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エジプトの神々、日本の神々 - 大和は言挙げせぬ国、そして翻訳者たちの苦悩

エジプトの神々は太陽神ラーを頂点として、さまざまな神様がおわします。日本の神々と比較すると司る分野が細かく分かれていて、大気の神様や湿度の神様がいる。これはあの厳しい自然の中から生まれた自然に対する人々の畏敬の念の化身のように思われる。この太陽神はしかし、民衆のアメン神人気に押されて格下にされたり。地中海を挟んだ神々は破天荒である。神々が戦闘にでかけている間に留守中の妻たちを身ごもらせ、片足を切り落とされた神様もいる。人間臭いのだ。そして、息子の帰還に太陽神ラーの流した嬉し涙から生まれたのがファラオ=王。

天皇が神の子孫であると言う考えも、エジプトの多神教と良く似ている。天皇は「すめらみこと」と呼ばれるが、尊/命は「神」を意味する。これとは別に神が宿るという考え方がある。これは能などの古芸能に顕著だ。神が宿る舞は幽玄となり神と人が出会う場を作る。人々は引き込まれ、その一瞬に神と出会う。神々が顕現したときの姿はあまり関係ないらしく、仏教のような偶像は作られていないし、崇拝の対象は天照大御神が天界に帰るときに残した「かたみ=鏡」だったり、木や岩そのものだったりする。その鏡の中に見えるのは己のみ。神々は私たち一人一人に宿り、時に悪心を抱き、怒り、嘆く。神は二つの側面を持つ。和らぐ神々と荒ぶる神々(Gentle Soul & Rough Soul)。これら神々は表裏一体。私たちは私たちの中に宿る己の神のために奉仕し、荒ぶる神々を起こさないように他者に対して私たちは尊敬の念を示す。これが無ければ人間社会は成り立たない。凡夫たる私たちがGentle Soulを保つのは難しい。

神道に祝詞はあってもバイブルや経典のようなものは無い。神は宿るからだ。
「大和は言挙げせぬ国」だ。翻訳者たちは分かりにくい原文に四苦八苦する。それはこう言うところから来ているのかもしれない。言挙げしないのに、政治や経営、人間関係には言葉がいる。ましてや言挙げする他国や相手に対しては言挙げしなければ分かり合えない。

大和は、大和の民は「言挙げが苦手」なのだと思う。日本人が外国語を苦手とするのはこうしたことがあるからではと、思う今日この頃。


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