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ロケで川に車ごと転落した‼️



1986年2月、僕は「11PM班」から、念願の「ドラマ班」に異動になった。

「11PM」をやりながらも、僕は「ドラマ班」に行きたくて、当時「木曜ゴールデンドラマ」の収録をしていた千里中央の「千里文化ホール」に、「11PM」の仕事が終わった後、タクシーで駆けつけていたのだ。

それが認められたらしい。

今岡大爾チーフ・プロデューサー



ただ、1月に「ドラマ班」のチーフ・プロデューサーである今岡大爾さんに「制作部」のソファーに突然呼ばれ、「ドラマ班へ来ないか❓」と打診された時、嬉しすぎて、思わず、「ハイ‼️」と言ってしまった。

「11PM」の上司に相談してから、返事させて下さい、というのが2年間お世話になった「11PM」のスタッフへの「礼儀」だったのだが。

「僕のドラマ班への異動」は「僕の手」を離れて「既成事実」になり、事後「11PM」の上司・先輩たちに伝えられた。

まだ、「11PM」で、あと一本ディレクターをする事になっていた僕は「気まずい雰囲気」の中で、「11PM」の仕事をする事になる。

「ドラマ班」に移った僕は「AP(アシスタント・プロデューサー)」を命じられた。

いわゆる「なんでも屋」である。

「初めてのドラマ」は、朝の連続ドラマ「花いちばん」。

朝の連続ドラマ「花いちばん」



主演は「池まり子」だった。

和歌山県南部で育った「ヒロイン」が大阪の「老舗乾物問屋」に嫁入りして、苦労の末、幸せを見つけるという物語。

脚本は秋田佐知子さん。

1986年4月21日放送スタートに向けて、2月末、「亀岡ロケ」からクランクインした。

時代物のドラマのロケ地・亀岡
時代物のドラマのロケ地・亀岡



放送は、月曜から金曜までの朝8時30分からの25分間。全国ネットである。

当時、「ルックルックこんにちは」の視聴率が下がっていたので、「朝の連続ドラマ」を先に放送して、そのあとに「ルックルックこんにちは」を編成する事になったのだ。

日本テレビから東の系列局は「ルックルックこんにちは」を先に放送して、そのあと「朝の連続ドラマ」を放送するという変則的な放送だ。

そもそも、「大阪本社でのドラマ制作」は17年ぶり。

しかも、「単発ドラマ」では無く
、半年間続く「25分✖️130本」の「朝の連続ドラマ」を「局制作」するのである。

つまり、8ヶ月間で「2時間ドラマ」を26本撮るという計算になる。

「制作部」「演出部」「技術部」「照明部」「美術部」などなど、各部署のスタッフの多くが「ドラマ初経験」。

クランクインしたものの、「撮影」は遅々として進まない。

当たり前だ。「各部署」、撮影の準備にやたら時間がかかるから。

それでもなんとか「亀岡ロケ」を終え、「ロケ本隊」は車両を連ねて、今度は次のロケ地である「和歌山県南部町」へと大移動を始める。

中村玉緒さん
大村崑さん
南田洋子さん
金田賢一さん



僕の役目はたった1人で「中村玉緒さん」「南田洋子さん」「金田賢一さん」「大村崑さん」ら俳優陣のアテンド。

「亀岡ロケ」終了後の移動の為、前もって、指定券は買えない。

だから、僕が「駅」で切符を買いに走り回るのだ。

亀岡駅から山陰本線で京都駅に出て、そこから「新幹線」で新大阪駅へ。

新大阪駅から天王寺駅へはタクシーに分乗して移動。

特急「くろしお」の発車時間が迫っていたので、「なるべく急いで‼️」とタクシーの運転手さんに告げると、「交通ルール」も無視して、タクシーは天王寺駅に向かう。

気持ち悪くなる程の荒い運転だった。

そのおかげで、ギリギリ間に合った特急「くろしお」に俳優陣を乗せて、南部駅へ。

南部町唯一の宿泊施設・国民宿舎



南部駅に着いたら、「南部国民宿舎」へと向かう。

ロビーで俳優陣に休んでもらっている短い時間で、「部屋割り」サッサとして、それぞれの部屋に案内する。

それが終わったら、今度は「スタッフの部屋割り」に取りかかる。

夕方、「ロケ本隊」の車両が次々と到着。

フロントでそれぞれの部屋を伝えていく。

みんな、疲れが溜まっているのだろう。機嫌が悪い。

続いて、「夕食」「入浴」の段取り。

「大村崑さん」から呼び出しが入る。

部屋に伺うと、「紀伊田辺のビジネスホテル」に移りたいとの事。

実は、この「国民宿舎」、「風呂が付いている部屋」が1つしか無いのだ。

それゆえ、プロデューサーの岡本俊次さん(のちに大ヒットドラマ「失楽園」をプロデュース)と事前に話をして、その部屋は誰にも使わせない様に「封印」したのだ。

「大村崑さん」は「大浴場」しか無いのが我慢ならなかったらしい。

「紀伊田辺のビジネスホテル」を電話帳で調べて、予約を入れて、タクシーを呼ぶ。

もちろん、「インターネット」も「スマホ」も「携帯電話」も無い時代だから、全て手作業なのだ。

日活の大スター「南田洋子さん」は「女優」ゆえ、「一般人」に見られる「大浴場」は一切使わず、毎日ロケが終わって汗だくで帰って来ると、濡れタオルで身体を丹念に拭いていたと、のちのちマネージャーから聞いた。

大映の大スター「中村玉緒さん」。

彼女は真逆で堂々と毎日「大浴場」に入られた。「大浴場」にいた一般の女性も驚かれた事だろう。

「夕食」をかっこむ様に5分くらいで食べると、「各部署」からの「要望」や「苦情」を1つずつ処理していく。

「各部署」、ドラマが初めてなので、「要望」や「苦情」が、「AP」の僕に殺到するのだ。

それは「撮影」に関しての事もあるが、「部屋割り」だったり、「食事」だったり、多岐にわたる。

それが落ち着いたら、「制作部」「演出部」と明日の撮影の打ち合わせ。

当然、長時間かかり、深夜に及ぶ。

午前3時頃寝て、起きるのは午前5時前。

「AP」はいちばん遅く寝て、いちばん早く起きるのが常識だ。

と、当時の僕は真面目だったから、そう思い込んでいた。

梅干し「南高梅」で有名な南部町



「南部町」でのロケが始まる。

「制作部」はロケ現場に付きっきり。

もう1人の「AP」である先輩の山本和夫さんも「記者誘導(新聞記者などをロケ現場に大阪から連れて来て、取材をしてもらう事)」で手いっぱいである。

それゆえ、本当はやってはいけないのだが、「国民宿舎」から「ロケ現場」に「俳優」を車で送迎する仕事を僕が担当した。

確か、「中村玉緒さん」だったか、「金田賢一さん」だったかを送った後、僕は所用があり、「国民宿舎」に戻った。

そして、再び「国民宿舎」から「ロケ現場」へ。

南部川



南部川の土手を「南部町役場」に借りた車で走っていた時、その事故は起こった。

僕の耳に「大きなものが破壊される轟音」が響き渡り、「走馬灯の様に今までの人生の様々なシーン」がスローモーションで再生されていった。

僕のカラダは「回転」していた。

「轟音」は「車の先端」が「河原」にぶち当たった瞬間に出た音。

僕の運転していた車は1回転半して、南部川の中に沈んでいた。

幸いにも、川の底にブロックが置いてあり、車はその上に載ったのである。

車は見事に「全壊」。

川の土手の道はカーブしていた。しかし、車は直進して、数メートル下の河原に落下。

額が切れて、顔が血だらけになり、両手の手首にフロントガラスの破片が突き刺さっていた。

僕は辛うじて、窓を開けて、血まみれの手を振って、学校帰りの自転車に乗って、土手を通りかかった小学生たちに助けを求めた。

1986年春3月。午後3時頃の事。

もう1人の「AP」山本和夫さんがロケ現場から駆け付けてくれた。

現在の「南部町役場」



但し、僕の顔が真っ赤に血で覆われていて、山本さんは最初、「南部町の役場の人」が車ごと、川に落ちたと思ったという。

車に大きく「南部町役場」と書かれていたのだから、しょうがない。

山本さんはすぐ救急車を呼んでくれて、僕はそれに乗せられて紀伊田辺の病院に搬送された。

救急車が「民間に委託」されたもので、運転席の「お兄ちゃん」と「おばちゃん」が「病院への道」について、言い争っているのが聞こえた。

つまり、「車の先端が河原に落ちた瞬間の轟音」以降、僕は常に「意識」があったのである。

和歌山県民は「敬語」をしゃべらないという。

「気質」が荒いのだ。

病院の看護師の扱いも荒かった。ストレッチに乗せられた僕のカラダは病院の廊下の角を回る度に、壁に当たり、僕は痛さで悲鳴を上げた。

「男の子なんだから、大きな声を出さない‼️」

僕は看護師に叱られた。

手術室で何針か縫い、1泊入院して、僕は大阪に帰る事になった。

山本和夫さんは、南部川に流れた「僕の持っていた領収書」を川の中で探し歩いてくれたと後から聞いた。

幸いにも、「記者誘導」で来ていた「報道陣」にこの事故はバレなかった。

今だったら、SNSが発達しているから、一発で「事故」が起こった事は世間に広まって行き、「朝の連続ドラマ」の放送も中止になっていたかも知れない。

事故の原因は「居眠り運転」だった。

連日の2時間睡眠で「睡魔」に突然襲われ、「俳優陣」を送迎していない時に、心に「緩み」が出たのだった。

さらに、「各部署」からの「要望」や「苦情」を全て受け続けて来て、もう自分自身の「キャパ」を遥かに超えていた事も事実だ。

事故で僕が壊した車はチーフ・プロデューサーの今岡大爾さんが「番組で入っていた保険」を使って、「南部町役場」に「新車」を納めたと聞いた。

事故の翌日、僕は迎えに来た母と共に、紀伊田辺駅から特急「くろしお」に乗って、大阪へと向かう。

南部町・千里浜



「南部町・千里浜」の太陽が照りつける砂浜で、ロケ隊が撮影を続けているのが見えた。

蟻の様に見えた。
あそこから逃れられたんだ。
僕は心の中で、不謹慎にも「万歳」をしていた。

僕は思った。

「これで、言い訳しないで、ぐっすり眠れる‼️」

と。

「制作部長」から連絡があり、僕は半月、ほとぼりが冷めるまで「自宅待機」になった。

その間、梅田の「北野病院」にも通院した。

「スタジオ収録」に復帰した日、「元・TBS」のベテラン・ディレクター、山本和夫さん(ウチのAP山本和夫さんと同姓同名)に初めて出会った時、言われた。

「君かね❓和歌山ロケで車ごと川に転落したのは❓」

ヤマカズさん(山本和夫さんの愛称)は笑いながら、僕に話しかけてくれた。

それから、ヤマカズさんと僕は長い付き合いになる。

僕の家には、「花いちばん」第1週、第2週の「フロントガラスの傷」と「僕の血」が付いた「台本」が残っているし、僕自身の手首にも、あの時の「傷跡」が残っている。

岡本俊次プロデューサーに殺されかけた僕だが、今となっては「ドラマの師匠」と敬愛している。

「過酷な撮影現場」を共にしたキャストやスタッフは、どこか「戦友」に似ているところがあるのかも知れない。

この事故で僕が学んだ事。

「仕事」を受ける時は「順番」を付けて、「理由」を「依頼者」にちゃんと説明する事。

そうしないと、誰でも「自分のキャパ」を超える危険を孕んでいる。

1ヶ月、残業280時間、休み無し40日以上という「過酷な状況」で関わり続けた「朝の連続ドラマ」。

「朝ドラ」を「局制作」でやった事で、東京に異動して、「ドラマのプロデューサー」をやっても決して動じる事は無かった。

もう40年近く前の「昭和の出来事」。

「昭和」って、なんて「良い時代」だったんだろう‼️



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