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第十歌集『スキーは板に乗ってるだけで』奥村晃作鑑賞

「現代ただごと歌」の提唱者である歌人 奥村晃作の歌集を一から最新作まで順に読んでいきます。(奥村晃作氏の紹介はこちらをご参照)
前回は第9歌集『キケンの水位』まで読んでまいりました。
今回は第10歌集『スキーは板に乗ってるだけで』です。
これまでの記事はマガジン「歌人 奥村晃作の作品を読む」をご参照。

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奥村晃作 第十歌集『スキーは板に乗ってるだけで』

奥村晃作歌集『スキーは板に乗ってるだけで』角川書店より抜粋

 今回も歌集全体から7首引いた。特に私からみて奥村短歌の特徴の出ているものを選んだ。奥村ならではの観察眼を土台にしたユニークな認識と言葉遣いが奥村ワールドをつくっている。

庭にむガマのからだが電灯に照らし出されて動かずに居り

 まず一首目。こちらは素朴な観察詠。小さきものの健気さを歌っている。電灯に照らし出されて観念して動けなくなっているガマに、ほのかな憐れみのまなざしを向ける。
 私は世界のさまざまな物事の「憐れさ」を歌う奥村短歌が好きである。みじめでかわいそうな瞬間。でも悲劇的というほどではないもの。些事的な憐れさ。第三歌集『鴇色の足』に出てくる「撮影の少女は胸をきつく締め布から乳の一部はみ出る」の歌もそう。見過ごされてしまうこうした瞬間に、現代社会のひずみやリアリティが浮かび上がってくる。この歌も、人間と自然界のガマとが交差した瞬間のせつなさを切り取っている。

飼犬がからだ折り曲げ果てけるを石膏に固めそっくりを置く

 一読して景は浮かぶのだが、どういう経緯で歌われたのかは少し謎な歌である。奥村短歌は基本実景だと思うのだが、こういうことを実際にしたのか、あるいは博物館の何か展示を見て歌ったものなのかはわからない。いずれにせよ、結句の「そっくりを置く」に惹かれてしまった。犬バージョンの全身デスマスクである。飼犬の「死の姿」について、湿っぽくせず、客観的にまさに石膏で型どるように歌っている。情緒的ではない、物質的で冷淡な歌い口がなんとも言えない味わいを出していると思う。

鳥取の砂丘を去りて10分後見る見る晴れる気まぐれの空

 広大な砂丘とその上の大空の躍動感。ダイナミックな光景を捉えつつ、おもしろいのが「気まぐれの空」。砂丘にいるときに晴れてくれたらよかったのに、去った途端に見る見る晴れた。空の変化を擬人的に表現し、その気まぐれさ(勝手さ)に対しささやかなクレームを発している。「見る見る晴れる」のテンポの良さも効いていて楽しい。奥村VS気まぐれの空である。

ベトナムのスープに今朝も混じりいるハーブのレモングラスはきらい

 ベトナム旅行中の様子が伝わってくるのびのびとした一首。前の歌もそうだが、今回は「今朝も混じりいる」と食材・レモングラスを擬人化している。実際は料理人がレモングラスを入れて香り付けをしているのだが、あたかもレモングラスが勝手に毎朝スープに混じってきて嫌、みたいな言い草がおもしろい。無生物に対しても意志を持つもののように対等に見つめているところに奥村らしいスタイルがある。

スノボーのガガガガガガのガガ滑り危うくわれは接触を

 「ガガ滑り」という連作の一首。命名力とでも言うべきか、奥村短歌では的確かつ独創的なネーミングが飛び出してくることがある。この「ガガ滑り」もその一つ。韻律に合わせたガガガガガガのオノマトペがスノボの勢いと乱暴な様子をよく表している。もっぱらスキー派の奥村からするとこの頃のスノボ人口の急増はさぞ危なっかしく、迷惑な思いを持っていたのだろう。そんな感慨が「ガガ滑り」という言葉に表れている。
 奥村の短歌には敵対視、というと悪く言い過ぎだが、批判的な対象が出てきて、今回の「ガガ滑り」のように名指されたりつぶさに歌いこまれたりしてフォーカスを当てられることがある。しかし読み手としては大抵その対象のことも愛らしく感じられることが多く、怒ってたり不快にしている奥村のこともまた微笑ましく、全体通して「世界はおもしろいなぁ」という印象を受けるのである。そういう類で私が大好きなのはこの一首。第二歌集『鬱と空』に出てくる「前に立つ三人の女子高校生なかの一人がことにうるさし」という歌。わかっていただけるだろうか。

思い出し笑いのやまぬ地下鉄の座席の彼女また笑い出す

 奥村短歌にはしばしば「そこにそんなに注目しないであげて〜」と思ってしまうような、鋭すぎる観察眼の歌が登場する。先ほど例に出した撮影の少女の歌もそうだし、うるさい女子高生の歌もそう。そして一般的にはつい憚られると思うのだが、女性にも容赦ない。そこがまたよいのだ。表面をいかにきれいに取り繕っていても、人間にはどうしようもない綻びが出てしまうことがある。SNS、スマホカメラ時代の昨今、この歌を読むと改めて味わい深い。この歌は誰もがなんとなく見覚えのある光景をありありと描いていて、結句の「また笑い出す」とループして終わるところが愉快だ。「地下鉄の座席」という具体も効いている。薄暗い車内にはしる一筋の明るい違和感である。

一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで

 最後は歌集タイトルにもなっているこの一首。完全無敵のこの言い切りが清々しい。スキーの手軽さを称賛しつつ、なにより伝わってくるのは奥村の元気のよさである。一日中雪山を滑って疲れない。それはスキーは板に乗ってるだけだからだ。……絶対にそんなことはない、太ももの筋肉を使いまくる。カーブするたびにスクワットだ。スキーをする私は知っている。だが歌の威勢のよさにうっかり説得させられてしまうのがこの韻律の力。軽快な下の句が板をはいて滑走する奥村の背中を想像させる。

次回は第十一歌集『多く連作の歌』をご紹介します!

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