ある新聞記者の歩み 7 伝書鳩からスマホまで 技術革新と共に歩んだ記者生活
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ある新聞記者の歩み 7 伝書鳩からスマホまで 技術革新と共に歩んだ記者生活

MENJO,Satoshi


前回まで、時間を追って佐々木宏人さんの記者としての歩みを聞いてきましたが、今回は1965年(昭和40年)に毎日新聞社に入って水戸支局に配属された頃に戻って、記者の仕事の中で出会った技術革新について伺います。

◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・

ぼくが入社したときに、毎日の有楽町の駅前のビルの屋上に鳩小屋があったという話をしましたよね。実際には通信のためには、その年以降もう使ってなかったんですね。
そうー。当時の支局の通信事情をお話しましょう。支局の電話は今では考えられませんが直通ではなく、水戸電報電話局の交換台への申し込み制だったのです。電話機はもちろん今のような携帯ではなく、昭和のテレビドラマに登場する指先でダイヤルを回す黒電話でした。支局の大きなテーブルの上に四台位ありましたかね。土浦、取手、下館とかの(毎日新聞の)通信部や警察にかけるときに現在の市外局番の029(土浦市)、0297(取手市)とか回すのではなくて、交換に土浦市の〇〇〇〇番とか伝えてつないでもらうわけです。事件など起きると警察署の回線が一杯になるのか、5分待ち、10分待ちというのはざらでした。
しょっちゅう申し込むのでウワサ話ですが、交換手とデートに成功してゴールインした記者がいたという話を聞いたことがあります(笑)。

だから県下の各通信部とは定時通話というのがありました。電話局と契約して毎日12時と5時だったかな。これは夕刊の締め切りと朝刊の早版の締め切りのタイミングです。そのときに定時通話を入れておくわけです。通信部との定時通話では、だいたい奥さんが出てきます。それで「主人、今○○町役場まで取材に行ってますが、何も無いって連絡してくれと言われました」と言うんです。「ウソつけっ」とこっちは内心思うんです。自分のことは棚に上げて「どうせクラブで麻雀やってるんだろう」って・・・(笑)。

◇原稿は電話で読み上げて伝える

支局に着任した当時、原稿はデスクが本社との直通電話で吹き込んでいました。ダイヤルのない黒電話の受話器を取り上げて、「水戸から交換さん、交換さん」と呼んで、交換手が出てくると「速記さんお願いします」と言って、デスクが原稿を読み上げて送るわけです。たとえば、「〇月〇日、水戸市元吉田(みとしもとよしだ-元吉田は、もとは元旦のもと、吉田はきちでんよしだ)4丁目の信号機のない交差点で、佐々木宏人(ささきひろと-ささきは普通のささき、ひろとは、うかんむりに片仮名のナム、人間のひと)さんの乗用車と、東茨城郡茨城町内原鯉渕(うちはら-内外のウチ、原っぱのハラ、鯉渕はいけのコイ、サンズイのブチ)の内藤次郎(ないとう-内外のウチに、藤の花のフジ、じろうはツグロウ)さんの軽自動車が正面衝突、内藤さんは胸の骨を折って全治二か月のケガ。水戸署の調べによると佐々木さんの前方不注意。」というように読み上げて送ります。そうやってデスクは、毎日県版1ページ分の原稿を全部読み上げて送っていました。

Q.固有名詞がたいへんですね。

固有名詞はもちろん大変なんですが、もうひとつたいへんなのが方言です。茨城弁は「い」と「え」の区別がはっきりしないんです。たとえば、戸籍上は「すい」さんなんだけど、口頭では「すえ」になっていたりするわけです。こういうケースがけっこうありました。通信部の主任で地元出身の古手の先輩記者は、方言がきつく、原稿を電話で取る際「すえさんの『え』は『江戸の「え」』ですね」と確認すると、『うん井戸の「い」だ』」と答えるんですから参ります。地元の人にはその微妙なニュアンスが分かるんでしょうが‐‐‐。今から考えるとおかしい、漫才選手権の“M1グランプリの世界”ですね(笑)。
同じ茨城県でも福島に近い高萩市、北茨城市になるとほとんど福島弁に近くなり、朝そこの警察署に警戒電話を入れると古手の地元出身の宿直警官が出るのですが、何を言っているのかほとんど聞き取れず往生しました。青森、秋田、岩手など東北の支局に行った仲間は方言で苦労したようです。

◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・

それとは別に、県版には、短歌とか俳句とか、県庁や市町村の行事予定だとか、発表期日が指定されている県庁人事、教員異動情報、連載企画記事などは、原稿便というので本社に送ります。原稿便は駅に持って行って、電車に乗せて送ります。各社みんなそうやって送ってました。それを上野で取り分けて、各社に持って行くというわけです。
ときには、駅に届ける原稿が遅れて、電車が出発しようとしているところを、車掌に発車ベルを押させないようにして間に合わせた、なんてひどい話も聞いたことありますが本当かどうか(笑)。

そんな通信事情だったのですが、1年か2年たって市外局番ができて、県内各地どこにも直接自由にかけられるようになりました。これは画期的でした。これで県内の警察署--27署だったかなあ--の全部に、朝、支局から電話ができるようになりました。それまでは水戸警察署や、県警本部にある直通の“ケイデン”(警察電話)を使わせてもらっていたのです。

◇キーパンチャーは花嫁候補?

その次に漢テレというのが支局に入ってきます。漢字テレタイプっていうやつで、デカいんですよ。新聞を見開きにして、もうひとまわり大きくしたくらい。『毎日の3世紀』という上下と別巻3 冊からなる社史(2002年発行)を見ると、ぼくが入社した1965年(昭和40年)に全支局に導入されたとのことです。
NHKの番組の「日本人のお名前」ではないですが、難しい名前がたくさんありますが、それも全部漢和辞典のように感じのキーが並んでいて、打ち込めるわけです。茨城では「圷(あくつ)」さん、「塙(はなわ)」さん、「永作(ながさく)」さん、「深作(ふかさく)」さんなんて言う東京では聞いたことのない名前が多かったですね。「生田目(なまため)」さんなんて言うのもありました。東京に来てタクシーに乗って運転手さんの名札を見て、こういう名前があると「茨城出身?」というと間違いなかったですね(笑)。
漢テレ作業のために女性を雇いました。パンチャーとしてです。東京の新聞社のパンチャーということで、あこがれの対象だったようです。水戸の優秀な高校を出た品行方正な女性が入ってきました。ですから、当時、ぼくの同期入社を見るとパンチャーと結婚した人も多いですネ。

◇合理化であぶれた人が支局で記者に

パンチャーさんが原稿を打ち込むと、さん孔紙と呼ぶ紙テープに穴があきます。それを送信機にかけて、本社にさん孔紙の穴開き情報を送ります。それを本社の機械にかけると、さん孔テープから鉛活字を自動鋳造するシステム活字になるわけです。
ところが困るのは、それによってこれまで支局からの電話原稿を書きとっていた、本社の速記さんや漢テレの導入で活字を拾う人たちの仕事がなくなってしまったことです。その速記さんが新聞記者として各支局に出されました。しかし、速記さんは新聞記者の訓練を受けたわけではありませんから、記者会見に出ても全部速記してしまう。するととにかく長い原稿になってしまうわけです。記事でなくて速記録。でもどんどん成長してできる記者になった人も多いですよ。パンチャーさんはずっといました。1985年(昭和60年)にぼくが甲府支局長に出たときもまだいましたね。
この技術革新のために、鉛活字を拾う活版関係の人もどんどん地方支局や広告・販売・総務などのセクションに送り出されていきました。
こうした大合理化が進行していたのですが、各社とも組合が強いということもあって人員整理をするわけにもいかず、合理化の対象になった職種の人をみんな抱え込んでいました。
そういう合理化の波は日本全国の新聞社にあったわけですが、日本企業の終身雇用体質に加えて、新聞自体も広告収入がどんどん伸びていた時期だったので、抱え込むのにそんなに苦労はなかったと思います。

◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も

それから間もなくワープロが導入されて、甲府支局長の時代(1985~89年)の末期には、「東芝のルポ」をぼくも使うようになりました。

その当時は、編集局内でも「オレはエンピツ1本で勝負してきたんだ。ワープロなんかで書けるか!」なんて大見えを切る人がたくさんいました。僕もお世話になった政治部の名物記者・岩見隆夫さんなんてそうでしたよ。最後まで鉛筆でした。さすがにもう今はいないでしょうね。

Q.「近聞遠見」という、政治家も必ず読むというコラムを長らく連載していた人ですね。

そうです。それはともかく、ワープロの時代があって、あっという間にパソコンの時代になっちゃいましたね。思えば、技術革新というのがすごい時代だったですね。入社したときは伝書鳩がまだいたわけで、30年くらいで明治100年分くらいの技術革新を体験したのではないでしょうか。その渦中にいるなんて思いもしなかったですね。

◇新聞のカラー化も画期的だった

『毎日の3世紀』を見ると、「1968年のメキシコ五輪でカラー電送で受信しカラー化」とあります。水戸支局にいた時代ですがあまり印象に残っていませんね。雑誌なんかはとうの昔にカラー紙面が主流でしたから、なって当然という感じだったんではないでしょうか。日々短時間での大量印刷の新聞の、カラー化の特殊性、現場の苦労などになんかに想いは至らなかったんでしょうね。
むしろ日常必携の電話機の変化の方が気になっていましたね。電話が固定電話から携帯になって、スマホになるという変化の時代でした。ポケベルも一時盛んに使われましたね。入社してから甲府支局長になるまで20年、スマホはまだ登場していませんでしたが、“伝書鳩からスマホ”までのすさまじい技術革新の時代に新聞記者をやっていたことになるんですね。今考えると英国に始まる18世紀から19世紀半ばの近代史の産業革命で、織物の手工業から蒸気機関の動力源としての発達による、機械工業の大変化をとげるような時代を体験していたんですね。
振り返ってみると、そんな技術革新のことなんてあまり考えたことはなかったですね。新聞を産業としてとらえず、正義感にあふれた取材一筋というといえばカッコイイですが走り回っていただけで、新聞を支えてきたバックヤードとしての技術の力をあらためて感じますね。さらに販売・広告のこともほとんど考えず過ごせたんですから、いい気なもんですね。

◇支局では写真の現像も自分で

Q.ファクスはどのあたりの記憶になりますか?

写真については、(水戸)支局では原則、記者が個人個人、写真機を持っていて撮るんです。支局には暗室(現像室)というのがありました。撮った分のコマ数だけフィルムをハサミで切って現像液に浸して、自分で焼くんです。手をかざして写真に濃淡をつけて、現場の様子を強調するなんてこともやりました。
締め切り間際だとデスクが暗室のドアをたたいて「オーイ!まだできないのか間に合わないぞ!」と叫んでいたことを思い出します。
写真電送機というのがありました。現像液に入れた写真の水を拭いて乾かし、それを電送機に掛けるわけです。それで本社に電話して「水戸から連絡さん、連絡さん、いまから写真を〇枚送ります」と言ってスイッチを入れると、ピーポピーポ言って送られます。その電送機が今で言うファックスですね。
それが紙も送れるようになったのはいつ頃なのかなあ・・・。そういえば、政治部の頃にファクスで原稿を送った覚えがあります。
こんなことを話していると、当時の支局の現像室の暗いところの甘酸っぱい現像液の臭いを思い出しますね。懐かしいですね。

毎日の3世紀別NE式写真電送機

[解説] 写真電送の原理は、碁盤の目のように写真を分解して、個々の目の部分の白黒の度合いを数値化して送って、受信側がその数値から写真を再現するものです。
日本で最初の実用的な利用は、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位式の写真を大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日新聞東京本社の前身)の間で国産機によって電送したのが始まりです。天皇が京都に向けて東京を出発する写真を大阪に送って大阪毎日が特報、その後、京都から即位式の写真を送信しました。(毎日新聞の社史『毎日の3世紀』ほかの文献による。)
※上の写真はそのときに活躍したNE式写真電送機(『毎日の3世紀』から)
後の時代に、書類などを送るために一般家庭でも利用するようになるファクスも原理は同じです。1972年の回線開放(電話回線を電話以外の用途にも開放)によって広く普及するようになりました。

◇運転手がカメラマン兼任

Q.さきほどの支局での写真撮影の件ですが、カメラマンはいなかったのですか?

支局には運転手さんがいて、カメラマンも兼ねていました。自転車やバイクで行けない水戸から離れた事件現場にいっしょに行きました。支局に社有車が1台あって、それを使って交通事故とか火事とかの現場に駆け付けるわけです。それでこっちが事故に遭った人の名前を聞いたりしているときに、現場の写真を運転手さんに撮ってもらったりするんです。それで支局に帰ってくると、ぼくが原稿を書いている間に、運転手さんが写真を現像して電送にかけることがしばしばでしたね。運転手採用にあたっては、写真撮影もやってもらうということを言っていました。

◇新聞記者は無線技士

あと自動車には無線機がついていました。米国のモトローラ社製で、車から外して肩に背負うすごいデカくて重いやつでした。
そういえば、入社するときに、特殊無線技士2級とか3級っていう試験を受けさせられましたね。1週間くらい講習受けたかなあ・・・。そのとき脅かされましたよ。「この試験を受けて落っこちたやつはいない」とかね。試験前日は必死に勉強しましたね、内容は全部忘れたな、無事合格しましたが‐‐‐。あの免許証どこに行ったかな(笑)。
当時、新聞社が自動車と支局間で無線通信をやるについては、郵政省電波監理局の許可が要ったのです。そこには管理者として特殊無線技士の何級という人がいなくてはいけなかったわけです。年に1回、電波管理局が検査に来るんですね。無線の利用簿というのがあって、たとえば原子力発電所のある東海村から水戸支局に原稿を送ったとかなんとか書いておかなくてはいけないのです。だけど、めんどくさいからみんな書かないんです。検査に来るっていう通告が事前にあるので、それからみんなでまとめて必死になって書いたりしました(笑)。
無線の場合、ビルの影だとか山の中に行くと聞こえなくて、見晴らしのいいところに行かないとダメだなんてことがありました。今考えるとウソみたいな話ですが・・・。
そのあとはポケベルの時代がありましたね。割と短かったような気がします。それから携帯になって、それが進化してiPhoneというかスマホになってというあっという間の展開ですね。本当に技術革新を振り返るとすごい時代だったんですね。
新聞製作上も大変化の時代だったんです。活字を拾って、1ページ数キロもある重い鉛製の鉛版を作り輪転機に人力でかけていたのが、ペラペラの軽量刷版に変り、入力も鉛の活字を拾わなくてもいいようになるなど自動化がどんどん進んでいきました。
後に組合の委員長になって知るのですが、重い鉛版を扱う印刷・活版職場では腰痛、鉛中毒が起きるという労災問題がありました。その面でも技術革新には意味があったと思います。

ありがとうございます。励みになります。
MENJO,Satoshi
◎メディア研究者 『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年) 『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年) ◎ポール歩きを推進するNPO法人みんなの元気学校代表理事