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現在まさに進行中といえるのでは?

ちょっと懐かしいと感じる本だが、再読して
いろいろ感じること、預言書的に進んでいることに寒気がする。

市場経済が当たり前で生きてきて

上巻からの下巻に入ると、一気に現代へ近づいてきた

今の自分と関係ないくらい大昔、ネアンデルタール人が
登場する上巻は、ある意味エンターテイメント的歴史観で
今が作られてきた考察を冷静に読んでたのだが・・・

6年前、フォトリーディングだけで、放っておいた下巻
今の自分と幸福観と未来への恐怖から
読まなかったんだと理解。

今回改めて、すべてのページを読みながら
辛くて、怖くて、怒りなど
混ぜこぜの感情で、途中休憩しつつ、読み終えた。

1963年生まれ 1970年の大阪万博は、
1度だけ連れて行ってもらった。
すごい人で、どこのパビリオンにも入れなかった。

戦後の日本の目覚しい経済成長のシンボル的なイベント

ほとんどの家庭にテレビや冷蔵庫、洗濯機が普及した頃

そんな時代を知っている私は、この本にある
宗教での国家統一から科学革命、市場経済への進歩を
痛いような そうだったんだというような
変な感触で読んだ。

市場経済真っ只中で生きてきた。
上巻との間に読んだ アダムスミスの夕食を作ったのは誰か

ではないが、金がすべての物差しにあらわされていた。
女性は男性の持ち物のように、
まだまだどちらも考えていたから

どれだけ高収入の男性と結婚するかが、
女性の価値ともいえた。
クリスマスケーキになぞられた
結婚年齢は、今では笑い話でしかない。

神を信じていたころは、超自然に畏れ敬い
人の無力を自覚していた。

今はどうだろう。
一度捨てた神にまた、すがろうとしている。
お金を追いかけるのに疲れている人々の姿は、
幸せとはいえそうにない。

科学文明

少し時代が戻って、クック船長が島々の原住民を殺戮し
コロンブスやスペイン勢がマチュピチュをはじめとした
国を征服し、植民地にしていき
探検と征服を進めたのは、科学でモノをつくるのでなく
必要なもの、欲しいものを奪いに行ってたということ。

チンパンジーの雄は特に狂暴で、殺し合いや
子どもを虐待して殺すこともある。
というのと、変わらないことをしているサピエンス
進化していないというか
ネアンデルタール人の方が、温和で進化していたかも?

資本主義社会は、人種や収入等でひどい差別社会を作った。
アフリカの原住民は、動物のように扱われて奴隷として
プランテーションで働かされた。

中学の社会の先生からの宿題が
 NHKで放送されていた『ルーツ』を
毎週視聴することだったのを思い出した。

アフリカからアメリカまでの船の中で大半の
奴隷として捕まってしまった人達が死に
大きな綿畑で働かされ、
病気になっても休まされず、死ぬだけ。
家畜のような生活をしてきた黒人たちの話。

奪い取ってでも裕福になることが幸せだと
おもっていた時代。

そして、暴力の極み 戦争

サピエンスは、永遠に資産を増やせると思っている
資本主義と消費主義は 表裏一体のもの
経済のパイには限りがあるだろう。
そして、そうなってきたのではないだろうか。

地球の原材料、エネルギーを使い果たそうとしている。

幸せを測ることなどできない

ネアンデルタール人をはじめ他の人類を
絶滅させたサピエンスは、
農耕革命 科学革命をおこし
大きな戦争をおこしたことで
自らも滅びる可能性が高くなったことで
暴力を抑圧してきている。

文明は人を幸福にしたのだろうか

わたしたちは、ネアンデルタール人の
狩猟生活より幸福だろうか

国民主義は政治的自決権にゆだねられ
共産主義は、プロレタリアート独裁者にゆだねられ
資本主義は経済成長にゆだねられる

プロレタリアート:資本主義しほんしゅぎ社会の中の労働ろうどう者階級をいう。マルクスによると,生産手段せいさんしゅだんを所有せず,自由な身分ではあるが,自分の労働ろうどう力を商品として売ることによって生活しているものをいう。◇無産むさん階級ともいう

科学は、生物進化を乗り越え
サピエンスは神になった。

IPS細胞は、無から実体をつくり、生物細胞として生きる
植物や昆虫などの遺伝子操作は当たり前になり
人間の都合のよいモノを創りだしている。

人の寿命はどんどん延びて、120年とも言われるように。
傷んだカラダは、新しく作って入れ替えればいい
脳さえチップを入れて、コンピューターと連動させれる。

それは、ヒトというのだろうか?

この本が書かれた2014年には、まだ感染症の恐怖や
その医療に巡る不安は未知の話だ。

幸せの定義を私は、幸せだろうと思う未来への
道すがらのこととしている。

ゴールへの道のりは、苦しいこともあるが、
ゴールから振り返ると幸せであったと言えるのでは
ないだろうか。

仏教がいうところの、煩悩を捨て去ること
私たちの生きる世界は、諸行無常であり
諸法無我であるのだから。

何もかも無いものと理解することが
本当の幸せなのかもしれない。

私たちはかつてなかったほど強力だが、
それほどの力を何に使えばいいかは、
ほとんど見当もつかない。
人類は今までになく無責任になっているようだから、
なおさら良くない。
物理の法則しか連れ合いがなく、
自ら神にのし上がった私たちが責任を
取らなければならない相手はいない。
その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を
悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外は
ほとんど追い求めないが、それでも決して満足できずにいる。
自分が何を望んでいるかもわからない、
不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

あとがきより


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