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積み重ねない日々の記録

ある日思い立って、「このフレーズいいなぁ」「こういうことを書いたら共感を得られそう」なんてふんふんと思いながら、noteの下書きに書き付けた文章。

それを翌日だとか思い出したころだとかに見返してみると、ちっとも意味が分からなかったりする。

Nikon FE2 + Fujicolor PRO400H

考え事とかちっぽけな決意とかって、わたあめの切れ端がふわふわと風に吹かれて漂っているみたいなものなのかもしれない。

形は絶え間なく変わり続けているし、光の当たり方でも、見る角度によっても、まるで別物のよう。

あの夜店のハロゲンに照らされてキラキラと輝く粒を放つ純白の砂糖菓子が、ひとたび日陰に入れてしまえばくすんだ灰色になってしまうように。

人の立ち位置が社会的な役割によってころころと変わるように(会社では部長、家では父親、ホテルでは愛人の「私」)、自分の考えているよく分からない教訓みたいなものだって、絶えず満員電車のドア付近のように、ごそごそと周りからの力によって押しつぶされたり跳ね返したりしているのかもしれない。

日記のおもしろいところはまさにそういうところで、明日にはなくなってしまう心の中の風景、勝手に導き出した結論、取るに足らない妄想を、その時点のものとして固定しておけるところなのだと思う。
だから、文体だって左右の偏りだって物欲に任せた妄想間取りだって、後先考えずに吐き出してしまって構わない。
書いた文章に日付がくっついている理由は、「あのころの若気の至りでねぇ」とあとから言い訳するための大きな武器、だ。

Nikon FE2 + Fujicolor PRO400H

日記は、日々を「積み重ねる」ものではない。その分量や継続期間そのものを誇るものではない。
ただ、ずっと先、遠い未来にあのころを振り返ろうと思うとき、日記が多いことは「あのころ」という着地点の解像度を上げてくれるものなのだと思う。令和ゼロ年代に着地するのか、2022年に着地するのか、それとも7月の雨上がりの午後のおやつタイムか。

Nikon FG-20 + Fujicolor 100

写真もそうなのかもしれない。
身近な風景だって、10年後に写して全く同じ景色、とは絶対にならない。
空は少しくすむかもしれないし、道路のペイントはハゲて、ガードレールのリベットのあたりには錆が浮き始めている。
でも、そのときの最新情報が、写真には込められている。毎日のように同じ場所で同じ写真を撮ったって、それは堂々巡りなんかではなくて、微細な変化すら見逃すまいとする情報更新への飽くなき欲求と言い換えることもできるのだ。

Minolta Hi-matic E + Fujicolor 業務用100

2023.6.17

ヘッダー写真::Nikon New FM2 + Kodak Ultramax 400

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