見出し画像

読書:『あまからカルテット』柚木麻子

この本を読んでいるところを人に見られると、きまって「『あまから手帖』と関係あるん?」と聞かれる。そうここは関西。

という無駄話は置いといて。


アラサー女友達4人が、恋に仕事に悩みながらも支え合う短編集。
それぞれの恋の行方やピンチを助けるのは、花火大会で隣の席からお裾分けされた稲荷寿司だったり、メモ書きもなくドアにかけられた誰かの手作りのラー油だったり。

料理の味を頼りに人探しをする本作は、コメディというかミステリーというか、ちょっと浮世離れした感が否めない。
にもかかわらず、読み終えるころにはすっかり主人公たる4人の女性達を、ほんの眼前に感じられるほどに入り込んでいる。

彼女たちは恋や仕事で幾たびも困難にぶつかり、落ち込む。
落ち込むのは、一生懸命だから。
姿かたちのない空想上の彼女たちを、いつしか拳を軽く握りこんで応援している自分に気づく。


本作に出てくる人たちは、決して食べることをやめない。

4人のうちの一人、由香子は趣味である料理のレシピをブログにアップしていた。
人気が出るにつれ心無いコメントも増え、いつしか由香子はそれに傷つき心を病んでしまう。
大好きだった料理が作れなくなり、誰にも会わず風呂にも入らず、1週間も部屋に閉じこもってしまった由香子。

薄闇の中、ノートパソコンのぼんやりした光だけが、わずかにリビングを明るくしている。由香子は三切れ目のドミノピザに手を伸ばし、ろくに味わいもせず一.五リットル入りペットボトルの炭酸飲料で流し込む。テーブルにはピザの空箱が重なり、口の開いた袋菓子がいくつも散らばっていた。

柚木麻子『あまからカルテット』

別の場面では、ピアノ講師の咲子の女子生徒(亜里沙)が、レッスン中おやつに出した甘食を嫌がる。

「なにこれ、マドレーヌじゃん。私、これ嫌い」
(中略)
「マドレーヌってもともとパサパサしてない?亜里沙は好きじゃない」
 亜里沙はさっさと甘食をつかむと、勢いよくかぶりついた。

柚木麻子『あまからカルテット』

「食べ物が喉を通らないほど」落ち込んでいても、目の前に出されたものが嫌いな食べ物であっても、彼女たちはそれを無下に扱うことはない。きちんと食べるのである。

人は食べなきゃ生きていけないんだから、当たり前じゃん。
そんなツッコミも聞こえてきそうではあるけれど。

しかし、作中で「ちゃんと食べる」ことには、きちんとした作者の思いがあるに決まっている。

どんな料理も、それがたとえファストフードであっても、作った人がいる。食べ物をいただくというきわめて日常的な行為であっても、その当たり前に感謝する心を作者は込めたのではないだろうか。


最終章「おせちでカルテット」には、食べ物をいただくことの有難みが随所に散りばめられているように思える。

多忙を極める編集者、薫子は、家事ができないことに小言を言う義母を見返そうと、正月におせちを振る舞うことを約束してしまう。
1人ではとうてい完成させられないため、仲良し4人組で協力し、それぞれが作ったおせちを持ち寄ってひとつのお重を作る作戦を立てる。
しかし、決行の日である大晦日は大雪。薫子以外の3人は雪で足止めを食らい、さらには仕事のトラブルが重なっておせちを届けられなくなってしまう。

交通機関も止まる極限状態の中、3人はそれぞれの場所で、薫子ではない誰かのために、その料理を差し出すことになる。ある者はかつての恋人に、ある者は職場の後輩たちに、そしてまたある者はテレビ番組で使う消え物として・・・。

それを薫子に対する裏切りと捉えるのはナンセンスである。
背に腹は代えられない極限状態の中、食べ物はそれを必要としている人たちの腹の中に納まった。
三者三様のそれは、幸せの中での食事ではないかもしれない。それでも、誰かが(この場合は紛れもなく自分が)作った料理がきちんと誰かの空腹を満たしたこと。そしてご飯を食べることができる自分がここに存在すること。
それに気付けるということが、本作におけるハッピーエンドではなかろうか、なんてことを思った。


さて、ここにきて自らの食生活を振り返ってみれば、どうにも粗末である。

朝は食べない。昼はコンビニの弁当か食堂のカレー。夜はカップ麺、時々牛丼屋。
先にずいぶん殊勝なことを書いた手前、この食生活にももちろん感謝はしている。なにせ料理にかける手間と時間はまごうことなきゼロであるから。
とはいえ、こうして食べることをきちんと楽しむ仲良し4人組を見ると、自分のためにちゃんと料理を作ってあげるのも、悪くないかななんて思ったり。

はい、料理します、はい。


この記事が参加している募集

#読書感想文

191,569件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?