短編小説 お兄ちゃん召喚の儀

たぶん。いや絶対。これは魔法陣だ。

床にばら撒いたコピー用紙を大きな模造紙に見立てて、そのうえに筆で描いた六芒星。筆て。真ん中に俺の写真。がに股で両手を前に突き出す妹。驚いた顔を俺の方に向ける妹。いや。こんな蛮行してるやつがすんなそんな顔。
「……」
「……」
たっぷりの間。
「お、おかえりお兄ちゃん」
「ただいま」
「ノックくらいしてよね!」
「インターフォンを押したが。よっぽど熱中してたんじゃないか?」
「してたね。成功したし」
「成功」
「おかえりお兄ちゃん!」
「いや、成功、してないが」
見なかったことにしたい。



「で、なんだったんだ、あれ」
「それはもう、お兄ちゃん召喚の儀ですよ」
「召喚の儀」
開き直ってるな、こいつ。
「召喚してどうするんだ?」
「ええっとぉ」
文渚はおでこをぽりぽりとかいて、照れくさそうに笑った。
「……どうするんだろうね。会うのに必死で考えてなかった」
「考えてからやりなさいよ」
「考えてからなら」
「よくないけども。歳考えなさい」
「歳考えてからなら!」
「お前、若返ったりできるの?」
「できるわけないじゃん。なにいってんのお兄ちゃん」
「え? なんで俺が煽られてんの?」
「あっ……お兄ちゃん、足しびれた……たすけて……」
「朝になるまでそこで正座してろ」



足がしびれて無抵抗な妹の目の前でばかみたいな魔法陣を片付けるのはまあまあ楽しかった。途中何度か奇声を上げていた。ご近所迷惑ですよ。
「またしかもガキのころの写真ってところがお前」
「ほかにお兄ちゃんの写真、なかったから」
「ああそう。そのお兄ちゃんってのもやめなさいよ。お前、今年でいくつだよ」
「女の子に歳聞くのってデリカシーないぞ」
「召喚の儀以上にデリカシーない行動ある?」
まとめたごみ袋はとりあえずソファの横に放っておいた。
「このソファ、まだ取ってあるんだな」
「まだまだ現役だよ」
「いや、もうそろそろ引退させてやれよ。鬼監督」
俺たちが生まれたころからあるはずだから、30年選手に片足突っ込んでるってところか。
「いやだよ。思い出がいっぱい詰まってるじゃない」
「ふーん」
あまりそういう感性は俺にはない。それに大学進学を機に出て以来、家に帰ってきたのはほとんど10年振りで、そういう思い入れもとくにない。
「仕事は順調?」
「まあな。おかげさまで。そっちこそ」
「見ての通り」
へらっと笑うと余計に目元のくまが目立つ。目立たせるのに笑ったんだろうが。さっき久しぶりに見た妹の顔で一番に目を引いたのはそこだ。
「あんまり無理するなよ」
「作家のくまは勲章ですよ」
「格好いい」
「でしょう」
まあ、正座のポーズのまま床に転がった姿で言われても、滑稽なだけだが。



「大変なんだな、やっぱり。まあどっかで聞きかじったようなイメージしかないけど」
「まあね」
きれいになった床に「ざぶん」と言って文渚は大の字に横になった。ソファ使えよ。
「ね。お兄ちゃん。お父さんもお母さんもいなくなっちゃった」
「知ってる」
だから一旦でもこうして実家に帰って来たんだ。
「あたし、どうしよう」
文渚が床のうえにごろんと仰向けになる。
「一人だと……こんな家、広すぎるよぅ」
「そうだな。手放して引っ越せばいいんじゃないか」
「そういう、冷たいこと言う?」
なんて言えばよかったんだ。
「召喚されちゃう?」
「されちゃわない。ほら」
「わぷ」
馬鹿言ってる妹の顔に拾った写真でふたをしておく。
「落とし物。今週いっぱいは俺もこっちにいるから」
「残念」
「結婚でもすればいいじゃないか」
「お兄ちゃんこそ」
「俺は仕事忙しいから」
「あたしも一緒」
「ああ、そう」
「あら。そうすると、あたしたち、ちょうどいいと思ったり」
「しません」
「はぁ。残念」
「残念なのはお前だよ」
「冷たい」
馬鹿言ってる妹の相手をこれだけしてるんだから優しいもんだ。



「だいたい」
余計なことだと思ったけど、つい、口をついて言葉が出てしまった。
「お前が好きなのって、その写真のころの俺だろ。ガキのころの話だろ?」
ぱしゃ。
カメラ?
「……」
「お前」
「いや。いまでも好きですが」
「なんでいま写真」
「ご要望にお答えして。最新のお兄ちゃんでやろうかと。召喚の儀」
「やるな。ご要望してない。やめろ」
「え? でもいまのはそういう」
「違う」
「冗談だって」
なにがおかしいやら、文渚は延々と床を泳いでいた。
「えへへ。お兄ちゃん、私が小さいころからお兄ちゃんのこと好きなの、覚えててくれたんだねぇ」
忘れたいけどな。
妹に告白されて、それから気まずくなって、俺は家を出ることにしたんだから。忘れたくても忘れられない。
「まあな」
「だめなのかな? 私がお兄ちゃん、好きなの」
「だめだろ」
「なんで?」
「なんでって」
そういうもんだろ。
「あたし、お兄ちゃんのそういう普通のところが好きなんですよ」
「そういう無敵っぽい回答やめてくれる? 俺なに言っても言い返されちまう」
「恋する乙女は無敵なんだよ」
「恋する相手を間違えてるよ」
「間違えてないよ。この世界が間違えてるんだよ」



ああ。そうだったな。お前。そういうやつだったよな。
俺はこの妹のこういうところが苦手だった。自分が正しいと思うことを、堂々と胸を張って通すところが、痛々しくて、見ていられなかった。
「どうしたの、お兄ちゃん。ぽかんとして」
「いや」
だから一緒にいられなくなったんだ。いい加減大人になれよって、そんなことを言った日には、なんだか、こいつみたいに素直に生きられない自分の弱さを認めてしまう気がして。こんな妹に憧れる自分を認めたくなくて。
「なんでもない。お前さ。パンツ見えそうだぞ」
「残念! あたし、家だとパンツ、履いてません!」
「ぶっ。おま」
「見る?」
「見るか!」
ああ。早く帰りたい。早くこの妹と距離を取らないと、またこの妹が正しいとか、世界が間違ってるとか、この妹となら一緒に世界に立ち向かえるとか。そんな空想を抱きそうになる。
「はぁ」
「どうしたの。ため息なんてついて」
「なんでもない。たぶん。いや絶対。お前が悪い」
「えっなんで。なんの話?」
「お前が俺を召喚したのがぜんぶ悪い」
「えっお兄ちゃんなに言ってるの……? おかしくなっちゃった?」
「お前なぁ」
こんなのでも妹。野に放って世間様に迷惑をかけるくらいならいっそ。そんなことを少しでも考えさせられた時点で俺の負け、こいつのペースなのだ。今週いっぱい、きっとこんな調子なんだろう。ちょっとだけ楽しみにしてしまう自分が憂鬱だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?