土光敏夫「日に新たに、日々に新たなり」

 

 日に新たに、日々に新たなり


 『大学』に出てくる湯王の盤に銘記された、この言葉を座右の銘としたのが、昭和を代表する経営者・土光敏夫である。石川島重工業と東芝の社長、日本経団連会長、臨時行政改革推進審議会会長を歴任するなど、近代及び戦後日本のサラリーマンとして最も出世した人物でもあった。 

 土光は社会的には成功者でありながらその暮らしぶりは質素そのもの、倹約と勤勉を旨として、現代人がイメージする成功者が持つ華やかさとはほど遠い生き方を送ってきた。土光の人生哲学や、経営者としてのリーダーシップは多くの経営者や政治家の模範になり、国民にも絶大な人気があった稀有な企業人であった。

 ソニー創業者の井深大は「今の日本で最も尊敬できる人は誰かと聞かれれば、無条件に“土光さん“と答えたい」と答えている。衆議院議員や東京都知事を務めた石原慎太郎も、土光の人格に感化され、土光が熱心に日蓮宗を信仰していたことから、法華経をテーマに『法華経に生きる』という本を書きあげている。


 土光は一九二〇年(大正九年)に東京石川島造船所(現在のIHI)に技術者として入社、タービン技術を学ためにスイスにも留学している。土光の猛烈な働きぶりは凄まじく、土光タービンとあだ名がつけられるほどであった。戦後の混乱期の中、実績やリーダーシップを評価され、一九五〇年(昭和二十五年)には社長に就任、徹底した合理化で経営再建に成功する。一九六〇年(昭和三十五年)播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変更、これは日本で最初の大企業同士の合併とも言われている。

 一九六五年(昭和四十年)には経営難に陥っていた東芝の社長に就任、土光は社長室にあった専用の調理場やシャワー室などの豪奢な設備を撤去させ、出勤時には専用の運転手による社用車での送迎も取り止め、毎日電車で通勤している。土光の経営方針は徹底した合理化と、社長が社員の倍を働くという率先垂範を示す事であった。この結果、石川島に続き東芝も経営再建を果たすこととなったのだが、驚くべきことに徹底した合理化の名の下に行われがちなリストラを、一人も出さことなく経営再建に成功している。

 そして一九七四年(昭和四十九年)に、今度は石油ショックに苦しむ日本経済の再建を託される事となった土光は、日本経済団体連合会(経団連)の第四代会長に就任する。当時の首相は田中角栄で、金権政治やスキャンダルが批判されている頃であった。質素倹約がモットーの土光と、金権政治の権化とも言われた田中角栄とは水と油のような関係であり、土光は日本の未来を思うと夜も眠れず、田中首相に対し辞職を促している。当時絶大な影響力を誇った田中角栄と対峙すること自体前代未聞の事であり、土光は政治を知らないと揶揄されながらも、田中角栄に限らず自民党の金権体質を批判し、経団連による二十億円以上にもなる自民党への寄付金を数年間停止している。この間、自民党は資金繰りに窮し党本部のお弁当に至るまで徹底した経費削減が行われたという。政権与党と真っ向から対峙した企業人は、後にも先にも土光唯一人であろう。


 土光は大企業の社長にありがちな銀座通いや、愛人を囲ったり、別荘を購入するといった贅沢を一切嫌い、戦後は一回も床屋にも行かず、いつもつぎはぎだらけの帽子を使い、ブラシや衣服など使えるものは何十年と愛用した。稼いだ会社の給料のほとんどを母親が設立した橘女学園(現在は橘学苑)に注ぎ込んでいる。 


 橘女学園は母親の土光登美が女子教育の重要性を訴え、日蓮宗の教えと宮沢賢治の精神をもとに作られた学校である。この学校の学費は私立学校としては異例の安さで、土光の給料のほとんどが学校経営に充てられたことによって可能となった。母・登美は津田塾創設者の津田梅子のように海外留学の経験もなければ、高等教育を受けたわけでもない。女性が教育を受ける事が珍しい時代に生まれ育ったからこそ、女子教育の重要性を認識し、息子の力を頼らず独力で学校設立を果たした。母親の死後、その学校を引き継ぎ土光は理事長に就任している。土光が存命の間は学費が他の私立学校並みに値上げされることはなかった、土光は誰よりも経済的な苦労を知っているからだ。


 一八九六年(明治二十九年)に岡山県に生まれた土光は決して裕福な家庭で生まれてはいない。幼い頃から父親の力仕事を手伝いながら勉強に励む、しかし中学受験(旧学制)には三度失敗するなど、順風満帆とは言えない前半生であった。それでも勤勉に努力して一技術者でありながら大企業の社長だけでなく、経団連会長という日本経済の舵取りを任されるまでになった。そんな土光の最後の大仕事が増税なき財政再建を目的とした国家の経営再建、つまり行政改革である。

 一九八一年(昭和五十六年)、臨時行政改革推進審議会会長(土光臨調)を務め、行政改革の旗振り役となった。国鉄、専売公社、電電公社の三公社の民営化は、組合の強い反対もあって政治的には非常に難しく、民営化には国民の強い支持が必要であった。その改革成功の為に必要なリーダーは優れた実績と人格を兼ね備え、そして清貧で知られた土光敏夫しかいなかったのである。

 土光を中心とした行革のドキュメンタリーがNHKで放送され、東芝や経団連の元会長とは思えない質素な自宅での生活が放送される。その番組は大反響を呼び、そのおかずにメザシがあったことから“メザシの土光さん”と親しまれることとなった。

 こうした行革運動のかいあって、毎年莫大な赤字を出していた三公社は、JR、JT、NTTと民営化され、財政面だけでなく政治的、経済的にも大きく貢献することとなった。これが金儲けや、企業内の出世競争とは無縁の一経済人の成功物語である。


 

 その土光が座右の銘が『大学』の“日に新たに、日々に新たなり“である。


「私は一日の決算はその日のうちにやることを心がけている。今日が眼目であるから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともないし、明日を思い煩うこともしない。このことを積極的に言い表したのが“日新”だ。」


 土光の勤勉な仕事ぶり、分度を測って経営の合理化を行い、稼いだお金を学校の運営資金に回すという推譲の精神、こういった土光の生き方はまさに昭和の二宮金次郎であり、『大学』の徳を根本とした生き方そのものである。土光の存在は、戦後の復興から世界第二位の経済大国にまで成長した昭和の良き時代の象徴でもあった。

 

 そして昭和が終わりを迎えた一九八八年(昭和六十三年)土光は息を引き取る。その死後三十年以上経っても未だ土光の求心力は落ちてはいない。二〇一七年(平成二十九年)経済誌のプレジデント二〇一七年一月十六日号で掲載された「読者が評価する経営者ランキング」で土光は松下幸之助、スティーブ・ジョブズ、本田宗一郎に次ぐ四位にランキング入りしている。上位の三人に限らずこうしたランキングでは大抵の場合、創業者や何かイノベーションを起こした人物に人気が集中するものだが、サラリーマン経営者としては異例の人気を今なお誇っている。それは土光の輝かしい経歴以上に、土光の愚直で誠実な生き方が多くの人々を勇気づけているからに他ならないのではないだろうか。



 


 

 

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