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愛情表現の場としての暮らし

昨日の振り返りから思い出したことがありました。

これも幼い頃の話です。
小学3,4年生くらいでしょうか。

両親や妹たち、おじいちゃんおばあちゃん
それから先生や友だち、
みんなのことが好きだったのをおぼろげながら覚えています。

ときどき不機嫌な父親や乱暴な友だちを怖がったことはありましたが、
好きであることは変わらなかったと思います。

だから、親の言うことを聞くのは自分にとっては愛情表現でした。


でも、それが度を越して自分の限界を超えるところまで行ってしまった時に、自分の愛情が踏みにじられた!と感じて、傷ついて、壁を作り始めてしまいました。(上記リンク記事で書いた、受験勉強で苦しんだときのことです)

その頃以降、愛情は危険、利用されてしまう、というリスクを感じる対象となりました。
高じて、愛なんていらない。愛なんて空想の産物で、映画や音楽の中にしか出てこない、現実逃避の道具だ、なんてうそぶくまでになってしまいました。

でもまぁ、若気の至りだったのか、あまりにも極端に走ったせいか、愛にはそういう側面もあるけどそうではないこと、その実在性も見えてきました。


かつて幼かった僕は、自分の限界(そもそも自分自身)がわからず、ギブアップのタイミングもやり方もわからなかった。

また、相手と自分の境界がわからず、結果的に自分の欲求を無視してしまった。
そして自分の苦しさに相手が気づいてくれなかったことで傷ついてしまった。

いまはその当時の経験から学んだことで、
自己理解が進み、健全にNOを伝えられるし、自他の境界も線引できるし、自分の欲求を理解し、気持ちの行き違いに傷つくこともなくなった。


だから、
愛情が危険やリスク、ということはもうありません。

だからこそカウンセリングなどの対人支援業を始めました。

今回は、小学生の頃の記憶をきっかけに、
愛情についての自分の認識の変化を、その過程とともに、
あらためて実感しました。

愛情についての認識が変わったことはわかっていましたが、
あまりはっきりと自覚したものでもありませんでした。

今回、愛情たっぷりだった幼少の自分を思い出しました。
これを機に、日常のひとつひとつにより愛情を込めて、

毎日を愛情表現の場として生活してみようと思います。


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