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僕は何度だって君に殺される/ギャルゲー分人論(Ciel『After…』プレイ日記その5)

「分人」という言葉をご存知だろうか。平野啓一郎氏が『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書,2012年)で提唱した「私」の考え方のひとつである。

「たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」(p7)

 同書では例示としてSNS論が展開されている。ある媒体(SNS)で「誰に対して、自分のどんな一面を見せるかを当たり前のようにコントロールしている若い人たちにとっては、ネット登場時のこうした、リアル人格vs.ネット人格の真贋論争は、バカげた話のように聞こえるかもしれない」(p32)。この本が世に出て約10年。もはや「バカげた話」でないと思う向きが大勢ではないかと思うが、先に引用した「すべて「本当の自分」」という感覚にまでは、まだ私たちは到達していないのではないだろうか。あるいはもはや「本当の自分」が問題にすらならない時代なのかもしれない。「私とは何か」この問いが不要になったのか、この問いを問いとして立てることすらできないのか。

 ところで「分人」の適用範囲は、なにもSNSに限ったものではない。「分人」とは、平野が「私たちは現在、どういう世界をどんなふうに生きていて、その現実をどう整理すれば、より生きやすくなるのか?」(p8)を考えるために導入した概念であり、リアルの、あらゆる人間関係と、社会のあり方をその射程にする。だから私たちは、ラフに、気楽に、この「分人」という考え方を使いこなせばよい。

 たとえば。知らず知らずにギャルゲーの主人公に乗り移っている私の「分人」を愛せよとか。今日はこんなところの妄言である。



『After…』という鬱ゲーと私

 こちらは株式会社スペースプロジェクトのゲームブランドCielより2003年発売のPCアダルトゲーム『After…』プレイ日記である。

 登山に青春をかける主人公「高鷲祐一」。その妹「渚」、二人の共通の幼馴染「汐宮香奈美」、そして祐一が部長を務めるワンダーフォーゲル部のメンバーたち。冬の穂高岳登頂を目標にした、祐一視点の学生生活において繰り広げられる六人の男女の物語が、ノベルゲー寄りのギャルゲー『After…』という作品だ。

 だ、と、ひとことで紹介できないところに、このゲームの語っても語り尽くせぬ魔性の魅力がある。

『After…』というタイトルそのものだが、本作、主人公祐一がいずれかの攻略対象と結ばれるまでの第一部、3月の冬山登山で事故死し魂だけの存在となった祐一とパートナーのその後を描く第二部で構成されている。初見時は本当にたまげたものである。察する描写はしっかりされているのだが、ギャルゲー初心者の私の感情はそれはもう揺れに揺れた。

 ご覧のとおりである。

 メインヒロインの香奈美が気になりながらもあまりにテンプレな元気系幼馴染みを嗅ぎ取った私はおろかにも実妹ヒロイン高鷲渚を真っ先に攻略。死後友人の体を我が物とした主人公祐一と妹が結婚する衝撃的なラストを迎える渚ルートを攻略し、無事実妹ヒロインゾンビかつもはや展開のない古のギャルゲーファンゾンビと化した。ファンディスク収録のエモエモな渚ルート補完エピソードで微小ながらHPを回復した私は、気を取り直して『After…コンプリートボーカルコレクション』を聞きながら香奈美ルートに向かった。


「幼馴染」汐宮香奈美

 香奈美ルートについて語ろう。

 香奈美は祐一の幼馴染だ。なので、関係性としては実の妹である渚と対照的である。作中、ワンダーフォーゲル部の部員であり祐一の友人である「滝谷紘太郎」が、祐一は香奈美とお似合いで、渚に手を出すと怖いお兄ちゃんだと評するのが、そのままあてはまる。

 幼いころから祐一を知っている香奈美は、祐一が登山にのめり込むことを快く思わない。香奈美は幼少時に父を登山中の事故で亡くしていた。その香奈美の父は祐一に登山の魅力を教えた存在でもある。祐一のなかに亡き父の想いが生きていると同時に、それゆえ、大切な幼馴染が同じ道を辿ろうとしていることを知って、香奈美の心は揺れる。「元気な幼馴染」といえば憎まれ口みたいなところがあるが、汐宮香奈美の場合、祐一に対してペースが乱れる背景がここにある。

 当初はふざけ合う幼馴染という関係性にはめ込まれていた祐一と香奈美の二人は、高校三年の夏から冬にかけ、友人たちを通じた新たな関係性のなかで、忘れていた子供のころの思い出を通わせながら、見逃していた幼馴染の一面にときめきながら、徐々に互いを特別な存在として見つめ直して行く。

 卒業の日。互いに互いを好きだと初めて言葉にできた二人。残された数日、甘い時間を共にしたのち、祐一は香奈美の思いが詰まったお守りを手に、かねてからの夢であった冬の穂高に向かう。香奈美が祐一に託したお守りは、香奈美が幼いころ、山に向かい帰らぬ人となる父に渡しそこねた無念が詰まった大切なお守りだった。あまりにも美しい死亡フラグ。祐一の帰りを待つ香奈美のもとに慌てた様子の母が着電を告げる。あれ……なんだか、子供のころにも、こんなふうに慌てたお母さんが、たしか電話を持って……あれ?


私が幻視したもの

 こうして『After…』第二部が開幕する。プレイする私のPCではご丁寧にも第二部OP映像が流れた。テーマ曲『Memories With You』をバックに流れるイラストはこれまでの楽しかった思い出と祐一の死を悼む悲痛なヒロインたちの姿である。呆然と見守る私。もうすでに目にしたことのあるはずの映像に放心する私。しまった。スクショ…。若干咳き込みながらとにかくもう一度OPを再生。もう一度殴られる。というかOP映像には香奈美ルートだからって香奈美だけじゃなくて兄を失い泣きはらす渚のスチルも容赦なく使われているのでその都度刺される私。刺されながらスクショ。

 このとき私の脳裏には、

 ①PS2移植版で渚ルート第一部・二部通してクリアした思い出と、

 ②PC原作版で渚ルート第一部とファンディスクの甘めのストーリーを歩きなおした思い出と、

 ③直前の香奈美ルート第一部の思い出、

 そのすべてが、その後のできごとを散りばめた第二部OP映像とともに走馬灯のように流れた。実の兄妹という葛藤をともに乗り越えた渚との日々、気心の知れた幼馴染としてふざけ合い過ごした香奈美との日々……二人と生きた過去・現在・未来がこの私の一瞬にショートした。あふれる感情が止まらなかった。

 私は、自分が夢を見ていたことに気がつく。渚を、実妹をこじらせ臨んだ香奈美ルート。私はいつしか祐一と渚、香奈美の三人が穏やかで幸せな日々を過ごす……そんな幻を見ていた。


ギャルゲープレイヤーは夢を見る

 祐一の妹「渚」は、当然、香奈美の幼馴染である。作中、香奈美のことを姉のように慕う渚には祐一の相手として香奈美のことを「あたしは、香奈美ちゃん好きだから、香奈美ちゃんだったらいいけど」そう評する台詞がある。渚ルートでは祐一が渚を恋愛対象として認識する経過が描かれているが、渚はいつから兄を兄以上に思っていたのか。

 少なくとも、作中以前から兄を恋愛対象として慕っていたらしいことはほのめかされている。そして普段、兄以外の他人を前にすると借りてきた猫になる渚が、兄と交わす言葉のほかに、兄と香奈美が結ばれればよいという願いに限っては他人の前でも想いを晒すことをはばからない。この描写から、渚の、香奈美という「祐一の幼馴染」に対する複雑な心情が見て取れる。渚は、大好きなお兄ちゃんが香奈美とくっつくのなら、これからもお兄ちゃんと一緒にいる自分を前向きに思い描くことができる、できるのだと、自分に言い聞かせている。

 私も同じだ。実妹ヒロインをこじらせた者から言えることは渚に幸せになってほしい、ただそれだけである。そうすると、むしろ渚の幸せは渚と兄以上の存在として一生一緒にいてあげることを誓うことではなく、正しく、兄離れさせてやることなのかもしれない。それが目的で香奈美と結ばれるというのは卑劣にすぎるが、香奈美ルートで、香奈美を前向きに愛する祐一の姿は、渚ルートと表裏一体に「いいお兄ちゃん」をしていると言える。

 そんな夢を見ていた。


ギャルゲー分人論

 ほとんどギャルゲー初心者といっていい私が『After…』をプレイして、気がついたことがある。

 プレイ中、私たちは主人公になる。主人公になって、攻略対象と向き合う。だがゲームとして決められたストーリーがある以上、(『After…』あるいは鬱ゲーに限った話かもしれないが)あるとき、プレイしている私の夢を壊すできごとに見舞われたときプレイヤーの手は止まる。このとき私にできるのは、先に進むためのボタンを押すか、いましばらく逡巡するか。たったこれだけである。私は主人公ではないのだ。このとき初めて、私は主人公ではなく私として主人公と攻略対象の夢を見ていたことに気がつく。

 主人公になったつもりの私が夢を見るのは当然だ。だって私は祐一ではないのだから。初めから分かっていたじゃないか。祐一が渚や香奈美に素直に想いを口にできないとき、いつだって私はばか祐一そこはそうじゃないだろとつっこんでいただろうが。

 なにより「実妹ヒロインゾンビ」として夢を見ている私はもはや、香奈美ルートの高鷲祐一と、同じ場所に立つことができるはずがなかったのだ。これはけっこうキツい気付きだった。

 ギャルゲーの、『After…』の魔性の魅力はここにある。これは他の媒体では決して体験できない「ゲーム」という媒体が生み出す異質な生の追体験である。さんざノベルゲーを敬遠してきた私にとっては本当に生まれ直すくらいの衝撃を受けた。ゲームで読み物? 面倒くさいなあと。面倒くさくて当たり前だ。だって人の生を請け負ってみるのがノベル「ゲー」なのだから。それもただ一度代行するのではなく繰り返し生き直すから「ゲーム」なのだ。

 そしてその恐ろしさはもうひとつ。私は、現在、香奈美ルート第二部の開幕時点でプレイをやめたところである。私が唯一、祐一に対して持っている権利。それはプレイを止めることだ。先に進むことを諦め、幸せな夢に浸り続けることが、私がたったひとつできる『After…』への抵抗である。

 あるいはまた、別の祐一になったり、やり直してみたりするのもいいかもしれない。規定の物語のなかでセーブとロードを駆使しながら、ときに時を止め夢物語に身を休める。ギャルゲーとは時空の制約を受けた箱庭の遊戯である。代償としてそのたびに新たな感情を、「分人」を、私は引き受けなければならない。それは単に感情が引き裂かれる痛みというのではなくて、主人公の新たな生を繰り返し生きるということであるから、この代償は、プレイ時間に見合わないなにかを私に残し、同時に奪って行く。

 香奈美ルートはお気楽な私に夢を見せてくれた。祐一と、香奈美と、渚。三人が、ただ穏やかに、幸せに過ごす日々を幻視させた。ありえないのに。分かっていたけど分かっていなかった。そんな私のことを第二部OP映像は何度も何度も執拗に殺し、目を覚まさせる。祐一となった私、祐一として渚と香奈美と過ごす私の「分人」をことごとくすり潰す。ギャルゲーの罪深さはいずれにせよ「ゲーム」に過ぎないところにある。自分に言い聞かせるといい。これは正史でないのだと。そもそも本編だって所詮ただの電子データじゃないか。できるわけがない。私のなかで渚と過ごした私はいまも生きている。瀕死だって生きている。もうなんだかよく分からない。なぜ私はこんなにも苦しみながらギャルゲーをやってるんだろう。分かっている。渚が可愛いからだ。祐一と渚が過ごした日々が尊いからだ。それでいいのだ。全部、本当の私である。『After…』プレイ後の私はもはやこの相反する私を抱えて生きるしかない、ただそれだけのことだ。心から『After…』には感謝と憎しみの気持ちでいっぱいである。いまはただそう振り返るのに、せいいっぱいだ。


おわりに

 結局、第二部OPでその後の渚がフラッシュバックした私はあらためて渚ルート第二部という死地に、向かう必要があると、そう感じている。まあいまさら一緒だ。もう何度死んだのか数えるのも馬鹿らしい。もともと落ち着いて「高鷲渚」というささりにささったキャラクターのことをちょっと深く考えたいくらいに思っていたころが懐かしい。いつかそんなふうに渚を思い返せる、平穏な私になれることを祈るばかりである。

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