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「いくよ」のお守り

 新年度になりました。不登校新聞やフリースクールのニュースレター作成でnoteの更新をサボってしまいましたが、このタイミングで書きたいことをひとつあげようと思います。

 この時期は、お子さんから「4月からは行くよ」と言ってもらえた保護者の方は少なくないのでは、と思います。あるいは、何度となく「行くよ」と言われては上手くいかず、どう捉えて良いのかモヤモヤしている方もいるかもしれません。

 今回は、そんな「4月から『学校へ行く』と言われたら」どうしたらいいのかを、考えてみたいと思います。

 まず、子どもが「行くよ」と言うとき、そこにはどんな背景があるのでしょうか。もちろん、一人ひとり違いはありますが、今回は二つのパターンに分けてみました。


 一つ目は、覚悟をもった「行くよ」です。例えば、中学3年になって高校進学のために出席や成績が必要だとか、悩み抜いた結果、登校再開を決意するというものです。

 それは、必ずしも新たな学校生活への楽しみや希望だけではありません。ともすれば今を乗り切れば苦痛が終わると信じていればこそ、何とか紡ぎだせる一言ではないか、と思います。


 二つ目は、行きたいとか行くということではなく、むしろその逆で、「4月までは休むことを許してほしい」という意味です。自分自身が休むことに抵抗感があったり、保護者の様子を見たりすると、簡単に「休ませて」とは言えません。

 「4月からは行くよ」と言えたということは、少なくとも4月までは休みたいと表現できる雰囲気が家庭の中に作ることができていた、ということです。

 しかし、それでも「行かなければならない」が大前提になっており、その期限を区切っているだけだとしたら、本当に休めているか気を付けて見ていく必要はあると思います。


 このような二つのパターンにはっきり分かれるわけではないですが、どちらにも言えることは、これは「約束」とは違う、ということです。そもそも行けるのなら、すぐにでも「行きたい」というはずであり、もっと言えばその言葉を口にすることなく行くと思います。

 本当に行けるかどうか、自分でもわからないのです。それがもし約束になってしまったら、それが反故になった辛さを保護者も子どもも感じてしまうことになります。


 では、改めて「行くよ」という言葉をどう捉えたら良いのか。私は「お守り」ではないか、と思うのです。「お守り」は家内安全、合格祈願といった人の願いが込められたものです。それを手にするだけで実現するわけではありませんが、持っていることで、そこに悩みを委ねたり、想いを馳せたりすることができます。また、それによって安心感を得ることもあると思います。

 子どもから発せられた「行くよ」は、休んでいる自分から「言葉」に意識が向かうという点で、まさに「『行くよ』のお守り」なのです。その言葉が出て、本人も保護者もホッとした瞬間があったのではないか、と思います。


 フリースクールを利用している子を見ていても、実際に4月は行きやすいタイミングなのだと思います。「4月からは行くよ」と言った子の多くは本当に頑張ります。

 それまでの遅れも取り戻そうとするほどに頑張ってしまいます。頑張って頑張って、GWには息切れしてしまう子も少なくありません。

 そして、辛いのは、「やっぱり自分には無理だったな」とネガティブに捉えてしまうことです。

 保護者としては、子どもがどう動くのか見守るほかありませんが、変わらず居場所としてあり続けることが大切だと思っています。


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