定したライフコースを歩むことができる確率は格段に低くなり、自分自身でライフコースを創る時代になった。この変化は、人生における「選択」の回数を格段に増やすことに繋がっている。近年の幸福度研究においては、「自己決定」が幸福度と深い関係を持つことが明らかにされている。つまり、自分で選択(=自己決定)して人生を創っていく環境は、日本人の幸福度向上に繋がる可能性が高い。しかし、日本では「個性」や「自分らしさ」という言葉だけが独り歩きしてしまい、その中身が形骸化しているように感じる。アイデンティティとは自分でライフコースを選択していくうちに自ら創り上げていくものである。今の日本には、「個性を伸ばしましょう」といった抽象的な教育方針ではなく、「自分で選択(=自己決定)して人生を創っていこう」という価値観を若者に教える、また全世代に普及することではないだろうか。そして誰もが自己決定の機会を与えられ人生の選択権を握ることができるように、政府が仕組みを整えていく必要がある。

【参考文献一覧】
〈ウェブサイト〉
・鎌田悠 上野創「大東亜以下」メールは学歴フィルター? マイナビの誤送信で波紋 2021年12月25日(最終アクセス日:2023年12月13日)

〈論文・新聞〉
・伊藤美登里(2008)「U.ベックの個人化論 再帰的近代における個人と社会」『社会学評論』№2 p316-330
・大川 淳士 笠井 健司 角 太貴 久保 大地 平野 智 吉村 友里(2011)「日本人の幸福度決定要因~JGSS2008 を用いた実証研究~」ISFJ政策フォーラム2011発表論文
・岡部光明(2015)「何が人を幸せにするか?経済的・社会的諸要因そして倫理の役割復活
・片岡恵子・伊藤宗親(2018)「青年期の価値観形成に及ぼす気質と親の価値観の影響」日心第82回大会
・金井直美(2011)「自己決定の限界と可能性-自己決定の主体と能力をめぐる考察-」政治学研究論集第33号2011.2
・園田英弘1991「逆欠如理論」『教育社会学研究』第49集、9-33項
・中根千枝「日本的社会構造の発見」中央公論 64年5月号
・西村和雄・八木匡(2020)「幸福感と自己決定-日本における実証研究」RIETI Discussion Paper Series 18-J-026
・三上剛史(2017)「個人化論-個人と社会は結びついているのか」たばこ総合研究センター編(493):2017.1p.13-19
・村上由美子・高橋しのぶ(2020年)「GDPを超えて-幸福度を測るOECDの取り組み」6巻4号p.8-15
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・「世界の中の日本人としてのアイデンティティをはぐくむ教育に関する研究(実践編)」掲載誌東京都教職員研修センター紀要/東京都教職員研修センター研修部教育開発課編(2)2003.3p.179~200
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〈著書〉
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・苅谷剛彦,1993,『大衆教育社会の行方―学歴主義と平等神話の戦後史』中央公 論社,p.108
・嶋崎尚子 2008『ライフコースの社会学』学文社
・千石保1991『「まじめ」の崩壊』サイマル出版会
・高橋英博『社会と個人:どこからそしていずこへ』‎御茶の水書房,2017,p226
・竹内洋,1993,『パブリック・スクール―英国式受験とエリート』講談社,p.171~2
・ダニエル・ネトル2020『幸福の意外な正体』きずな出版
・辻村深月『傲慢と善良』2022朝日新聞出版
・中沢けい 1999「豆畑の昼』講談社、日本ABC
・中根千枝2019『タテ社会と現代日本』株式会社講談社
・藤井達夫「〈平成〉の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか」イースト新書,2018,p.22
・本田由紀,2008『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』有限会社双風舎
・本田由紀2014『もじれる社会 戦後日本型循環モデルを超えて』株式会社筑摩書房
・村上寿亮2010『産業社会の病理』中央公論新社
・メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-NTT出版 ,2008,p.33・34
・嶋崎尚子 2008『ライフコースの社会学』学文社.
・Beck. U., 1992, Risk Society: Towards a New Modernity, London: Sage(訳書1998 東廉・伊藤美登里訳『危険社会ー新しい近代への道』法政大学出版局)
・Beck, U, 2009, World at Risk, translated by C. Cronin, Cambridge: Cambridge University Press.
・Buchmann, M, 1989, The Script of Life in Modern Society: Entry into Adulthood in a Changing World, Chicago: University of Chicago Press.





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