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お見合い

僕は20代の頃、3度「お見合い」をしている。

毒親(イメージ)

その内、2度は「毒親モンスター化である「母親」が仕組んだもの。

彼女の「理想」とする考えの中で、「息子は20代半ばには結婚させたいという強い思い」があったのだろう。

見合い写真(イメージ)

僕のアルバムから、写真を勝手に剥がして、それを「彼女の選んだ見合い相手の家」に渡し、段取りを全て整えてから、僕に「見合い」の事を伝えた。

お見合い(イメージ)

もう、僕が断れる状況では無いところで。

神戸ポートピアホテル
神戸ポートピアホテル・喫茶ルーム

だから、その当時、「結婚願望」が全く無かった僕は、二度、「神戸ポートピアホテル」の最上階の喫茶ルームで、「お見合い」をしている。

「お見合い相手の女の子」は二人とも、「大人しくて、地味な女性」だった。

「このあとは、若い二人だけで」

という言葉を合図にして、僕と「見合い相手の女の子」は放り出された。

六甲山
六甲牧場
六甲牧場

仕方なく、僕は彼女たちを誘って、車で何故か「六甲山」を上って、「六甲牧場」に行った。

行く車中で、僕は「彼女たち」にいろいろ「質問」を投げかけたが、返って来る「返事」はそれほど面白いものでは無かった。

結婚(イメージ)

「彼女たち」は「結婚」を背負って、「お見合い」に来ていたのである。

「結婚願望」の全く無い、当時の僕にはそれがめちゃくちゃ「重荷」だった。

「彼女たち」から「僕が持っていないんで新しい価値観」を「発見」したかったのだが、それは全く見つからなかった。

「結婚」というのは「異なる価値観」の「ぶつかり合い」「ハーモニー」が「新たな人生」をお互い生み出して行くものではないだろうか❓

ある日、僕は会社で、清川武寛制作部長と豊永幸男チーフ・プロデューサーに「別室」に呼び出された。

何事かと、「ドキドキした」のを憶えている。今から40年近く前の話だ。

「お願いがある。見合いする気はないかね❓」

僕の顔を神妙に覗き込みながら、二人はそう言った。

「えっ‼️誰とですか❓」

二人の口から出た名前をきいて、僕は驚いた。

僕がその頃、ADとして付いていたレギュラー番組の「司会者」の「娘さん」が「見合い相手」だったからである。

「滅相もない‼️ADの分際で・・・もし、見合いして断る事になったら、そのあと、めちゃくちゃ気まずいじゃないですか‼️それに僕には今、『結婚願望』と言うものが全く無いんです‼️」

「良いんだ。それでも良いんだ。断る事になったとしても、お父さんの方は『今まで通り、スタッフとしてちゃんと変わらず、仕事を続けるから』とおっしゃっているから」

僕は「そこまで仰るなら」と、その話を受ける事にした。

会社の横にあった「ティジャ」というカウンタバーしか無い「ステーキレストラン」で、タレントをしている「司会者の奥さん」と会った。話をした。

阪急梅田駅改札口

そして、「司会者のお嬢さん」と阪急梅田駅の改札前で待ち合わせをして、「デート」を二人だけでした。

今考えると、「女心」をその頃の僕は全く分かっておらず、「デート」で行ったのは「パチンコ屋」。それから、喫茶店にでも行ったのだろうか。

「記憶」がほとんど無い。

「とても男勝りな女性」だったのを憶えている。

でも、その頃の僕には「結婚願望」が全く無かった。

どんなに「彼女が魅力的な女性」でも「結婚」に踏み切れなかったのである。

毎週、「生放送」に携わる、慌ただしい「テレビの仕事」が大好きで、それに没頭していたのだ。

僕は丁寧にお断りを入れた。

「番組司会者」も「AD」の僕に対して、決して態度を変える事無く、約束通り接して下さった。

僕はその後、「ドラマ班」に異動。「朝の連続ドラマ」の「AP」を長く続ける事になる。

30歳の時、大学の親友の家で、「妻」と知り合った。

そして、結婚。
三人の子供に恵まれた。

あの「番組司会者」は2012年10月30日、79歳で亡くなられた。

西宮市で行われた「告別式」に参列した。

しとしと雨が降る日だったのを憶えている。

藤本義一さん
藤本義一さんの遺影

とてもとてもダンディーな遺影を仰ぎ見て、拝む。

焼香を済ませて、遺族の前に行き、一礼。

そこには「家族を連れた彼女」の姿があった。

僕はどこかで安心していた。安心する事もないのに、僕ごときが。

「番組関係者の先輩方々」と「JR西ノ宮駅」前の居酒屋に入って、「献杯」した。

もう「制作部長」も「チーフ・プロデューサー」も鬼籍に入られた。

あちらで、「水割り」でも飲みながら、「番組司会者」の方と僕の事も話しているのかなぁー

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