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ある新聞記者の歩み 35 中日新聞の牙城で毎日新聞をとる読者とは?(中部本社の巻)

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー35回目です。記者稼業から一転、広告局で”紙面を売る“立場を味わった佐々木さん、こんどは中日新聞が圧倒的に“支配”している名古屋圏を担当する総帥として赴任しました。救急車で運ばれることもあった名古屋時代を振り返っていただきます。(聞き手:メディア研究者校條諭)

Q.広告局の次は、名古屋のお話ですね。佐々木さんは中部本社代表(役員待遇)ということで、1998(平成10)年6月から2000(平成12)年2月まで 2年間に満たない期間のようですが、名古屋におられたのですね。重役(取締役)迄今一歩というところまで、昇進されたわけですが。名古屋では何をされていたんでしょう。

いろいろと思い出はあるのですが、今の時期、元気な人も多いし、だんだん喋りにくくなる話が多いなあ(笑)。でも、非常におもしろかったですよ。駅前にあった名古屋本社ビルを作る 計画があった時代でしたし。

◆突然文章がうまくなった記者

まず、失敗談というか、いちばんの思い出を披露しましょうかね。これは公になってるからいいんだろうけども、名古屋の2社面(第2社会面)に、中部本社独自のコラムがあったんですよ。東京本社の夕刊社会面左下の名物コラム「憂楽帳」のようなコラムです。 400字か500字ぐらいかな。その時々の、いろんな記者が書くんだけども・・・。

そこに、編集局のある記者が、 数年前の(朝日の)天声人語を丸写しして、それがそのまま紙面に掲載された事件があったんです。

Q.たまにどの新聞でもそういうのが起こりますね。最近も毎日ではない大手紙やスポーツ紙で起こりましたね。

そうですね。あのとき後で聞くと、周囲の記者連中が、あいつ、なんか急に原稿うまくなったなったなって言ってたというんですよ(笑)。

Q.若い記者ですか。

いや、コラム書くんだから、デスクに近いキャップクラスの記者だと思いますよ。
そうしたら朝日新聞から指摘されたらしいんだな。どうもあれは何年か前の天声人語のコピーだよって。それで調べたら、まさにその通りなんですよ。それで、本人の処分をして、紙面でお詫びをして。それはそれで大変でした。

ぼくは一応紙面にも責任を持つ「中部本社代表」として管理責任を問われて給与10パーセントカットだったか20パーセントだったか、やられましたよ。3ヶ月だったか、半年だったか忘れてしまったけど・・・。単身赴任で、その当時、 家族の住む甲府と、僕の住む名古屋のマンション、東京の大学一年の長男の住む家の3つ、全部借りていた。4人の子供たちは高校の学資、大学入試、大学の学資でしょ、一番金がかかる時期。だから、10パーセントカットっていうのはきつかったなあ。

今でも新聞見て、時々、企業の不祥事で担当役員減給何パーセントだとかいう処分の記事見るじゃないですか、あれ効くんだよね(笑)。でもぼくと違って子供が少ないから問題ないか(笑)。

Q.同じ10%でも、元がたくさんの人はどうってことないいう気もしますが・・・。

今は一流企業の役員クラスは一億円なんてザラだから、平気だろうけどーーー。それはそれで効くんだろうと思いますよ。だって、月収1000万円くらいだったら100万でしょ。個人的に年間の子供の学資、老後資金などいろんな資金計画をやってるわけだから、とん挫するわけよね、途中で。それはそれで影響あるんで、毎日新聞だから、その当時、他社に較べて給料少なかったけども。中部代表ってどれくらいもらってたかな。月収100万円位かな。だから、10万から20万円ぐらいカットされるわけ。だから、ちょっとそれは大きかったですよ。

Q.処分は管理職まで含めて何人かっていうことですか。

そうそう。書いた記者本人、それを通したデスク。直属の部長と編集局長と、それからトップのぼくということです。

◆名古屋で中日新聞以外をとる人って?

Q.名古屋というか中部地方は中日新聞の牙城ですよね。

中部本社のエリアっていうのは、中日新聞の天下なわけですよ。それで、その当時、ネットなんかまだ曙の時期だから、その影響はなかったんですが、とにかく名古屋の市内で、住宅街で中日新聞以外を取ってるっていうのは、変わり者みたいな感じなんですよ。その配達した人を見てて、昔、東京都内で新聞配達員の間では「産経インデアン」って言ったんだって。これはいわゆる不適切な言葉ということになるんだろうけど、まあ事実としてそう言ってました。

中日新聞 (左から)名古屋本社、浜松本社、北陸中日、県民福井
東京新聞も中日が発行

どうしてそう言ったかというと、西部劇華やかなりし頃を思い出せばわかりますが、1軒ポストに入れると、 (アメリカ)インデアンがホウホウホウ!とか叫んで、馬に鞭を入れ騎兵隊をやっつけて走っていって、次に行くわけです。次の家の配達までね。朝日、毎日、読売なんてのは1軒おきか2、3軒おきぐらいに、さっと配っていくんですが、産経はそんなことないわけです。10軒か20軒おきか、必死に自転車をこいで30件軒おきぐらいに1部ずつ配っていくから、産経インデアンって言っていたというんですよ(笑)。東京都内の販売店はそういう時期があったんだそうです。

そういう意味では、名古屋では本当「毎日インデアン」だったですよ。でも今や各新聞ともネットメディアに押されて、そういう状況ではないですかね。

Q.なるほど。西部劇自体は偏見に基づいていて少々問題があったとは思いますが、意味はよくわかりますね。新聞の部数が年々減っている昨今では、東京でも同じようになってきているようが気がします。
名古屋で毎日の専売店はどのぐらいあったんですか。

専売店はどうだろうな、駅前にあったし、 とにかくけっこうあったにはあったですよ。名古屋市だけでなく名古屋圏ということで愛知、岐阜、三重の3県。大都市では専売店といっても日経も取り扱ったりなんかしてましたね。

当時、駅の南、中村口っていって、華やかな方じゃなくて、 予備校かなんかがある方の販売店主の家にときどき行ったりして話をしたことがありました。
 
中村って昔の遊郭のあったとこです。中村遊郭って、名古屋では有名なとこなんだけども、その遊郭の建物がそのまま残ってて飲み屋や料亭みたいになってるんですが、2、3回行ったことがありますよ。 ああ、こういう風になってるのかと思いました。遊郭なんて上ってみたの初めてでしたから。

そこら辺に、単身赴任のマンション・アパートなんかがけっこうあるんですよ。で、その当時からね、そこの販売店の親父が、アパートの20軒ぐらいのうち、中日新聞含めて新聞をとってる人がどのくらいあると思うかってぼくに聞くわけ。うん、そりゃ 7割位だろうって答えたんだけど、あの頃ですらたったの2割っていうんですよ。おそらく単身赴任であったこともあるだろうし、それから、アパートの住人はそんなに給料も高くないのでとれなかったってこともあったでしょう。テレビを朝見てりゃいいということだったんでしょうね。その当時でもね、

Q.そのアパートは若い人ですか。それとも単身赴任?

若い人と単身赴任との人とごっちゃでしたね。単身の女性は絶対新聞を取らないですよ。

◆駅前ビルとホテルで存在感

ただね、名古屋では毎日新聞は、割と存在感があったんですよ。どうしてかというと、まず駅前にビルがあるじゃないですか。毎日ビルっていうのは戦後の昭和26、7年ぐらいに作った8階建てビルですが、駅前の象徴的なビルで、名古屋のランドマークの1つだったんです。それでかなり有名だったっていうこともあるし。

旧毎日新聞中部本社ビル 社史『毎日の3世紀』(2002年刊)から

それと名古屋城の近くにある「名古屋キャッスル」というホテルがあったんですよ。これ毎日新聞が事実上持ってました。で、名古屋キャッスルっていうのは名門で、名古屋の財界だとかなんかがパーティーをやるんです 。金のしゃちほこの名古屋城が見えるすぐそばにあるんですよ。だから、泊まる時は名古屋城の見える方の部屋が高かったりするわけです。当時は社長も毎日から出てたんですよ。そしてキャッスルの支店ホテルってのが駅前にもありました。

だから名古屋の財界人だとかは毎日新聞をひいきしてくれてる人はけっこういましたよね。いたけど新聞を取ってるとはとても思えなかったけどね(笑)。

そのキャッスルっていうのは経営的にも割と順調だったんですよ。その時、キャッスルの社長の給料っていうのは、月額250万ぐらいあったんだよね。ぼくよりも断然いい訳だから。そういう意味じゃ、毎日新聞はいいポジションにあったわけですね。

Q.キャッスルの株式構成はどうだったんですか?

あの当時、所有株は50パーセントは超えてたと思いますよ。今はどっかに売ったはずだな。ウェスティンホテルに一部。毎日は持ってるはずだけども、多少はね。だから、ウェスティンナゴヤキャッスルとかなんかになってるんじゃないかな。存在感はあったですね。

Q.ちょっと調べると、今はウェスティンが取れて、ホテルナゴヤキャッスルのようです。

◆丸八会とは

なるほど。あと名古屋にいた時の思い出としては、「丸八会」ってのがあったんですよ。毎月一度市内のホテルで講師を呼んでの勉強会、その後の懇親会。さらにその後の市内の繁華街にある有名なバー「棗(なつめ)」での飲み会。これらについては歴代の中部本社代表が顔を出していましたので、交際費で落としてくれていました。東京から来た政財界人の接待は必ずここでしたね。僕も政治担当の頃、担当だった衆院議員の森喜朗に出くわしたことがあります。「なんでお前こんなところにいるんだ?」といわれましたよ(笑)。

「丸八会」は、これは地元の経済人と、東京から来た転勤族のトップ、新聞社とか、銀行だとか、保険会社だとか、 そういう人たちが入って、何人ぐらいいたのかな、おそらく名簿上は 200人か300人ぐらいいたんじゃないかな。だから 転勤族の支店長、支社長クラスにとって、名古屋で顔を売るにはいちばんの会なわけです。この会のおかげで他産業の人との繋がりっていうのができたり、いろんな話を聞けました。

日経の堀川君っていうのが、 東京の編集局長から名古屋の代表に来たんです。で、ぼくはそこで仲良くなりました。経済部長の時も一緒だったし。そういう人たちと飲んだりなんかしたりしました。 それから、ぼくが親父の転勤先について行った長野の付属中学の時の同級生の女性が、地元のちょっと有名な財界人の奥さんになってたりしてね。

名古屋に山田君っていって、中部本社の広告局長やってた 名古屋生まれの名古屋育ち、人がよくて、この人はものすごく名古屋の経済界に深く食い込んで、 流ちょうな名古屋弁で名古屋一筋の人で、人気者でした。で、その人がいろんなところに連れてってくれたり、人を紹介してくれたりしてすごく助かったし、今でもたまに電話で話したりすることもありますよ。彼なんかから、伊勢湾台風(昭和34年9月、死者・行方不明5千人、明治以降最大の台風)のときのすごさを聞いてます。

信長が名古屋城を作る時にね、名古屋港から、丸太を運ぶために掘削した堀川があるわけですよ。 僕はそこのほとりのマンションにいたんです。会社からあるいて30分程度でした。その川のほとりに材木屋がたくさんありました。伊勢湾台風の時に、そこにあった材木が高潮と風で流されて大暴れして人を殺すわけね。人がそれにぶつかって死ぬんですよ。ちょうどその山田君の家が、海岸近くの「桑名の渡し」っていうところの近くにありました。東海道の名古屋から桑名へは、それで渡ったわけです。そこに伊勢湾台風がここまで来ましたよっていう石碑があるんですよ。その石碑を見ると、ぼくの背よりもよほど高いようなとこまで高潮が来てるんです。 だから、台風のすごさっていうのが、彼ら記憶としてすごく持ってる感じがありますよね。

Q.なるほど。そもそも丸八会の八ってのは何から来てるんですか。

多分 名古屋の市章じゃなかったかな。そんなことがあったりして、そこでいろんな人と繋がりができました。

注)尾張徳川家が合印として使用した「〇に八の字」印に由来し、1907年(明治40年)10月の市会で名古屋市の市章として決議された。名古屋市会史には「徽章の丸は無限に、円満に膨脹する力を象徴し、中の八は支え拡がる形であり、発である。(名古屋市観光協会)

Q.名古屋というと五摂家を思い出します。松坂屋、東邦ガス、名鉄、東海銀行、中部電力ですか。その各社の人たちは、この丸八会には当然入っていたんでしょうね。

もちろんそうです。懐かしいなあ。新しく転勤で来た支店長、支社長連中、 などが、そこで名古屋の財界人と名刺交換できるという、唯一の場だったんじゃないかな。

◆中日新聞の厚い壁

あっ、パソコンで見ると名古屋キャッスルが営業終了って書いてある。営業終了か!「名古屋城近くの名門ホテル名古屋キャッスルが2020年9月30日、老朽化による建て替えのため営業終了した」と書かれていますね。

Q.コロナ禍が始まった年ですね。

昭和40年代から営業して。ほかの多くのホテルと違って、要人が宿泊するときに、キャッスルだと窓から名古屋城が見られるというのが強みでした。それで、より高級なホテルをっていうことですね。社長は歴代毎日新聞から送られれていました。
注)現在の親会社は興和株式会社。2025年に「エスパシオ ナゴヤキャッスル(仮称)」をオープン予定。1拍100万円以上の部屋もあるとのこと。

ある意味で、毎日新聞が名古屋でステータスを持っていたのは、駅前の「毎日ビル」と名古屋キャッスルを持ってたからかもしれないです。終戦後、間もない頃、毎日新聞の名古屋代表が駅前のビル、名古屋キャッスルを建てるんですよね。毎日新聞に勢いのあった時代ですよね。

Q.それは、名古屋の経済界においてという意味ですね。読者にとってもそういう面はあるのでしょうか?中日ではなく毎日をとるということに関して・・・。

どうだろうキャッスルホテルは確かにお城の直ぐそばで眺めもいいし、名古屋市内での存在感はあったと思います。それが新聞の販売部数につながっていたかは、何とも言えませんね。

Q.他の朝日とか読売の存在感はどうだったんですか?まず中日がどーんとあるんですよね?

新聞としての存在感は東京と同じですよね。中日の次に朝日があって、読売は名古屋進出が遅れて昭和50(1975)。不当廉売事件で騒ぎとなるが、それまでは中日、朝日、毎日っていう感じかな。読売は朝日、毎日を集中的に攻撃、シエアを奪ったという感じじじゃないかな。中日の牙城っていうのは、そう崩せるもんじゃないですからね。だから、東京圏周辺に 読売がどんどん進出して、地元紙を食ってくっていう風な感じとは、ちょっと違ったんじゃないかな。うちがあの時どのくらいだったかな。東海三県で20万。それが現在は10万部ぎりぎりですかーー。中日は200万部を超えていますから。毎日は勝負にならない感じでしたね。ただ確か、東スポも印刷したし、スポニチも印刷してたし、他の商業印刷もけっこう取ってたりしたはずです。そんなに赤字を垂れ流す体質ではなかったと思いますが、経営的にはなかなかうまくはいかなかったなあ。

Q.中部本社代表としては、そういう新聞以外の収入源っていうのをかなり意識して 取り組まれたのですか。

いやいや、本来はなんかやるべきなのかもしれないけども、それは反省点だけども、やってはいないです。でも、あとから行った(中部本社)代表なんかが、「毎日フォーラム」みたいのやって、経済人集めて、月1回、東京から有名人や政治家なんかを呼んで、講演をしてもらうってなことはやってましたね。そういうことで、毎日新聞の知名度を上げていくっていうことでしょうね。

◆JRより1メートルでも高いビルを!

Q.中部本社のビル、古い方のビルですか、 そこにはテナントが入っていたのですか?

テナント入ってました。トヨタもけっこう入ってました。駅前だから便利だし。ビルは、それなりの収益率の高いビルでしたね。だけどなにせ終戦間もないころに建てられたビルでしたから。近隣の新しいビルに見劣りはしますよね。

Q.立て替えの計画は、 佐々木さんよりも後になってからですか?

ぼくの時は、都市計画について、市との交渉とか県との交渉とか、そういう段階でしたね。トヨタの資本が入っていましたが、うちが7、8割は底地は持ってたはずですよ。でも、それをトヨタに50パーセント渡すんです。それで、その渡した金額で、毎日は新ビルの建設資金を作るという形だったと思います。だから、トヨタの人とはけっこう、いろいろと話し合いの席があった記憶はありますよ。だけど、まだビルのデザインをどうするとか、何階建てにするかとか、なんていうところまでは行ってない時期でした。

その前に、JR東海が名古屋駅の立て直しで、46階のセントラルタワーズビルという名名古屋一の高いビルを作りました。あれに刺激されて、毎日も高いの作んなきゃいけないということになって。で、今から思うと笑っちゃうんだけども、JRよりもね、1メートルか2メートル高いんですよ、ミドッドランドスクエアー(笑)。なんかその屋上の上にビアホール作って、掘っ立て小屋じゃないけど、それでなんとか高さを抜いたという風な感じです(笑)。今、ビル自体はほとんどトヨタになってるんじゃないかな。

5,6年前かな、岐阜大学医学部教授のリベラルアーツの講座に呼ばれて講義をしたことがあるんですが、岐阜からの帰りに初めて女房と一緒にミドッドランドスクエアーの47階の屋上に上ったんですよ。周囲は高層ビルだらけで、ビックリしたけど、「ここで仕事をしていたんだ」と感慨深いものがありましたね。

毎日新聞中部本社の入るミッドランドスクエア (毎日ビルディングホームページから)

それで、毎日の本体はまた近くのビルに越したですよね。思い出したけども、ぼくが行った後に、具体的に計画が動き出して。さっき話した、ぼくが マンションに入ったっていうところ、名古屋城まで材木を運ぶ、堀川。堀川沿いに日本経済新聞名古屋支社がありました。両側が材木屋でね、 なんとなく華やかじゃないんだよね。それで、日経は3階か4階建てぐらいのこじんまりしたビルだったんですが、それが繁華街の栄(さかえ)の一等地に移るわけです。8階建てか9階建てのビルを栄の通りに面したいいところに立てるわけですよ。それをやってたのが、 堀川君、東京で同じ頃に経済部長やってた人です。彼は名古屋大学出身でした。 彼がその計画なんか作ってたりしてました。

Q.ホリカワのホリカワさんですか?!(笑)。

そうそう(笑)。で、ぼくが名古屋を離れてから、具体的に毎日新聞の建設計画が明らかになって、毎日新聞の昔のビルを潰すとなった時に、日経のビルを借りるんですよ。臨時社屋みたいな形になったわけです。だから、その堀川に移る話は確か堀川君と話をしたと思うな。

◆煙もうもう浴びてきた名画が2千万!?

思い出したけど、戦後一世を風靡した抽象画家猪熊弦一郎っていう画家がいますよね。出身地の四国丸亀市には個人美術館もあります。

Q.そうですか。いえ、知りません、不勉強で・・・。

ぼくが名古屋の代表にいってまもなくなんだけども、代表室に猪熊弦一郎作って書かれた大きな絵があったんですよ、中部本社の会議室に。我々の世代ではかなり有名な画家で、やや前衛風の洋画でした。それで、調べてみると、昭和30年代に 名古屋の名鉄デパートで、毎日新聞主催の猪熊弦一郎展っていうのがあったんですよ。その時、猪熊弦一郎さんが中部本社に、お礼であの絵をくださったと伝えられていました。

あと、なんだか知らないけど、当時、有名な洋画家の小磯良平とか向井潤吉などんの絵画が、ゴロゴロしていました、会議室や役員室に無造作にかけてありました。小磯良平は文化勲章を受賞しました。あの頃だからみんなタバコ吸って、煙がもうもうでヤニがついて、何十年もそんな状態でした(笑)。

あるとき、ぼくは、これはもしかしたらすごく高いものかもしれないと思って、テレビ東京の「なんでも鑑定団」ではないですけど一度見てもらおうってことにしたんです。それで、東京・銀座にある日動画廊の名古屋支店の人を呼んで鑑定してもらったんですよ。そしたら、猪熊弦一郎の絵がね、なんと1000万だったか2000万円の鑑定額がついたんですよ、みんなびっくり仰天ですよ。

戦後、新聞社が隆盛の時代、画家たちが新聞社主催の百貨店などで展覧会やるたびに、感謝の意を込めて主催者である新聞社に絵をプレゼントしたんだね。

あと、陶芸家の人間国宝・加藤唐九郎さんの壷がありました。 そういうのも全部見てもらったんだよね。 するとその中に名古屋の本社ビルを描いた絵があるわけ。外観ですね。おそらくビルができたあとに プレゼントされたんじゃないかと思うけども、よくわからないんですけどね。それで、調べてもらった結果は50万とかなんかって言われたけど、中部本社とか建物を描いた絵は安いんですねえ。だけどもその猪熊弦一郎なんかはとにかく高いってわけです。これは大変な事ですよって、みんなびっくり仰天して、もう本当に猫に小判みたいな話です(笑)。あれどうしたかな。倉庫に入れたんじゃないかな。

その後、ぼくは、日経の堀川沿いの旧社屋に毎日新聞の中部本社が移転したところにいちど行きました。そうしたら玄関に、その猪熊弦一郎の絵がガラスケースに入って飾ってありました。でかいんですよ。そこに、なんか説明まで書いてあって・・・。 だから、当時の、昔の新聞社ってのは、なんていうのかな、 すごい力あったんだなあと思います。

あらためて思うけど、歴代の代表だとか、偉い人なんか、みんな、それ自分のものにして持っていったりしなかったんですね。それはそれで大したもんだよね(笑)。もちろん、絵の台帳ってのが、ちゃんとあるにはあるんだけど、もし なくなったって誰も追究しないわな(笑)。

Q.画商に売ってしまうっていう発想はなかったんですか?

売るとなると、今度はまたいろいろと、本社との折衝だとかなんかってのがあるから。たとえば、東京の毎日の社長室には、横山大観の富士山の絵がありますね。それとフランスの有名な抽象画家のフォアン・ミロの日本語で書いた「祝 毎日八十周年」だったかなと書いた絵があったりします。ミロ展を日本で開催した時だと思います。

先日、ある美術愛好家から「毎日新聞本社にはミロの日本語で書いた絵があるんだって?」と聞かれたことがあります。オークションに出したらどのくらいするんだろう、見当もつかない。
社長室の入口には、舟越保武が制作した新聞少年の像と少女像があります。王子製紙なんかが贈ったんだと思うんですが・・・。

今、ちょっと思い出してきたけども、あの当時、中部本社の催しとして、冬に岐阜で女子駅伝ってのがありました。実業団女子駅伝。そのスポンサーが運送会社大手の西濃運輸で、田口さんっていう社長なんだけども、また今年もよろしくお願いしますって、本社がある岐阜の大垣までぼくと広告局長の山田君があいさつに行きました。半沢直樹のドラマのセットじゃないけど、 エントランスから大きな階段があって、階段の手前にでかい女性の彫刻が2、3体飾ってあるわけ。見た瞬間、舟越保武だってわかったんですよ。

舟越保武ってのはご存知ないかもしれないけど、カトリック信者の彫刻家で長崎の二十六聖人なんか作った、文化功労者にもなった、多少有名な彫刻家なんですが、ぼくの母の妹の亭主なんですよ。 

それが、とにかく売れなくて大変だったんですね。 で、うちの親父(元毎日新聞記者)なんか、サンデー毎日の表紙なんか描かして、お金出したりしてとかいろいろありましたよ。西濃運輸に日野自動車が車を納めていたことがあって、日野はお礼として、そういう彫刻を贈ったんでしょうね。絵とか、彫刻だとか、そういう芸術家の人の作品を贈るわけですよ。キャッシュじゃいくらなんでもまずいわけです。それで、西濃の田口さんに会った時に、開口一番、「階段の下にあるのは、あれ、舟越保武の彫刻ですよね」ってぼくが言ったら、「あなた何で知ってるの?そんなこと言う人初めてですよ」って言われましたよ。

おそらく1体何百万円とかするんでしょうね。それを日野自動車が買い上げて贈ったんでしょう。日野自動車がなんで舟越保武を買い上げてるかっていうと、日野自動車の副社長までやった岩崎さんって人のお宅がぼくの杉並の家の前だったんです。多分それで岩崎さんに紹介したんでしょうね。

まあ、そんなこともあったんだけど。それで、なんか 今度の名古屋代表はちゃんとした芸術もわかる人だと言われて(笑)。田口さんとわりと仲良くなりましたけどね。だから、美術なんかもわかるっていうのもひとつ得するよね。

今はちょっと体が不自由になったからあまり出かけないけど、美術展っていうのはよく見てましたね。それで、自分でも前衛画買ったりなんかしてたから。で、そういうのは割と好きだったから、多少目利きはできるんですよ。雑学も役に立ちますよね、新聞記者には。

◆中部本社独自の紙面編集は?

Q.中部本社版の1面とか、前の方は大体東京とそっくりでよね。中部本社独自の編集ページっていうのはどのぐらいあったんですか。

社会面と、それから地方版の見開きのページかな。その辺は全部 名古屋本社で自由に書けました。岐阜も三重もみんな必死になって原稿書くから、それはそれで 埋まりますよ、特色ある原稿でね。以前騒ぎになった名古屋での国際芸術祭の慰安婦像展示問題と河村市長の対応、大村知事のリコール運動なんていうのは、 全国通しの1面に大きく載るわけ。

東京ではわからないけども、名古屋で毎日新聞の紙面を見ると、全国ニュースとしての流れが分かるっていうことになるんじゃないでしょうか。

Q慰安婦展示の問題が名古屋の1面には他本社紙面より大きく出るということでしょうか?それとも、東京と同じように載るので、全国ニュースとしての扱いがわかるという意味でしょうか?

もちろんた他本社面より大きく扱うけど、社会面などで詳しく「市民の声」を載せるなどかによってその記事の社会的な意味が分かるという事ですよね。
Q.基本的にはそうでしょうね。あと、くらし面というか、昔は 家庭面っていうんですかね。「女の気持ち」とか、オピニオン面の投書なんか、各地方本社の独自のものと、東京と共通のと、両方 、まざっているように見えますが。
そうですね。それはある程度そういうところは配慮しますよね。ただ、さっきの天声人語の真似の話じゃないけども、そういう部分ていうのはなかなか難しいところがあります。それと絶対的に投書数が少ないということがありますよね。通常いわれているのは、読者からの投書は1万部について1通といわれていますからね。

Q.それはどういう背景からですか。
中央紙っていうのは、結局、ニュースの中心地・東京が、割となんでもかんでも作っちゃうじゃないですか。それで、名古屋は結局 あんまり“侵略”できないというかね。というのはありますよね。編集局長は大阪から来た人で、神谷君ていって、非常にできた人だったけど、彼なんかはそこのところで非常に苦労してましたね。

◆名古屋土着の記者

それと、記者がどうしても、支社全体で名古屋出身者が多く、各本社間の人事交流が流動的じゃないんです。名古屋にいてもう何十年っていう人が多いんですよ。今はどうか知らないけど、いい記事書いても、 なかなか全社的な評価っていうのに繋がっていかないようなところがあるんですよね。だけども、東京への転勤というのもあるにはありますけどね。だから、ぼくはもう、基本的には編集のことは編集局長に任せて、むしろ収益を上げるために、広告局といっしょになって、いろいろやるというところに力を入れてたような気がしますね。

あと、これはぼくも失敗はしたんだけども、販売の 増強計画をいろいろとやるんだけども、それがなかなか実現できませんよね。資金もそんなに潤沢に回ってくるわけじゃないし、 販売店の力自身もそう強いわけじゃないからね。だから、絵に書いた餅みたいな感じになって、後で中部本社の組合の交渉で、後任の代表が、佐々木代表がやった販売政策を総括せよとかなんか言われて閉口したみたいでしたけど(笑)。

Q.東京本社での会議みたいなものがあって、もっと成績を上げろとか、背中を叩かれるような、そういう雰囲気ってのはなかったんですか?4本社の代表会議みたいなのはありますか?

4本社代表会議っていうのはなかったですね。

Q.すると、たとえば、他の本社の動向とか実情みたいなものを知る機会ってのはあんまりなかったんですか?

そうですね。販売とかなんかっていうのは、たとえば大阪なんかとはまったく違いますからね。とにかく、絶対的な強さの中日新聞 に対抗するには、小回りの効いたことをちょこちょこっとやるしかないという感じでした。でもそこは全国紙で、全国の実業団女子駅伝競走なんかをやっていましたね。春夏の高校野球、囲碁、将棋のタイトル戦などは当時は地方紙はほとんど関与できなかったですよね。

Q.名古屋で毎日新聞を取る人っていうのは、中日との併読が多いのか、それとも 独自の読者が中心なのでしょうか?

併読が多いでしょうね。 新聞の値上げをすると切られます。それは北海道でもどこでも同じですよね。それこそある北海道の親戚の家なんですが、ぼくが毎日新聞時代は毎日と地元紙とってたけど、ぼくが退職したら地元紙だけになっちゃって(笑)。でもね、ぼくもたとえば札幌に住んでれば道新(北海道新聞)を、長野にいれば信毎(信濃毎日)を見てないと、取材先で話にならないでしょうね。取材記者の数、通信部の数など圧倒的な差ですからね。

Q.地元のニュースもそうだし、広告とかチラシなんかは大きな差がありますよね。

大きいというか、もうとにかく月とすっぽん。名古屋にいた時、ある販売店主から「中日新聞をとっていないと、近所から『あそこの家は変わり者』といわれる。毎日新聞を取ってもらうのは大変ですよ」という話を聞きました。今はどうなんだろう。
年間、今だったら年間(購読料として)5万円ぐらい払うでしょ。この物価高の中、大変だと思います。ネットの普及と物価高のダブルパンチ。まだまだ全国の新聞販売数は落ち込むんじゃないのかな。

Q.そうですね。中部本社は昨年(2023年)夕刊をやめたので、朝夕刊セットの場合の月額4,900円より安くて、月額4,000円ですが、それでも年にすると48,000円です。

それに見合うあれがあるかっていうと、なかなかっていう感じはしますね。僕なんかは活字人間で育ってきているから、きっても切れない関係ですが、 それと物価高、だから、ネットに行くのは無理はないわな。

Q.それでも中部本社での何万部かずっと出てるわけだから、それは面白いですね。

そうそう。根強い毎日ファンってのはいるんですよね。

Q.たとえば、東京で毎日新聞を取ってた人が転勤で 名古屋に行くと、中日じゃなくて、毎日をとったりするのかなというイメージがあるのですが・・・。

どっちかっていうと転勤族だったらその方が多いかな。中日は会社行って見りゃいいやとかね。読み慣れた新聞を引っ越し先でも読むっていうのはあると思います。だけど、なかなかその辺のところっていうのは、地方紙の牙城っていうのは、特に中日なんか見てると、中日とってないとその地域で村八分みたいな感じでしょ。

Q.名古屋で日産のクルマに乗れないみたいな。

そうそう、うまいこと言うなあ、それと同じですよね(笑)。とにかくトヨタ本社に行く時は、必ずトヨタ車で行きましたからね(笑)

◆救急車で運ばれた!


そういえば、ぼくはね、名古屋で救急車で運ばれたことあるんだよね。

Q.そうなんですか。それはまたどうして?

ストレスですよ。ちょっと事情は言えないんだけど、刑事事件にもなりかねない印刷工場での社内的な問題でちょっとストレスがあってね。連日会議で、本社にどう報告するか、などで大変でした。それで会議中、突然ヒドイめまいと吐き気がして、事務室でぶっ倒れちゃった。ビルの中に毎日ビル医院みたいな、毎日新聞専属の医院があるんですよ。そこに運び込まれて、それから救急車で、名古屋大学病院まで運ばれたことなんてことがありました。結局、一種のメニエル病みたいな感じなのかな。立ちくらみっていうのかな、吐き気もひどかった。

Q.まわりがぐるぐる回ったりする感じですか?疲労が蓄積したり、ストレスがあったりする時はなることあるみたいですね。

そういう感じですね。立ってられないぐらいの感じ。名大病院の診断で、医者の診断は「良性発作性頭位めまい症」ということでした。後で友達に話すと、「おれもやって救急車で運ばれた」という人がいてビックリしました。でも会社で倒れるとろくなことは無いね。情報が流れるのは早くて、「佐々木がぶっ倒れて名大病院に入院したようだ。もう役員の目はないな!」(笑)なんて噂話が本社内で流されて大変でした。事実でしたがね(笑)。

そんなことが起きた頃は、次男がいっしょに住んでたんですよ。多少のいきさつがあって、あるときから名古屋に来て、大学を受け直すというので、駅前の河合塾に通ってたんです。長男は東京にいるわけ。女房とあとの2人は甲府にいて、財政的には、名古屋の時は大変でしたよね。よくしのいだと思うけどね。ただ、単身赴任だったところに、息子が来たので、いろんなものを食いに行ったり、なんか面白かったですがね。

倒れたときは、女房も駆けつけてきました。でも、幸い入院したのは一泊だけだったかな、治りました。まあ、名古屋は短い期間だったけど、いろいろ浮かんできます。                    (完)