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ある新聞記者の歩み 3 スーパー・量販店の成長前夜、記者人生一の大特ダネ

経済部時代(1)家電販売店主会に潜入してエイエイオー!

佐々木さんは、水戸支局に5年いて、1970年(昭和45年)5月に経済部に移りました。27歳のときでした。

Q.そのときはご結婚されていたのでしょうか?
「いえいえ、ぼくは結婚が遅くて、35歳のときでしたから。」
Q.では、あとでそのいきさつを詳しくお聞きしたいです。
「あはは(笑い)、本当はノーコメントといきたいなあ。いずれゆっくり。話しましょう。ビックリしたのは、あなた(インタビュアー・校條諭さん)と女房の妹と高校のときの同級生だったという関係があることが分かったんで逃れませんね。」

◆5年ぶりの東京 意気上がる経済部に配属

「東京に5年ぶりに戻ってきて、会社のある竹橋の周りを歩いた時、お堀端の柳の木が目に鮮やかな新芽を吹いていたのを見て、「ああ東京に戻って来たんだなー」と感慨があったことを記憶しています。
 東京という日本経済の中心地で“経済”を取材するんだ―という武者震いというと大げさですが、緊張感があったことは確かですね。
竹橋の本社ビルの4階の編集局にある経済部に配属になりました。でもビルのフロア全体が編集局で、支局の何十倍もある広さに“本社”を実感しましたね。
そのころ毎日新聞の経済部は、2年前に「八幡製鉄 富士製鉄合併」という“世紀の合併”をスクープして一面トップに掲載、それが新聞協会賞を受賞するなどしていたので意気軒高、外からの評価は高かったと思います。「俺もやるぞ!」という気持ちがあったと思いますよ。
最初の1,2週間は経済部のデスクに座り、「今度水戸支局から来ました佐々木です。よろしくお願いします」とあいさつをしながら、出先記者からの電話による原稿取りをしました。新米の「経済部記者・佐々木宏人」のオリエンテーションという感じでしたね。
 原稿取りというのは、官庁などの記者クラブに貼りついている先輩記者が、電話で簡単な記事を送稿してくるのを、ザラ紙の原稿用紙に一枚2行(当時の紙面の記事は一行15字)書いていくのです。今はパソコン送稿なんでしょうが、どうしてるんでしょうね。」

◆経団連記者クラブの“新人養成所”機械クラブで電機担当に

「そのあと、配属先が決まりました。僕は大手町の経団連ビルにある「経団連記者クラブ」の配属になり、家電・機械担当で図師三郎さん(後に吉備国際大学教授)というキャップの下につきました。
 図師さんは原稿の上手い人でした。時事通信から移ってきた人で、ほかにも東京新聞からの人など2,3人他社から来た人がいました。というのも、当時、他社に先がけて経済面を2ページに拡大して、新経面(新経済面)というのを新設して、民間企業の動向を主に扱うというので人材をスカウトしたわけです。当時、毎日新聞にはそれだけジャーナリズム業界からの誘因力があって、ブランドイメージが高かったんでしょうね。
 図師さんはのちに毎日新聞が出している「エコノミスト」誌の編集長になりました。ほかにも、後に経済部長になる東京新聞から移籍した山田尚宏さん、日刊工業新聞からの小島徹さんなどもおられます。他社の人から、毎日新聞は偉いねスカウトした人材をチャント使っている―といわれたこともあります。その意味で風通しの良い自由な気風がありましたね。」

「経団連記者クラブに配属ということになって、その中の「機械クラブ」というところに身を置くことになりました。東京駅から歩いて10分程度の大手町の経団連会館の1階でした。私は当時、地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅近くに住んでいましたから、同会館目の前の大手町駅下車で片道45分程度の通勤でした。担当業種は電機、自動車、財界という3つの担当にわかれていて、私は電機担当でした。会館の3階には、化学、鉄、繊維業界を担当する重工業クラブ、5階には電力業界、石油会社などのエネルギー産業を担当する電力記者会(現エネルギー記者クラブ)クラブがありました。自動車担当、機械担当にはキャップが各1人いて、それぞれ新人を1人か2人預かっていました。」

「経団連1階の機械クラブは、地方支局からあがってきた新人を養成するクラブでした。財界担当の記者が“校長先生”で、民間担当キャップといって経団連会館にある記者クラブ全体に目を光らせていました。私の時は昨年亡くなられた佐治俊彦さんでした。佐治さんは、その後毎日新聞が倒産の危機の際、活躍されて新旧分離という荒業で危機を乗り越えた立役者の一人で、専務にもなりました。ワシントン特派員帰りで永野重雄、中山素平などの財界人に食い込み、文章も上手く、あこがれの存在でしたね。」

◆先輩や他社の記者と屋台で交流

「壁に向かって長細い経団連記者クラブの机で原稿を本社に送ったあと、夜の9時頃、夜回りもないときは、経団連会館の隣にある日本経済新聞社の前のビルの谷間に出る、バンタイプの自動車の屋台に立ち寄り、各階にいる先輩記者たちとよく飲み議論したものです。各社の担当者や日経の記者とも、ビールケースの箱に座り席を同じにしたこともしょっちゅうでした。またクラブの休憩室にはマージャン卓があり、キャップクラスが良く卓を囲んでいました。取材のコツがわかり始めたころ、気が付くと私も参加していました。
 また丸の内ホテルが近くにあり、そこがシンガポール航空の定宿になっていました。乗務員がよく顔を出していました。きれいなスチュワーデスとは片言の英語で話して楽しかった思い出もあります。」

◆カラーテレビの販売競争にあけくれる家電メーカーを取材

「私が電機担当当時は3種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)という言葉がありました。1970年は大阪万博が開催されており、高度成長の消費ブームに沸き立っていたころですね。特にカラーテレビは一家に一台の時代に入りつつありましたから、販売競争は激しいものがありましたね。」


「この取材はすごくおもしろかったですね。当時は、東京オリンピックのあとで、ちょうど70年くらいが白黒テレビからカラーテレビに主役が移った頃でした。それで、浜松町にあった松下の東京支社とか、東京駅から有楽町駅に沿った形の“三菱中通り”を中心とするビル街周辺に電気メーカーが軒並み並んでいたんですよ。丸ビル内にあった日立製作所、三菱仲通りの三菱電機、三菱重工業、富士電機、そのころ黎明期にあったコンピューターメーカーの富士通など順繰りに取材に行ける位置にありました。そして東芝は有楽町数寄屋橋交差点角の東芝ビル(現東急プラザ銀座)に、松下電器(現パナソニック)東京支社は浜松町、NECは田町、ソニーは品川で少し離れていました。」

◆スーパーの台頭で起こった二重価格問題

「そのころカラーテレビが毎年百万台近くも出て、家電メーカーの大きな収益源になっていました。それで二重価格問題というのが起きたのです。松下がいちばんシェアが大きくて、価格のリーダーシップを持っていました。16インチくらいのカラーテレビの正価が10万円くらいでしたかね。松下はそれを絶対くずさなかった。ところがその時期、関西から台頭してきたのが価格破壊と言われたスーパー「ダイエー」でした。東京には安売りの城南電気(98年廃業)もありました。それらが8万円とか7万円、5万円というような値段で売るようになりました。どうも松下などの販売店がウラでスーパーに回しているといううわさでした。それに対抗して松下を筆頭に、メーカーは製品に秘密の番号を付けるなどして、ダイエーなど量販店に横流しするのを防止ししてつぶそうとしていました。なんとかメーカーは正価を守ろうと必死でした。」

「それに対してダイエーの中内さんなどは反発していたんだけど、当時は中内さんもまだそんなに力がなくて往生していた。そこで、怒ったのが、当時勃興しつつあった数百万のメンバーを有する消費者運動でした。その先頭に立っていたのが地婦連(全国地域婦人団体連合会)でした。理事長は山高しげりさん。しかし、松下は「消費者運動何するものぞ」という態度で、断固として正価販売を死守しようと必死でした。」

◆家電販売店主が毎日新聞に駆け込んで窮状訴え

「その渦中、十月の初めだったでしょうか、埼玉の家電販売店の店主が毎日新聞に電話をかけてきて、経済部のデスクに小売店の窮状を訴えたのです。デスクから我々のところに至急連絡を取るよう言ってきました。確かキャップの図師さんが電話をしたのですが、その店主が竹橋の本社まで来てくれました。編集局入り口の小部屋で図師さんと二人で話を聞きました。純朴でとつとつと厳しい情勢を話してくれました。
 その話を聞くと、販売店としては困ってしまっているというのです。周辺に安売り店ができて、7万円とか5万円で売っているんだけど、松下からは10万円で売れといって、ギューギューしめつけられている。でも売れないんだというわけです。店主が言うには、10月14日に埼玉県浦和市(現さいたま市)の県民会館で、埼玉県のナショナル販売店会の総会があって、そこに本社の社長以下おえらいさんが来て激励する会があります。実情を見てくださいということでした。」

◆松下電気の販売店主会に潜入取材

「そういう情報をもらって、ぼくはキャップの図師さんと一緒に県民会館に行きました。会場にどうやって入ったのかなあ・・・とにかく、販売店のナントカですとか言ったと思います。受付で式次第やハチマキ、饅頭かなんか入っていたと思いますが紙袋をもらい中に入りました。会場では2階のいちばん前にすわりました。そこで周囲にバレない様にひやひやしながらテープをまわして、その様子を記録しました。あとで松下側から原稿で抗議を受けた時の用心のためでした。そのテープは今も手元にあります。
 会場正面には「躍進」と大きく書かれたスローガンなどがあり、その前に松下正治社長以下同社幹部がずらりと並んでいました。
 松下正治社長は「消費者運動はまことに困った風潮だ。いずれ理解されると思う。」と語り、創業者の番頭・秘蔵っ子といわれた販売担当の藤尾津与志専務が「消費者運動なんかに負けないで、松下としては定価販売を断固として守る」という発言をしたのです。そして、最後にみんなでエイエイオーとやるのですが、我々も、確か鉢巻きも巻いていたと思うけど、エイエイオーとやりました。」
(後編に続く)