風景:いる/みる/みえる を、見た 1
名古屋の商店街とその付近を使って展示されているインスタレーションだった。
現代アートには、というかどんな種類のアートにも疎いけれど、さいたま国際芸術祭2023は面白かったので、これはどんなのかなと思って。
さいたま国際芸術祭は、意図がわかる展示のほうが少なかったし、その解説もどこにもなかった。規模が大きいしね。とにかく「体験していってください」の自信のある展示だった。
今回はさいたまに比べると小規模で、なんなら制作者に話を聞くことすらできた。興味深かったので、作品としていただいた解説と、感じたことなど。
ポッドキャスト「これは風景ではない」
会場に向かう車の中で聞いた。おそらくは制作者陣によるラジオ。あまり耳が良くないので聞き取れないところもあったが、「雑談」というていで、おそらくはパンフの文面を見ながら解説や考察を行う内容だった。
今回がそもそも何の展示なのか、「風景」に対して主催者側は何を思っているのかがうっすら分かる、展示の下地のような位置づけの作品だった。
風景を鏡にして自分を見る⇔自分を鏡にして風景を見る のところが興味深かったな。思考実験って仮説と逆説を並べて比較しながら考えるもののような気がしてるけど、芸術や現代アートでもそういう考え方をするのだなあ、と印象的だった。
図録「風景:いる/みる/みえる」
ビビットピンク色の内ポケット紙バインダーがプチプチクッションに入って黒いバンドで留まったもの。
内容は、過去の展示やインタビューなど。
そもそも、この風景:いる/みる/みえるは3回に分けて行われた展示で、今回はその3期目だった。で、このバインダーの中には1期と2期の記録が入っている。
3期の記録も後日図録購入者の家に配送される仕組みらしい。すごいな。手作業の鬼だ。
この図録が何を表しているのかというと、実は上記ポッドキャスト中でも話題に上がっていたが「作品の一つ」らしい。
鑑賞者の手で、送られてきた資料をこのバインダーに閉じるとき、その瞬間に立ち現れる風景があるはず。それが作品なのだとか。
正直、ファイリング作業にそういった大仰なものは感じないが、「立ち現れる風景」という表現は気に入った。
あと、この図録を肩から提げる紐も貸してもらえたんだった。これ提げてると参加者だと分かってもらえてスムーズに解説とかしてもらえてよかった。
「commone’sビル」
ビルの3Fでの展示だったんですが、ビルの入り口の札がcloseで入りにくかったな。
ここは、写真から「背景」や「風景」を切り抜いて、その切り抜いた風景にのりしろをつけて机に立たせている展示。
背景、あれだ、パワポとかで画像からメインだけ抜き出したいときに削除する、消しちゃった部分。だなって思った。現代アート、見た目「なんぞ?」と思うんですが、例にもれずこの作品もそう。だって、述べたように「普通なら消す部分」が机に立っているのだ。「何?」なのだ。
解説してもらったんですが、これら「背景」は、日常生活の中で作者さんが「おっ」と思ったシーンなんだって。
雑にガムテープで補修された花壇の写真、これが半年間もガムテープが持ったらしくて、それが作者さんの琴線に触れた。写真に撮った。それをわざわざ切り抜いて、展示している。ものなんだそうだ。「何?」の物体にエピソードを付与されると、謎の切り抜きに奥行きが見えてくる。これを「風景」としているのだそうだ。
ほーん、と思った。たまに見返すスマホのフォトライブラリとかついったの画像欄も、この定義で言うとすべて「風景」である。
「沖正商店」
河(運河)にある材木屋においてある展示。ものとしては、このあたり?の地面(歩道とかマンホールとか)に粘土を押し付けて転写し、それをまるめて円筒状にし、焼成した作品。やきもの。
解説がなかったけど、これはなんとなくあれだ、「人々が歩いて、生活している・してきた地面」を写してまるめて「縦にする・立体にしている」ことで「立ち現れる景色」を見せてるのじゃないかな。
地面とか、平坦を、人の目の高さに持ち上げると風景になる、ということかな…って。なんとなく説明なくても伝わるコンセプトだった。合ってるかは知りませんけど。
「伊藤家住宅」
有形文化財のおうちのなかを見せてもらえる。とても・かに・くわれる。
展示は、この平屋の古い屋敷の中のあちらこちらにノートに書いた手記があり、それとともに風景や花や生活の一部のような写真が、ポストカード大だったりA1程度の大きさだったりで様々に飾ってある。
写真と家屋に一切つながりはなく、家屋で獲ったはずもない深い山の雄大な景色のパネルなどが客間?においてある。
解説を求めたら「動作」で繋がる風景。だそうだ。
つまり、客間で手記をかきながら、ふと目の前の壁を眺める。この「ふと眺める」という行為によって、遠い山中のはるかを眺める行為と繋がっている・つまりこの風景は繋がっている。という考え方であるらしい。
「そんなんいいんすか?!」て思った。凄い飛躍と発想力だ。思考実験の中でならそういう考えもわかるけど、それを実際にこの広い絵を使ってインスタレーションするとはね。とはいえ解説なしだったらお宅と手記と写真ふーん…で終わっていただろう。
現代アート、閲覧者側からの「理解」の働きかけによって意味と中身と捕らえかたが全然変わってくるな。そりゃ主体は作品で客体は閲覧者なんだろうが、閲覧者の側にも「これが何なのかを求める」力が必要になるというか。
今日はここまで。
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