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ある新聞記者の歩み 第31回 深夜飛び込んできた美空ひばり死去の報 朝までひばりの歌を大合唱

元毎日新聞記者の佐々木宏人さんのオーラルヒストリー。今回は1991 (平成3)年4月から2年間の経済部長時代の後編です。前編の終わりの方に出てきた「交番会議」を軸に、そこで毎日毎夜繰り広げられる、個性あふれる記者という人間の織りなす場は、見たことも光景なのに懐かしい昭和の新聞社の匂いがしてきます。(聞き手=メディア研究者・校條諭)


◆突発事件で血湧き肉躍る


Q.交番会議は、座ったままのイメージですか?   
 
一応、編集局次長は座っているんだけど、あとはみんな立ってます。やっている時間が20分かせいぜい30分か、そんな長くないし。それと、やっぱり、新聞社の特性として、常に突発事件があるからです。だから、交番会議での紙面プランは基本的には何もないときはこうなるよ、ということで、今だったら“京アニ”や、相模原の障害者施設での大量殺人事件などといった突発事件が起きたときは、ガラッと変わります。
 
今は少ないですが旅客機墜落事故、大量死亡事故なんて時は、編集局社会部の皇居側のガラス窓のところに事件概要が貼り出されて、死亡者の名前を書き出したりして、みんな死亡者数、住所氏名を確認をしたりするということになります。今みたいに被害者名を出さないということはなかったんですよ。

大きな事件が起きると、本当に被害者には申し訳ないけど、みんなスタートは事件記者だったわけだからテンションが上がるんですよ、編集局中が。まあ、血湧き肉躍るみたいな感じで、ちゃんとした紙面を作るぞ、みたいな。
そうなると、大事件になると、経済部と政治部は静かになっちゃう。取材先も知っていて、朝行くと「今日はいくら書いても載らないんでしょ」なんて冷やかされたり(笑)・・・。もう硬派(政治部、経済部)記者は担当の記者クラブのソファーで「なに送ったって乗らないよな!」とふて寝、という感じ。
 
紙面は社会部の独壇場。社会部と地方部です。悲劇の中でトクダネをどう取材するか、ということになります。ですから被害者の家族・周辺取材が大切になるんです。「殺された娘は来月結婚予定だった」なんて、事件の悲惨さを強調する記事を書くわけです。今の時代は人権、個人情報への配慮などが徹底してきて、被害者の家族の意志を尊重する方向ですよね。
 
Q.地方部も、社会部と同じですか? 
 
だって、事件が起きるというのは、地方部の管轄の地域でというのが多いから。だから、大事件の第一報は事件の起きた支局には、社会部から応援が出ます。
 
Q.なるほど。交番会議は取材をする部門ということを言われましたけど、例えば学芸部とかはどうなんですか?
 
もちろん、学芸部も入ります。学芸部も入るし、科学部も入ります。そこを抜かしたら怒られちゃうよな(笑)。
 
Q.あんまり、日々大きな動きはないのかもしれないけど。
 
でも、例えば、科学部だったら、「今日は何時からノーベル賞の物理学賞の発表があります。日本人の○○教授が有力です」とか。それから、学芸部は、今だったら、藤井聡太の名人戦何局目、今回話題となった先天性ミオパチーの障害者・市川紗央さんの「ハッチバック」、芥川賞の受賞、直木賞の発表がありますから。
 
Q.ああそうか、そういうのがありますね。
 
もし藤井名人が勝てば、初の史上最年少の名人位!とかなるとこれは大変なわけです。例えば、経済部の経済成長率の発表よりも上だとか。担当記者にしてみれば紙面的には「藤井の野郎にやられたとか」(笑)
 

◆予定稿もぬかりなく

Q.なるほど、そういうのもそうですか。
 
そう、そう。学芸部は死人(しびと・死亡記事のこと)、小説家、評論家、落語家、歌手、昔の有名タレントなどの死亡記事。抜かれれば目立つよね。例えば、ノーベル文学賞の大江健三郎の病気をキャッチして、かなりヤバいようだから、死亡の時の予定稿を書いておくとかね。デスクの引き出しの中には予定稿が何本か用意してあると思います。これは各部とも同じで、石原慎太郎だったら、文学者として学芸部、政治家・都知事としては政治部が、死亡時にはこの人の談話を取るとかいう手はずを予定稿とともに書いていたでしょう。各部ともデスクの引き出しには何本か予定稿が入っていると思います。
 
Q.よその社ですけど、何年か前に間違った予定稿をネットで出した事件がありましたね。
 
そうそう、ありましたね。ネットの時代以前には考えられないミスだと思います。
 
Q.経済部長個人としては勤務時間、出社と退社はどんな感じになるんですか?
 
たいがい出社は10時位かな。
 
Q.退社はどんな感じになるんですか?
 
まあだいたい午前様。外部の人とある程度飲まなきゃいけないし、前回(30回目)、話した取材先からの接待もあるし、それからこっちからするお返しの接待もしなきゃいけないし、そういうのもけっこうあるしね。夜に宴会があったりすると必ず社に帰って、見るようにするんですがね、紙面を。だからあんまり酔っ払って上がるのは善し悪しあるんだけども、一応責任があるから紙面を見て帰ります。だけど今までの歴代の編集局の部長の中には、酔って会社にあがっての武勇伝もあるわけですよ。酔った勢いで「こんな原稿書きやがって、誰が書いたんだ!」ってどなったりなんかしてさ(笑)。
 
Q.ビリッと破るとかそんなのないですか?
 
それは知らないけど、あったかもしれないよ。しかし基本的には酔っ払っても、紙面を見て帰るというのが役割でした。帰るのは12時過ぎか1時過ぎには社を出るという感じかな。

(佐々木宏人さん夫妻の近影)

◆人事予想はタクシー運転手に聞け?!

Q.帰りはタクシーですか?
 
そう、タクシー。タクシー利用は基本的にはほとんど毎日だったね。要するに12時過ぎると、これもいろいろ経営改革があって変わるんだけど、12時過ぎるとタクシーで一人で帰れたんですよ。その後、経営状況もあり管理が厳しくなって、相乗り制になりました。12時半から1便、2便、3便、4便くらいまであって、30分おきくらい利用するようになる。1便で帰るわ―というと、各部の全く顔も知らない人もいるんだけども、その人たちと同乗して帰るわけ。だからぼくは杉並だから、新宿、中野、杉並、武蔵野方面の人といっしょに帰ります。4人か3人だったと思うけども、それで帰るわけですよ。
 
昔はタクシーでも帰るときは、会社の脇の近代美術館側に出ると、夜間は毎日新聞専属のような個人タクシーがいてね、それに乗った酔っ払った他部の記者連中が個人タクシーの運転手のおじさんに、色々人事予想をしたらしいんだな、どうも。その車で帰ると、そのドライバーが“耳学問”で聞いていて、「佐々木さん今度、経済部長になるらしいじゃないですか」「なんでそんなこと知ってんだよ」(笑)。「もう有名ですよ」って話になったり(笑)。「出版局長だれだろうね」とか聞くと、「だれそれさんみたいな話ですよ」とか、それがまた面白いんだ(笑)。
 

◆社の前の屋台で、あるいは、社内の冷蔵庫のビールで

それから取材先の連中が、夜中の12時か11時頃に上がってくるわけ、本社にね。取材先との飲み会、夜回りなんかして、ご苦労さんってことがあるから。竹橋のビル1階口の住友商事ビル(現NTT東日本ビル)との間に、毎日新聞専用?の、新聞を都内の販売店に運ぶ新聞輸送車の走る、割と広い区道があったんですよ。そこに屋台が出るんですよ。そこに連中と降りていって、「今日はご苦労さん」―と飲みながら、クラブの問題点はどういうところにあるんだとか、公定歩合の動向、銀行合併の方向などなど、話をしたりするんですよ。部長として情報の収集、外部の人と話すときのネタとしても必要だし、取材記者の分析の確かさを確認する意味でも、それはやっぱりやらざるを得ないよね。フトコロが豊かな時は、例えば午前0時からぼくの知っている店を特別に開けてもらって行ったりとかね。帰る方いっしょだったら新宿あたりだとかね、そういうところに行ったりしてよくやりましたね。だからほとんど毎日飲んでたね。

(毎日新聞東京本社が入っているパレスサイドビル、2023年2月校條諭撮影)
(毎日新聞社前の屋台とは関係ないイメージ写真です。)

Q.それが今日の佐々木さんの肝臓ガンの元になってるとか(笑)・・・
 
そうそう(笑)。健康診断のたびに肝臓悪化のシグナルの「ガンマ―GPT」が、40ぐらいじゃなければいけないんのが、100を軽く超えて行きましたね(笑)。それと、編集局の中でもね、版が降りると各部が集まって、ホッとするわけですよ。下の屋台に行って、いろんなものをちょっとつまみを買ってきて、ビールを冷蔵庫に入れてあるやつを出して、そこでいろいろと話をするわけ。
政治部は政治部でいろいろな意見があるわけよね。「経済部の原稿はここら辺のところは考えてもらえないか」とかね。「もうちょっとこういう企画もあってもいいんじゃないですか」とかね。そういうところに社会部だとか、学芸部だとか、政治部だとか入ってきてやることもあるしね。それはすごく、編集局内の潤滑油として必要だと思いますよね。デジタルシフトが著しい今はどうなんだろう。
 

◆美空ひばり死去のときは、朝まで局長席後ろのソファーで大合唱

ぼくが今でも覚えてるのは、部長になる2年前、美空ひばりが亡くなった時(1989(平成元)年6月)のことです。当番デスクだったと思いますが、朝刊の締め切りぎりぎりの午前零時過ぎに死亡ニュースが入ってきたのかな。編集局の学芸部のぼくの同期の音楽担当のK君が、美空ひばりのテープを持ってきてかけたのかな。
 
締め切り後、局長席の後ろのソファーに、経済部、政治部、社会部、学芸部などの当直デスクと、ヒゲのTBSのニュースキャスターとして有名だった政治部の岸井成格(しげただ)とかで、もう飲みながら編集局中聞こえるくらいの大声張り上げて歌った記憶があります。朝までね。誰か美空ひばり全集なんていう本まで調査部から持ってきてね(笑)、美空ひばり追悼だって⋯⋯。わんさかわんさか歌った覚えがありますよ。
 
Q.聴くだけじゃなくて歌った?
 
みんなで歌うわけ。「東京キッド」だとかさ、〽一人酒場で飲む酒は---「悲しい酒」だとか、〽かみの乱れに 手をやれば---「みだれ髪」、「愛燦燦(さんさん)」だったかな。わんわん歌ったことがありましたよ。
 
Q.なんか光景が目に浮かぶようですね。
 
でもそういうところが新聞社らしい、すごくぼくは好きでしたね。恐らく普通の会社では認められなかったんだろうけど、ちょうど、その半年前、昭和天皇が亡くなられて、ぼくたちと同じ昭和を生きた美空ひばりも亡くなったという“昭和の時代の終焉”を悼む気持ちになったんでしょうね。夜中に酒を飲んで、社内で大声で歌を歌ったりするなんて、なかなかほかの会社じゃできないだろうけど、いい思い出ですね。
 
東日本大震災が起きた時、不謹慎だけどまず最初に思ったのは「みだれ髪」に出てくる、何回か行ったことのある福島県いわき市の「塩屋の岬」にある灯台と、美空ひばりの記念碑あるんだけど、それが津波でどうなったかということだったな。無事だったようですが‐‐。
 
Q.なんだかグッとくるお話ですね。そのあたり、昨今は多少変わっているんでしょうか?
 
どうなのかよく知らないけども、酔っ払いでは有名な人物は多かったですよ。文字通り“酔虎伝”にはこと欠かかないな。経済部の六車(むぐるま)護君って、高松一高から早稲田の野球部出身、それもピッチャーやってました。伝説では、歌川令三経済部長が社内野球で経済部が不甲斐ない成績なので、そのために運動部からスカウトしたという。だけどこの六車君の投げたボールをだれも受けられない(笑)、アルバイトだった今の社長の松木君が、キャッチャーをやってようやく受けられたいう話が残っています(笑)。
 

(六車護著『名スカウトはんなぜ死んだか』2002年、講談社刊)

この六車君っていうのがすごい大酒のみだったんですよ。あと、同じ四国出身の首藤(すどう)君で、ユニークな記者で少年自衛官出身、大検を受けて早稲田に入った。その首藤君は、ぼくが大蔵省記者クラブにいた頃、一度も会ってもいない大蔵省の国債課の課長補佐と毎日、延々電話でやりとりしていたという話を確か以前しました。(第19回)。
 

◆朝まで飲んで、交番会議で起こされ・・・でもちゃんと原稿書けばOK

六車君、首藤君ともに、とにかく飲むと止まらなくなる男で、とにかく朝までやってるんだよ、局長の椅子の後ろのソファーで。それで朝になって、交番会議が開くころになると、そのソファーで寝てるわけです(笑)。それで経済部デスクのところに局長が来て、「何とかしろ」とか言って。「お前ら酒飲んでもいいけど、早く帰れ」って(笑)。そういうおもしろいやつがゴロゴロしていましたよ。だから、今そんなことできるのかやってるのかわからないけども、何ていうか、非常に楽しかったっていうのも語弊があるけども、愉快に仕事ができましたね。
 
編集局の中でも、整理本部なんて真面目な人が多いからね。「また首藤と六車がやってるんじゃ早々に帰ろう」とか言って(笑)。でもやっぱり、そういう連中がいるっていうこと自体がすごくなんていうかな、愉快にしたっていうかね。仕事を一生懸命やって、明日も大丈夫だよという感じで。編集局長なんて神聖なもんじゃなくて、「お前ら俺らのなれの果てだ」という感じで平然としているところがあると思いますよ。
 
でも六車君も首藤君も取材先には愛されたな。こういう人材は取材先の経済官庁、一流会社にはいないよね。経済記者はとかく理屈で勝負のような面がありますが、六車君はその人間性一本で相手のフトコロに飛び込んで行ける人です。野村證券の大田淵(おおたぶち、田淵節也野村證券社長、会長)、セコムの飯田亮会長なんかにも気に入られて、長く警備業界の業界紙の社長をやっていたけど、最近リタイヤ―したようです。彼の書いた『名スカウトはなぜ死んだ』(2002年、講談社刊)という本はイチローを発掘したスカウトの自死に至るまでの生涯を追いかけたノンフィクションで、ホント面白くて感心しました。ただの酔っ払いではないんだな。歌川さん、人を見る目があると思ったなあ。
 
残念ながらもう一人のコンビの首藤君は最近亡くなったのですが、兜町の風雲児と言われた石井久・立花証券の社長の一代記「石井独眼流実戦録」(1989年毎日新聞刊)を、出版しています。しっかり石井久社長に食い込んで面白い本になっています。

(首藤宣弘著『石井独眼流実戦録―かぶと町攻防四十年』1987年、毎日新聞社刊)


Q.文化的に見て、整理部は別として、社会部とか政治部とかも似たような雰囲気ですか?
 
まあそうだと思いますね。でも所属セクションが分かれているから、なかなか同期生でも時間が合わない。たとえば外信部なんかは、担当地域の時間によって動きますよね。夕刊のパリ、ロンドン、ベルリンなどヨーロッパの原稿と、アジアの原稿とアメリカの原稿と、時差あるから。そういう意味でやっぱり、難しいところがありますね。社会部でも事件を追いかけていると仲間との情報交換が忙しく、当時ボクと同期生の40年入社組が社会、政治、外信部の部長をやっていたと思いますが、中々酒を飲むこともなかったなあ。
 
Q.さっきの名物男の首藤さんと六車さんは、ずっと本社勤務だったってことですか?
 
いやいや。確か六車君は福島支局で、そのあと運動部に行き、経済部に来て兜町記者クラブでした。だから夜回り後、本社に12時過ぎに上がって来て、原稿書いて出して、飲みだすわけですよ。だけど経済部の連中で、酒では最後まで彼に相手ができない。そこに西部本社経済部から首藤君が転勤で来たんだな、東京・経済部に。六車君は同じ四国出身の首藤君が来てうれしくてしょうがない。「何やお前、しょうもない原稿書いて。酒飲め!」とか言ってさ(笑)。でもやっぱりそういうのがいちばん面白かったな。
 
Q.それで交番のときに寝てたら、クラブに顔出すのはもう昼過ぎとかですね?
 
そりゃあそうです。でも基本的にはちゃんと原稿書けば文句言われないから。 

◆不正融資の銀行広報部長が編集局に乗り込んできた

Q、佐々木さんが経済部長のときはバブル崩壊の最中だから、いろいろ事件があって大変だったんではないですか?
 
やっぱり各銀行、証券だとかなんか、ピリピリしてましたよ。それで、うちが確か日本債券信用銀行(日債銀)の不正融資のことだったと思うけど、スッパぬいたんですよ。大蔵省担当の社会部から財研担当に配置されていた敏腕のH記者が特ダネで書いて、続報を書こうとしていました。当時の日債銀の広報部長、Tさん、前からよく知っていて、戦前金融史にも詳しい人で面白い人でした。
ところがH君の続報の出稿を察知して、編集局内の経済部まで押しかけて来ましたよ。通常、企業のクレームなんかについては、編集局手前の小部屋で話したり、一階の喫茶店に行ったりするんですが、直接来たんですよ。「とにかくそれ書かれたら当行は潰れる」と哀願するんだな。こっちだって、「潰れたって知ったことじゃねえや」とは言えないですよね。
 
ちゃんと事実かどうか、担当記者に確認をすると、土地登記証書まで全部とって証拠はあがっている。さすが前社会部、こう取材して、こういうふうにして、登記簿ではこうなってます―からって、全部証拠持ってるわけです。広報部長は、頭取の事実上の“政務担当秘書”だったんです。まあ、とにかく、なんとか穏便にしてくれという要請でした。
 
Q.それで、そこにはH記者もいて、佐々木さんが立ち会っておられたんですか?
 
いや、記者とその広報部長を直接合わせるわけにはいかないですよ。ぼくが担当記者から直に聞いて事実確認をします。銀行の人と会ったのはぼくです。
 
Q.経済部長としての佐々木さんに会いに来たのですね?
 
そうそう。まあ、とにかくあなたの言うことはわかった、現場に聞いてみる、とはいったもののこれだけ証拠がそろっているんじゃどうしようもない。記者に書くなとは言えないですからね。相手の広報部長とは昔からの付き合いで良く、あの時ほど間に挟まって、困ったことはなかったなあ。「書け!」とか「やめろ!」とか言えればいいんだろうけど、むにゃむにゃって決断できないんですよね。でも担当記者のH記者は「部長書きますからね!」当方には断りを入れ、ちゃんと書いたように思います。「オレって、決断力がない、人間が小さいなあ」と思ったなあ(笑)。

でも日債銀はその後破綻、一時国有化され、日銀から来た社長が自殺したり、その後「あおぞら銀行」になったけど、ヤフーや外資系投資会社との提携が取りざたされたり、経営は安定している感じはしないですね。H記者の取材は正しかったんだと思います。
 
あとはやっぱり個人的には、いちばん神経を使って大変だったのは差別問題でした。 

◆差別問題に直面

Q.エッ!そうなんですか。差別といっても男女差別、身障者差別をはじめさまざまありますが、いずれにしても経済部の取り上げる記事ではあまり関係ないように思っていましたが?
 
ぼくもそう思っていました。高度成長時代が落ち着いて余裕が出来たこともあるんでしょうね。だいぶ前から、「部落解放同盟」などから、被差別地域出身ゆえの就職差別、結婚差別といった差別問題が表面化して、これに対する解放同盟のジャーナリズム、大会社への糾弾運動が盛んに行われていました。
また韓国・朝鮮人に対する差別問題が頻繁に起きていました。
 
とくにマスコミについては、無意識的に取材先の差別感情をそのまま原稿にしてしまうようなことがあって、部落解放同盟ではそれに強く抗議する“糾弾会”を開き、当事者を呼び出して吊し上げ状態で謝罪を求めるという運動がひろがっていましたので、マスコミ関係者の間では“差別用語”に注意をするようになっていました。結果としては、これがその後、今に至る人権重視の観点で、ジェンダー、LGBTQへの差別、ヘイトスピーチの禁止などにつながっていくわけで、よいことだったと思います。
 
Q.具体的にどんな事案が起きたんですか。
 
ひとつは確か、「マネー&ライフ」という面で、“生活環境の向上”という特集で、公営住宅の利用の仕方を書いた原稿だったと思います。建設省が、その頃はまだ国土交通省になってなかったと思うけど、住宅公団の公営住宅で入居条件はこうだっていう記述を見て、記事の中で「日本国籍に限る」とか書いたわけです。多分公団の資料には、「外国人でも永住許可、特別永住許可を得た人は入居制限はない」―と書いてあったんじゃないかな。恐らく記者はその部分をカットして紙面化したんじゃないかな。1980年代には建設省住宅局は国籍条項を募集要項から外していますから。
 
少し経ってから「この記事は、完全に我々在日朝鮮・韓国人を排除している。問題だ」と電話がかかってきました。確か川崎のプロテスタントの韓国キリスト教会の在日朝鮮・韓国人の人権問題を担当している牧師さんから抗議が来て、最終的には謝りに行ったことがありました。
 
Q.公営住宅の募集要項の中に国籍条項が入ってたってことですよね。
 
この国籍条項は在日朝鮮人、韓国人にとっては社会福祉の適用と共に、大きな運動案件で1980年頃には、この条件が外されたようです。キチンと確認をしないで書く毎日新聞の姿勢が問題であると。毎日新聞はそういうことに対して関心がないから、こういう結果出る。少数者の権利を認めていないからこういうことになる。正しく書くべきだと。そういうことです。
 
Q.新しい公営住宅の団地ができるということで、それを紹介する記事ということですよね。その記事は何が問題だったのですか?
 
毎日新聞の記事には、恐らく「国籍条項」の中の詳しい点に触れなかったという事なんじゃないかな。韓国、朝鮮人への配慮がない、外国人の人権への配慮がないという事でしょうね。言われて見れば確かにそうなんで、その牧師さんとは、1週間位、毎日話し合いましたがね。担当記者には、ヒヤリングをした気がします。でも話し合いの席には同席させなかったと思います。彼が萎縮しても困るから。建設省、住宅公団にも連絡しなかったなあ。言い分がずれたりすると、問題が複雑になりますよね。
 
昔僕が駆け出し記者のころ、カラーテレビの二重価格問題で松下電器(現パナソニック)の販売店会議に忍びこんで、「消費者運動には負けない!」という社長、専務の発言を、一面トップで書いたんです(第4回参照)。松下は毎日新聞への広告を一年間ストップしたことがあるんです。部長、デスクは現場の我々にひとことも言わなかったことがあります。現場の記者を萎縮させてはならないという思いがあったんでしょうね。その記憶があったので、現場の記者達には、経済部会では注意喚起をしたでしょうが、交渉の窓口には立たせなかったですね。
 
Q.「国籍条項」問題の最終決着はどうなったんですか。
 
たしか牧師さんの教会に「謝罪」に行きました。こういう時は部長1人で対応しなくていけないんです。部全体の士気にも関わるし、会議にかけるといろいろ議論百出になることは目に見えていますから。またその議論内容が外部に露出したりすると、問題を複雑化するだけですから。でも僕自身は在日韓国人・朝鮮人問題を、日本社会全体が考えなくてはいけないという勉強にはなりましたね。
 
それからね、もう一つ。部落解放同盟、通称“解同(かいどう)”とのやり取り。きっかけは経済面の下にのる10行程度の記事で「ビジネス情報」というやつです。いわゆるベタ記事。家電メーカーの日立製作所がね、新しい洗濯機を出したんです。その名前を当初、“白拍子”ってつけようとしたって言うんですね。ところが、「“白拍子”って名前、平安時代の遊女だろう、そんな名前は付けられない」ということで、日立の担当役員がクレームをつけ、何か違う名前をつけたらしいんです。そのいきさつを紹介したほんの10数行の記事、それが今度は問題にされたわけです。その時は、六本木の解同の本部まで行って、3時間か4時間ぐらい「職業差別だ!」と追及されましたよ。
 
Q.役員は何がいけないと言ったのですか?
 
「白拍子って当時、遊女=売春婦みたいなもんだぞ」ということで、まあ、いくら何でも遊女=売春婦のネーミングを主力製品に付けるわけ行かないという事でしょうね。それがボツになって、新しいネーミングになったということを記事に書いたというわけなんです。
 
歴史的には日本史の中で、「白拍子」は差別問題の原点のような存在で、こっちは全然知らない。だけど解同としては「差別問題についての認識が足りない。毎日新聞経済部長として身分差別、職業差別意識を無くさせる立場にありながら、人権をなんて考えているんだ」ということになるわけです。それをやられたわけです。本当は日立の担当役員が答えるべき問題だと思うんだけど、その発言を無造作に面白がって掲載するのは、差別意識をまき散らすことになる―というわけです。
 
あの時、六本木の解放同盟の本部まで出かけて、会議室に入ると解同の幹部がずらりと並んでいて、当方はぼくひとりだった思います。今の解同の委員長の組坂(繁之)さんが、書記長で追及役のトップだったかな。とにかくこちらも持てる知識を全部出して、フランス革命の人権宣言、アメリカ憲法などを持ち出して、「毎日新聞は人権の重視を社是としている。毎日憲章を読んでくれ」と言いたいことを言いましたよ。必死だったな。相手もさるもので、「毎日新聞にそういう姿勢があるなら、こういう白拍子問題は起きない。被差別部落がどういう現状にあるのか。高知県にモデルみたいなところがあるから、そこに社長が行って実情を見て欲しい。それを社内に伝えて、部落問題の深刻さを社員全員に理解させて欲しい」というわけです。
 
「すぐに帰って検討します」と答えると、「検討じゃダメだ、ここですぐ返事しろ」と。そんなこと言ったって、社長に行ってもらうなんて、その場で言えっこないじゃないですか。いろいろやり取りして、それで解放されましたが、そういう体験をして、人権・差別問題の重要さを学んだことは確かです。それを紙面に生かしていくという必要性は感じましたね。
 
Q.なるほど。相手の態度はどんな雰囲気だったのですか?紳士的に穏やかに話すという感じなのか、攻めるような感じなのか?
 
まあ、ある程度、攻撃もあったけど、まあ基本的には、そんなに攻撃的ではなかったです。あとで、社会部の解同担当記者が解同幹部から「お前のところの経済部長って、ああいえばこういうでなかなかなもんだなって褒められた」と言ってました。 

◆組織運営に神経を使った2年間

Q.経済部長時代、スクープを放ったり、逆に大きな特ダネを抜かれたりなんてことはあったのでしょうか?
 
そんなこと言うと当時の連中が怒るかもしれないけど、大スクープをかっ飛ばしたということは特になかったような気がするなあ。一方、経済部というのは、少ない人数で大変だったですが、他社に大きな特ダネを抜かれたっていうこともなかったように思います。
 
まあ経済部長は経済部長で、編集局のひとつの要なので、それはそれでぼくはかなり注意はしましたよね。特にお金の問題なんかは、きちんとしなくてはいけないから。
 
それと人事異動だとかは、ちょっと神経を使いますよね。特にその当時から、ぼくもそうだけども、支局長、大阪本社経済部との交換人事とかなんかっていうのがあったからね。OBとの付き合いもありますよね。OB会というのは年に1回ぐらいあるんですよ。エコノミスト・経済部合同でOB会をやるわけ。なんだかんだでやっぱり5-60人、7-80人来てたましたね。
 
でもこの2年間、何とか経済部長をつとめられたのは部員の協力のたまもの、バルブ崩壊の中で銀行、証券の不祥事、土地価格の暴落など難しい問題の取材に走り回ってくれた当時の仲間に頭を下げるしかないな。特に新旧分離後の厳しい経営状況の中で、他社に比べて何割か安い給料と、少ない要員で夜討ち朝駆け、特ダネ取り、本当に良くやってくれたと思います。

Q.1993(平成5)年4月、経済部長から広告局の企画開発本部長になられるわけですが、それ以降、編集畑には戻らないことになりますね。1965(昭和40)年、新聞記者として入社され、30年近い新聞記者時代に別れを告げることになります。それなりの感慨はありましたか? 

(毎日新聞東京本社が入っているパレスサイドビル、2023年2月校條諭撮影)
 

そう言われればそうですねえ。当時はそんなことを考えもしなかった・・・。やはり会社自体が新旧分離をして事実上の倒産に陥り、先輩の佐治さん、歌川さんたちは会社立て直しに記者の道から経営幹部の道に行ったわけです。それを考えれば論説委員なんかを志望すればなれたと思うけど、部数を上げて経営を何とかして立て直して、給料や要員を他社に負けないようにするのがぼくの使命だと受けとめたのだと思います。それがいかに茨の道かすぐ分かるのだけど------。
振り返ってみると、こんなダメ記者を経済部長という経済記者の到達点まで行かせてもらったんだから、色々あったけど毎日新聞には感謝しかないな。(第31回完)