見出し画像

ある新聞記者の歩み 22 記者から労組委員長へ 2年間の得がたい経験

元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、勤続18年、42歳のときに、いったん記者生活を離れて労働組合の委員長になります。目をかけてくれていた2人の先輩から背中を押されてのことです。夜討ち朝駆けにも行かなくなり、生活は一変しました。それまで接触のなかった現業の人たちと付き合いができたり、地方を回ったり、スピーチの草稿を練ったりといった貴重な2年間だったと言います。(聞き手=メディア研究者校條諭)
 

◇記者がなりたがらない労組委員長に就任

 Q.前回は、佐々木さんが経済部所属で大蔵省記者クラブで取材活動をされていた頃のお話をお聞きしました。そのあと佐々木さんは労働組合の委員長に就任され、2年間勤められますね。
 
1983(昭和58)年10月に毎日労組の委員長になりました。その頃の話をできるだけ正確にお伝えしようと思って、先日、組合の書記局に行って、50年史(「毎日新聞労働組合50年史 闘いの軌跡と二十一世紀への展望」1995年毎日新聞労働組合刊)や、当時の議案書、機関紙「われら」などを調べてみました。今から40年前のことなんですね。いろいろ記憶がよりもどってきました。

佐々木宏人さんの委員長就任と就任演説を報じる毎日労組機関紙「われら」
(1983年10月30日付)

 今の時代、「労働組合」の存在自体、政治にはあまり影響がない時代になってきていますよね。当時は国会で3分の1の議席を保有していた日本社会党(現・社民党)の“集票マシン”は、「総評」(日本労働組合総評議会の略称)でした。大手企業の450万組合員を傘下に持ち、「護憲運動」、“安保(日米安全保障条約)改定反対闘争“にも力を発揮していました。
 
こういった「総評」の戦後の平和運動主導の運動方針に反対して、賃上げの経済闘争を中心に据えた全繊同盟、海員組合などが1960年に「総同盟」を作り、民社党の基盤となります。これが統一され現在の「同盟」になっていますよね。「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」という昨年10月に就任した、初の女性の委員長・芳野友子氏の発言、様変わりですね。ビックリしたなあ。
 
当時、全国紙、地方紙問わず新聞各社の組合は総評系の「新聞労連」の傘下に入り、毎日新聞もその先頭に立っていました。その委員長は朝日、毎日、読売の順番で出していた思います。産経新聞は脱退していましたね。
 
毎日新聞労組は「東京本社」、「大阪本社」、「中部(名古屋)本社」、「西部(九州)本社」、「北海道支社」の4本社1支社体制という経営体制の中で、これにあわせて組合の各支部が置かれ、その支部長から委員長が選出されることになっていました。慣例的に「東京支部長」に選出された人が、ほぼ自動的に「毎日新聞労働組合委員長」に選出されていました。
 
東京本社には、編集、営経総(営業・経理・総務)、印刷、地方機関会などの分会があるのですが、「東京本社の支部長は編集局の中から出す」という暗黙の了解があったように思います。2年任期で各部の持ち回り、経済部では六年前にFさんが出ています。私の前任者は国内外の原稿を各部に集配信する編集局連絡部のOさんでした。
 
Q.毎日新聞労組は印刷などの現業部門に共産党の影響が強く、戦闘的だったと聞いていますが、どうだったんですが。
 
確かに私が委員長になった時、専従執行委員になってもらった政治部出身のI君が、公安関係で聞き込んだところ、当時の毎日新聞の印刷職場などの現業職場には、今はどうなのか知りませんが、共産党組織の末端の“細胞”といわれる組織があったようです。このメンバーが組合の要所を抑えていた感じはありました。
 
だけど高度成長前、地方の優秀高校を出て、家庭の事情で大学に行けず、印刷部門などに配置された人が本当に多かった。僕なんかよりよほどIQの高い、優秀な人が多かったですね(笑)。会社側との断交では理論的にもキチンと矛盾を追求して、厳しいことを言いますが、妥協する時は判断は早かったですね。そういう意味では助けられました。彼らも新聞社にとってのポイントは、記事を書いて紙面を維持する使命がある編集部門ということが分かっていて、編集出身の委員長を大事にしてくれていたように思います。
 
組合の専従になると2年間記者生活のブランクできるし、編集の人は逃げたがるのです。その反対に印刷とか現業職場の人は一種の勲章だったんじゃないかな。深夜勤務もある厳しい労働の現場から2年間離れられ、書記長とか〇〇対策部長とか肩書きも付き、4本社1支社で全国を回れるというメリットがあったと思います。
 
Q.だけど大蔵省担当から組合委員長とは!また百八十度転換ですね。総評に加盟している新聞労連傘下で、共産党色もあるといわれた活動的な組合の委員長にどうして佐々木さんがなったんだろうかという疑問がわくのですが(笑)
 
ぼくはよほど右寄りに見えるのかな(笑)。毎日新聞はユニオンショップ制なので、とにかく社員だったら全員組合に入るわけです。だけど共産党色と言ったって紙面は“中立公正”がモットーでしょう。一部の現業職場の人がそうであっても編集紙面にはまったく関係ありませんよ。編集現場ではそんなこと考えたこともなかったな。共産党色を出したら困るのは共産党じゃないかな。「赤旗」が売れなくなったりして(笑)。党派色は全く感じもしませんでしたね。
 
ぼくは外務省機密漏洩事件の毎日新聞政治部者・西山太吉記者逮捕事件のとき、言論弾圧は許さないという主張で動いたこともあったし、編集分会でもそういう感じで動いていたことがありました。簡単に言うと毎日新聞をつぶしてなるものかという感じが強かった。組合側としても、経営トップとつながりがある佐々木だったらスムーズに行けるということがあったでしょう。ただ、編集局内部では冷たい見方をされました。あいつは経済部出身の役員の言う通りにしかしないとかね。
 
Q.委員長選挙はあるのですね?
 それはあるけど、対立候補はいません。組合がいくらがんばったって、100万円の要求出したって通るわけないことはみんなわかってるわけです。だから委員長なんかやりたくないんです。みんな逃げるんですよね、対立候補なんて出たことないんじゃないかな。僕の時は83年10月26日の中央大会での信任投票で投票総数88票で、賛成87、反対1(笑)。

 ◇〽ボロは着てても、心は錦―プライドがあり、記者の仕事が好きだから

Q.他社とはそうとう待遇の差が続いたと想像しますが、だからといって、委員長を引き受けて急に年収を上げられるとは思えないんですが。  
「急に年収が上げられない」とはイヤなこと聞きますね(笑)。ホントそうだよね、あの給料でよく子ども4人を抱えて生活できたと思うよ。まだ2人だったか⋯⋯。女房に頭が上がらないね(笑)。  

最近の佐々木さんご夫妻(2022年5月)

1977(昭和52)年の実質的な経営破綻である“新旧分離”から6年経っていますね。毎日労組の資料で各社の比較を見ると、ぼくが委員長になる1983(昭和58)年の年収(ボーナスを除く)は286万3337円、朝日は519万826円、労連加盟の大手12社平均が439万7143円で圧倒的な差ですね。

 注)詳しくは「第13回  会社“倒産”!それでも新聞記者で生きる」をご参照ください。債務を旧会社が全部引き受け、新聞発行に専念する新会社を作ったのが「新旧分離」策です。  

でもやっぱり日本のジャーナリズムにとって、「毎日新聞」は、本当に必要だと本当に思っていましたね。倒産させてなるものか、こんなに自由で書きたいことを書ける新聞は、権力監視という観点でも日本の社会に欠かせないもの、今でいえば“社会的公共財”と社員みんな思っていたと思いますよ。  

当時の歌で水前寺清子の「一本どっこのうた」の〽ボロは着てても、心は錦(にしき) どんな花よりきれいだぜ〽という感じかな(笑)。だけど取材、紙面だけでは他社に負けていないというプライド・自信は絶対にあったからなー(笑)。  

でも本音は「花より団子」給料は高い方がいいよね(笑)。毎日新聞には社内金融機関として大蔵省の許認可をもらった「毎日信用組合」というのがありました。ここは在職年数に見合う退職金相当分の借り入れができたんです。いつも借りてましたね。女房が給与明細を見て、「この返済金ってなに?」、ぼくは口をモグモグ(笑) 

Q.最終的に委員長を引き受けるわけですが、決断の引き金を引いたのは何ですか?

 編集分会で次はどこの部から出すかを検討するわけですが、このところ委員長を出していない経済部に白羽の矢が立ち、多分、経済部出身の佐治俊彦取締役経営企画室長、経済部長の歌川令三さんあたりが画策して、僕の名前が出て、僕としても受けざるを得ないようになった感じだったと思います。気が付いたら周囲の堀を埋められた感じだったな。

佐治俊彦さんと歌川令三さん
(佐治さんは「財界」2006年2月28日号、歌川さんは
『新しい資本主義』(自由企業研究会著、PHP、1993年刊)から)

Q.新聞記者として油の乗り切った時だったと思いますが、未練はなかったですか?  

そりゃありましたよ。本当は経済記者として大蔵省担当をやり、まだまだ取材経験を積んでいきたいと思う時期ですよね。自分で言うのも変だけど、記者としてあなたがいうように“油が乗った時期”だったと思うんですよ。ですからいつも編集分会のこの労働組合委員長選びはもめるんですよ。出来たら逃げたいと思うのが普通ですよね。佐治さん、歌川さんから「受けたほうが良い」と言われて、逃げ道をふさがれ、抑え込まれた感じかな。  

Q.佐治さん、歌川さんというのはこれまでもよく出てきましたが、経営側に立つ人ですよね、その人たちが組合人事に介入するんですか。  

もちろん直接的に表面に立つことはありません。でも先輩・後輩という立場で相談にいきますよね。そうすると2人とも僕が委員長になることを期待していることが、阿吽(あうん)の呼吸で分かるんですよね(笑)。  

佐治俊彦さんは3年前86歳で亡くなられましたが、ワシントン特派員から戻ってきて、僕が経済部に来たときの経団連の1階のキャップだった記者です。中山素平(日本興業銀行頭取)だとか、今里廣記(日本精工社長)、永野重雄(新日鉄会長)などの、政界とも深いパイプを持つ財界人にも信頼が厚い記者でした。彼は経済部長から編集局長になるのが確実と見られていたんですが、自分でも「おれは筆一本で行きたい」と言っていましたね。そこに起きたのが新旧分離です。毎日新聞が実質的に倒産、この時期に社長になったのが監査役だった財界人とも親しい経済部OBの平岡敏夫さんでした。佐治さんは平岡さんに懇願されて経営のかじ取りをする経営企画室長になり、当時、取締役を兼務していたと思います。  

歌川さんもワシントン支局から帰って経済部長、その後で経営企画室長、編集局長をやります。佐治-歌川ラインで毎日新聞のリーダーシップを握って、平岡さんを社長(後に会長)にし、新旧分離路線を敷いて生き延びることに成功しました。佐治・歌川さんとワシントン・ニューヨークで一緒だった山内大介さんという外信部出身の取締役主筆が1980(昭和55)年、社長になりました。ところが「これで次は、佐治から歌川体制になる。経済部支配だ!」と他部からから見ると、面白くない雰囲気が編集局の底流にはあったと思います。  

でも、佐治さん、歌川さんは会社のためだと思って、一生懸命やっているわけです。ぼくなんかは、両方とも能力のある記者で好きだったし、わりとかわいがられていたと思います。だけど経済部内にもそのやり方に反発を持つ向きも多かった。TBSのニュースキャスターで成功する嶌信彦君などはその筆頭で、他にも英国通信社のロイターなどに転職した記者も多かったですね。  

◇新旧分離の“奇策”で会社延命、新旧合併への機運

 Q.当時は倒産騒ぎの“新旧分離”からすでに6年近く経つわけで、毎日新聞の経営状況はどうなっていたんですか。  

ぼくに組合委員長の白羽の矢が立った当時、会社は大きな転換点を迎えていました。ひとつは、新社、旧社の合併です。1977年12月、新旧分離という方法で再生をはかったわけですが、その体制が6年目となり、新社はかろうじて黒字体質になり、旧社の抱えた莫大な借入金も少なくなり、新旧会社をもういっしょにしていいのではないかという経営判断です。確かに新社発足時に年間売上額が1千億円だったのが、1981年度には1400億円、部数も36万部増えて470万部になっていました。  

しかしその後、委員長になった時は公正取引委員会の行政指導などもあり、販売正常化の流れの下で部数、売り上げとも減少傾向に入っていました。広告収入は80年度が513億円だったのが、84年が510億円でした。それと要員(組合員)も6155人から5364人に減っています。定年補充をしなかったことが大きいですね。  

Q.もうひとつわからないのは、新旧分離した会社を再度合併させる意味は何なんでしょう?経営にとって、あるいは社員にとってのメリットは何ですか?  
ぼくは1985(昭和60)年9月に委員長を退任し、その10月に毎日新聞が新旧合併しました。それで資本金が41億5千万円となって新会社というか、元の毎日新聞社になりました。だけど旧社には累積欠損というのが107億円あったのかな。大阪本社の土地簿価11億円弱だったのを182億円強にして帳簿上黒字会社にしました。バブル経済時代の土地バブルのおかげですよね。  

その前には東京本社のパレスサイドビルのリーダーズダイジェスト所有の底地を入手しています。大阪本社の土地の売却による新本社の建設、当時各社が競っていた地方分散印刷工場の建設などに充てました。どうにか“従来通り”他社の半分程度の給料・一時金を払える体制にもっていけたという事でしょうね。

毎日新聞大阪本社(西梅田、1992年竣工)
「毎日」の3世紀(2002年刊)から

客観的に見れば、「佐治・歌川ラインに乗る経済部の佐々木に、この新旧合併の組合側のOKを取るために委員長に据えた」と見られていたと思います。  

転換点のもうひとつは事業部制の問題です。会社側は、新旧合併の前提として事業部制導入を打ち出していました。4本社1支社、それに出版とか英文、広告、販売、事業など各事業本部、それぞれが利益を出していかなければならないということです。経済界も財界人が、顔を効かせて面倒を見る時代から、企業をシビヤーに見て選別する時代に入り、「新聞社は特別」という時代から、キチンと利益を上げてもらわないと困る―という時代に入りつつあったと思います。  

◇組合委員長の役割と薄氷のストライキ

 Q.新聞社の労働組合運動ってどういう感じなんですか、記者の特ダネ物語はよく目にしいますが?組合運動に縁の無かった佐々木さんで上手くいくんですか?(笑)  
ほとんど普通の会社の労働組合の活動と変わらないと思いますよ。まずメインは春の「春闘」年間賃金、いわゆるベースアップ実現闘争、それに夏・冬の一時金(ボーナス)闘争がメインになります。それぞれ要求決定の大会、妥結の了解を取り付ける大会。この間に秋に全国の代議員を召集しての定期大会。闘争期間中は各支部・職場でのオルグ(教宣活動)。毎月1回の会社側と社長以下役員の出る労使団交、これに合わせて組合側は中央執行委員会、経営調査委員会などを開催します。会議、会議の連続です。  

あと関連会社の争議応援、新聞労連との外部組織との会議、新聞社特有なんでしょうが「いま読者・国民が求める新聞とは」なんていうテーマでジャーナリズム問題を議論するイベントの開催――などなど、結構忙しいんですよ。さらにコンピューター化で日進月歩で進歩する、印刷技術部門への人員削減にどう対処するかの対策部会の開催など、色々ありました。  

また新聞社の組合として特徴だったのは、言論の自由を脅かしかねない政治的動きに敏感だったことですね。僕の時は中曾根内閣で「国家機密法(通称・スパイ防止法)」が自民党から国会に上程されました。これに対する反対運動が盛り上がり、結局廃案になりましたが、街頭でのビラまき活動もやりましたよ。  

いまでも駅頭でビラまきをやっている人を見ると、当時を思い出して左右かまわず、思わず受け取ってしまいますね(笑)。よく見ると「ワクチン接種反対!」のビラだったりして⋯⋯(笑)。  

こういう多方面にわたる組織運営で頼りにしたのが、委員長の片腕になる印刷職場出身の書記長のIさん。ものすごく優秀な人だったなあ。組合活動の右も左も分からない僕に、4本社1支社の組合内部の情報・分析を丁寧に教えてくれました。2年間の委員長退任後、専従役員だった政治部から来たIさん、販売局からきたKさんと4人で、在任中積立をして台湾旅行をした思い出もあります。政治部のIさん、Kさんは亡くなったなあ。  

活版・印刷・発送などの現業部門の人は、そのころ急速にコンピューター化が進み、スピード・アップしてきた技術革新による合理化への対処が大問題でした。事業部制・新旧合併も会社の狙いは人減らしにある―と組合内部の議論では大分紛糾しました。でも書記長のIさんは「会社が生き延びるためにはやむを得ない」と理解して、組織をまとめてくれました。ありがたかったなあ。  

もうひとつ思い出すのは、組合運動って文章を書くのがむずかしいんですよ。終結宣言とか闘争宣言とか闘争司令とかいろいろありました。それと、どうして低い回答を認めたのかという理屈を一般組合員に納得してもらわなくてはいけないですから。そのあたりは執行委員会で議論するんですが、スト宣言には販売出身の人など反対者も出てくるし・・・。その顔も立てなくてはいけないし組合用語には悩まされました。  

その当時毎日新聞労組は回答指定日をねらって、時限ストライキをやりました。スト権確立には組合員の全員投票にかけるのですが、90%近い賛成を得ました。大手紙でストを打ったのは毎日だけだったと思います。春闘、夏冬のボーナス闘争のとき毎回会社との団交を前に、本社の5階の役員室の前で座り込みまでやるんです。1時間程度だったと記憶していますが⋯⋯。  

春夏のボーナス闘争でも要求は、新聞労連の基準と同じ120万円近く。毎日の妥結額は40万円台、他社は80万、100万円台で妥結するんですから、組合員の“ガス抜き”として、“闘う執行部”としてストをやらざるを得ないわけです。でもそのストは新聞発行、読者に届く時間が遅れないような時間帯を設定するわけです。販売局・販売店から新聞の到着が遅れるとクレームが来ますから、神経を使いましたね。
 
Q.販売店への影響というのはどういう意味でしょう?  
たとえば東京・大阪では、午前10:30-11:00にスト時間を設定します。これは実は相当配慮した時間帯でした。夕刊の早版と言われる2版の印刷時間帯です。東京では北関東と山梨への配布分で、部数も少なく、印刷時間も短くそんなに影響はないんですが、組合の執行委員会でも現場に「本当に配送に影響ないんだな、スト後回復はできるんだな、遅れは出ないだろうな」と念を押しました。考えてみれば変ですよね、影響を与えるのがストライキなんですから―(笑)。会社側は万一の影響を恐れて、これに合わせて千円前後の積み上げ額を回答します。組合側はスト中止指令を出します。組合も会社も阿吽の呼吸で、お互いにわかっているんですけど、予想外のことも起きかねませんからストには双方とも相当神経を使いました。  

新聞社の労組には伝説が残っていて、安保闘争激しかった頃、朝日新聞労組が新聞を止めて、販売が大打撃を受けたことがあるというのです。ネットで調べても、事件の真偽は詳細にはわからないのですが『96時間ストの記録 -1959年ベ・ア闘争史-』(朝日新聞労組、1959年刊)という本が朝日労組から出されているようですから、それより少し前なのでしょうね。“朝日伝説”としてよく聞きました。  

新聞が印刷・発送されなくては販売店は配達員を抱え遊ばせるわけで、読者からは苦情が殺到しますよね。激烈な販売競争の中で、当然部数減につながります。ある程度生産を止めても大丈夫な在庫のある自動車やお菓子の生産とは違いますよね。そう考えるとウカツに読者に新聞が届かなくなるストライキ打てません。社内的な批判は組合に来ることは目に見えています。ですからストの時間設定というのはかなり神経を使うんです。それでみんな組合の執行部としては各本社の降版時間を把握して、スト後、配送遅れが取り戻せる時間を設定するわけです。社内的には販売店に影響がいくということはないということです。ですから組合内部にも「会社側に打撃を与えるストではない。闘う毎日労組ではない!」という批判は常にありました。  

◇会社と組合、薄給の中で

Q.会社と組合は、なんか持ちつ持たれつの関係ですね。  
それを言っちゃあおしまいよ(笑)。最終局面では会社側の最終提案を受け入れることで、全国から代議員が集まってきます。中央大会を開いて“闘争終結”を提案・了解を取るのが大変です。「八百長闘争だ」なんて批判が出て、書記長が顔を真っ赤にして怒鳴り返すような場面もあったように記憶しています。  

年末闘争の前に、ぼくら本部執行委員は全国の本支社を回りました。そこで、「われわれの生活は破壊寸前なので、この冬の119万円の数字は絶対死守しなければいけない。組合執行部は先頭で戦う!」というようなこと言って、あおっているわけです。ところが終わると実際の妥結額は半額以下の45万円程度なわけです。すると組合員としては「てめえらなんだ!」ということになりますよ。気持ちはよくわかりますよ。フタを開ければ毎回これですから組合員も怒りますよ。これを収めるのですから、いろいろ大変でしたよ。  

われわれ組合執行部は、経営側はこういう状況の中で前期比約900円アップを飲んだ。それを勝ち取ったんだというのを唯一の理屈として説得するわけです。組合員もみんな大人だから最終的には認めるんです。ただ、その間に諸要求というのがあって、単身赴任手当とか転勤者の引っ越し費用補助とか、北海道の燃料費補助とかも交渉があって、会社側もあまり費用のかからない要求については満額近い回答を出しました。  

Q.毎日新聞社が新旧分離から現在まで、45年間も持ち応えた原因はなんだと思いますか?  
新聞労連大手12社(西日本、中国、神戸、中日、河北、道新、日経、朝日、毎日、読売など)の各社では100万円前後の回答でした。それに比べて毎日は半分くらい。当時の毎日労組の資料を見ると「このように同業他社とは比べようもないほどの格差になっている」、「新聞労働者としての最低限の生活を維持するのも困難・・・」とあります。今はどうなのか⋯⋯。確かに生活的には大変なんです。でもみんなよく頑張ったという感じがします。  

それは、何回も言いますが「毎日新聞の取材網と紙面は、日本のジャーナリズムに欠かせない」という自負心があったからだと思います。組合員の会社側への協力―ととらえられるかもしれません。でもその辺が経営者の姿勢の甘えにつながっている面もないとは言えないでしょう。ただ一面、経営側にもキチンとした仕事をしなくては、組合側に容赦なく追及されるという緊張感を持たせていることも事実だと思います。  

毎日新聞には何とかこのデジタル時代、緊張感を持って知恵を絞り生き残って欲しいと思っているのですが⋯⋯。  

◇目をかけてくれた先輩のひとりは“憤死”、もうひとりは辞めてサバサバ

Q.闘争期間中、佐々木さんを委員長に押し出した佐治・歌川さんは、佐々木さんにアプローチをかけてきていたんですか。  
春闘、春夏の一時金闘争期間中でもなんとなく、「穏便に収めてくれ」という佐治さん、歌川さんの胸のうちを知っているわけです。夜中に電話をかけてくるんですよ。「どの辺を落とし所にするつもりなんだ?」なんて(笑)。  

Q.電話をかけてくる主というのは佐治さんですか、歌川さんですか?  
佐治さんでしたね。役員でしたからね。その頃の経営陣というのは佐治さんが牛耳っていたように思います。山内社長の次は佐治さんだと思われていました。銀行筋もそういう含みで理解していたと思われます。なんかのときに言われました。「佐々木委員長は佐治と歌川の秘蔵っ子だから」と(笑)。組合の中でそれを言われたら困るよね(笑)ぼくなんかは、社長の座を平岡、山内、佐治、歌川の順でつなぐという想定をしていました。ゴマするやつなんかは、その次は佐々木さんだなんてバカなことを言っているやつがいましたが(笑)。  

Q.少しのちの話についてですが、佐治さんが“憤死”するとか以前言っておられましたよね・・・。  
1987(昭和62)年だったかな、社長の山内さんが病気で倒れ入院してしまうんです。その前に山内社長は、競輪の勧進元の日本自転車振興会の理事をやっていた同期の元論説主幹だった渡辺襄さんを1983(昭和58)年に取締役に入れます。入院中に山内社長が67歳で現職のまま亡くなります。佐治さんはこの時、常務だったと思います。役員会は専務・主筆だった渡辺襄氏を社長に推します。

佐治さんは干された形になり、西武の堤清二さんとのつながりで西武グループの関連会社チケット販売の「エス・エス・コミュニケーションズ(現角川エス・エス・コミュニケーションズ)」の社長に転身します。新旧分離から新旧合併まで必死に尽くした、佐治さんとしては不本意だったと思います。マー背景としては、佐治さんは東大経済出身の頭の切れる人で、仕事にはホントに厳しかった。“サジスト”なんてあだ名がひそかについていましたから、他の役員からは煙たがられたこともあると思います。

歌川さんも編集局長をやり取締役となりますが、佐治さんと同じころ退社しています。読売新聞の渡邊恒雄会長の紹介で中曽根康弘元首相の財団法人世界平和研究所に行き、その後、競艇の笹川陽平さんの日本財団の常務理事までやることになります。作家の曾野綾子氏が同財団の理事長やっているときに、お金を出しているアジア、アフリカなどの発展途上国の医療施設などの開所式にいっしょによく行ってましたね。のちリクルート事件で名前が出て大騒ぎになりますが、辞めててよかったでしょうね。  

まあ、どっちが幸せだったかわからないですが、佐治さんなんかは、社長の一歩手前まで手が届くところまで行っていたのに、どっちかというと“憤死した”という感じでしたね。佐治さんはやっぱり新聞社でやりたかったでしょうね。 歌川さんはサバサバしていましたね。辞めて本当に楽しそうに第二の人生を楽しんでいますね。  

◇記者とは違う組合委員長の日々の過ごし方

 Q.委員長のときは専従なんですね?  
そうです。だから2年間は記者じゃなくなりました。パレスサイドビルの3階に組合書記局というのがあって、毎日そこに通いました。食堂の脇にありました。書記局の広さはマンション3LDKくらいの広さかな。いつも専従の書記さんが3,4人いて、議事日程の調整、議案書の印刷など忙しく働いていましたね。みんな優秀でしたね。委員長、書記長などは日中詰めていました。先日書記のTさんに書類を調べてもらう件があり電話をしましたら、「わたしは佐々木さんの時に書記局に入り、今年60歳で定年です」といわれビックリしました。そういう当方も80歳なんですから⋯⋯(笑)。  

毎日労組が入っているパレスサイドビル(毎日新聞東京本社)
「毎日」の3世紀(2002年刊)より

Q.本社のあるパレスサイドビルに通うというのは、取材先の記者クラブに所属してきた佐々木さんとしては珍しい経験だったのではないですか?  
朝は確か10時頃をメドに行ったのではないかな。会議がなければ経済部時代時の各社の連中との飲み会への参加は欠かしたことはなかったですね。やはり経済部の取材現場の土地勘を失いたくなかったですからね。昔の取材仲間から「委員長商売どうかね?」なんて、面白がって電話がかかって来て、飲み会を設定したりしていました。組合の連中とも飲んでいました。でも夜討ち・朝駆けがない分、早く帰れていたと思います。  

思い出しましたが、今の岸田文雄首相の親父さんの岸田文武衆院議員から、組合書記局に電話がかかってきたことがあります。岸田さんは僕が1973年の第一次石油ショックの時のエネルギー庁の電力・ガス部長で、電力業界の料金値上げで夜討ち朝駆けをかけていた方で、中小企業庁長官を退職後、父上の地盤から広島から自民党で立候補、当選、確か当選2回目。結婚式の来賓にも来てもらいました。  

岸田文武氏(資源エネルギー庁公益事業部長当時)

本人から「毎日新聞記者で秘書に適当な人材はいないか紹介してくれないか」と言われました。組合委員長の立場で、自民党代議士の秘書を紹介するのも何となく躊躇して、曖昧な返事を返したことを思いだします。支局時代世話になった社会部系の人をひとり思い浮かべたんですが、その後、その方は亡くなりました。あの時、紹介しておけばよかったとも思い出します。  

◇関連会社との微妙な関係 

 Q.毎日にはスポニチとか東日印刷、下野新聞とか関連会社がいくつもありますが、これと組合との関連はどうなんですか?  
むずかしかったのは下野新聞みたいに毎日の資本が入っているところです。よく行きました。下野の歴代の社長は毎日から行ってたわけです。彼らは「天下り反対!」。上州の空っ風の寒い下野の屋上で組合の集会があるのですが、ぼくは「けしからん、共に戦おう」なんて言ってました。でも、社長になる予定の人もよく知っているし⋯⋯。(笑)。  

スポニチも資本関係が濃いところで、よく行きましたが、彼らはわかってました。飲んだりすると、「毎日新聞には気をつけなければいけない。最後になると吸収するとかを考えたりする。そういうことは避けなければいけない」などと言ってました。でも、みごとに毎日ホールディングスの傘下となり、恐れていたとおりになったのですが・・・。  

Q.東日印刷が優良会社と聞きますが、創価学会の機関紙の印刷を引き受けているということですか?  
創価学会もそうだけど、当時は伸びていた東スポ(東京スポーツ新聞社)の印刷も大きな収益源だったと思います。東スポの本社は、スポニチと一緒に東日のビルに入ってますよ。東スポの太刀川恒夫さん(現会長)というのは児玉誉士夫の秘書だった人で、ロッキード事件のときに逮捕されました。ぼくはわりと親しかったんですよ。山梨県の出身です。時々会いに行きましたね。  

創価学会の聖教新聞は朝刊で、東スポは夕刊、それに毎日の朝夕刊と、東日の輪転機はフル回転だったと思いますよ。ほかに細かいものもよく営業していたようですし。  

Q.ときどき東日印刷の全面広告が毎日に載りますが、あれはやっぱり義理で載せているんでしょうか?  
まあ利益の“吸い上げ”とにらみますね。東日の主要役員はほとんど毎日からでしょう。だからまあ文句言えないでしょうね。関連会社をみんな集めて毎日ホールディングスにしたのはさすがで、毎日新聞は、その利益で生きているようなもんだと思ううんですが⋯⋯。

◇楽しかった組合活動 現業の人たちと知り合えたのも宝

Q.年収が他社の半分という状況で毎日新聞がここまで生き延びてきたのは、前に述べておられますが、ジャーナリストとしてのプライドがなければやってられないですよね。
 
そういうことですね。ほんと、収入もさることながら、当時でも記者クラブに行くと毎日の記者の数も半分。でも卑屈になるなんてことはありませんでしたよ。やっぱりプライドもあったし、取材先の信頼もあるし、地道な取材力での特ダネもあるわけですから。
 
1983年の年末闘争が終わった段階で事業部制と中期経営計画の実施について会社提案が出てきました。基本的にはみんな腹の中ではしようがないと思っていたのですが、とはいえ簡単には受け入れられないということがあって、我々としては重いテーマで会社とはずいぶん議論しました。組合員の立場からいうと、賃金、要員、経営の前途、技術革新をどうするのかという「4つの不安」がありました。
 
Q.技術革新のことなんですが、83年というとちょうどCTS(コンピューター組み版。鉛版から軽量刷版への変更・合理化)が入り始めたころですよね?今まで重い鉛を輪転機に掛けていたのを、軽いプラスチックの刷版に変るわけですね。技術革新の影響を受けるのは印刷関係が中心ですか?記者への影響は?パソコンで入力というようなことはまだ先のことでしょうか?
 パソコンなんかまだとてもとてもで、せいぜいワープロ(専用機)が入るかは入らないかというような時期でした。技術革新には基本的には対応していかなければならないのですが、その中でも雇用を守るということが重要でした。ですから、編集に異動させるとか地方機関に行かせるといった形で調整していました。2、30年、印刷などの現業職場で働いていて地方機関などの記者や、他局のホワイトカラーに配属なる人も多く、これはこれで大変な苦労だったと思います。技術革新という言葉のウラには、こういう実態があるんだということが身を持ってわかりました。
 
組合委員長として過ごした2年間を振り返ると、春闘だとか冬、夏の一時金闘争で全国回ったりして、けっこう楽しかったですよ。でも今まで付き合ったこのなかった現業の社員、青色の菜っ葉服を着て、巨大な輪転機に相対してインクにまみれて働いているわけで、新聞はこういう人がいて初めてできるんだという実感を持ちましたね。本当の意味での「労働者」を知ったという感じがありましたね。ありがたかったなあ。

もう一つ、新聞労連という組織の中で、毎日新聞が全国紙という観点で高い評価を得ているという実感を持てたのもよかった。委員長としてのぼくを支えてくれた当時の仲間は、何人か亡くなりましたけど、メンバーに本当に感謝したいと思いますよ。
 
今のデジタル時代の組合員から見れば“新聞黄金時代”、夢のような時代なのかもしれません。
 
あれから40年。デジタル化の急速な流れの中で、毎日新聞には取材網と人材を生かして頑張って欲しいですね。現在の毎日新聞労組のポジション、よくわかりませんが何とかこのデジタル化の波を乗り切れるように、経営側の尻を叩いていって欲しいですね。                                           (第22回 以上)