ボーダーフリー(BF)大進学について議論がかみ合わないのはなぜか?【「おかしい」と感じる部分が異なってしまう背景】
塾業界にいることもあり、私に集まる情報は、自然と大学進学に関することになりがちです。そんな中、一定数含まる情報として、
「ボーダーフリー大に進学すべきではない」
とか
「ボーダーフリー大は廃校にすべきだ」
という説を唱える人たちの声が届きます。
概ね、高学歴の人たちが唱えることもあり、その声に対して、
「高学歴者のエゴだ」
という批判も目にします。
ただ、個人的には、議論が嚙み合っていないなとも感じています。
その一つが、↓のような考え方でしょう。
「大学で、中学から高校初等レベルのことをするのは、おかしい」という主張です。
大学というのもは、本来は論文を読んだり、研究のスタートアップを学んだりと「大学での学び」という前提が存在しており、それを学力的にできないので、大学の名前冠して、中学レベル、高校レベルの教育を行うのは、「おかしい」という主張です。
もちろん、正しい点を多く含む考え方だと思います。
大学生といえども、大学での本来を学びができない人が存在し、その現実に対しての受け止め方の問題なのでしょう。その解釈によって、アウトプットが変わるということかなと理解しています。
その結果、
ボーダーフリー(BF)大での教育はおかしいので、進学すべきではないし、そもそもBF大が存在すること自体がおかしい
という流れにつながっていくのでしょう。
ただ、私がその説に違和感があるのが、このような説には、次のような主張が付帯されがちだからです。上記の小林さんもおっしゃっていますが、
「(中学レベルの内容なら)自分で勉強して」というものです。
これは、中学生を指導していたころや、家庭教師時代の経験を考えると、「現実的ではない」と感じます。
そもそも、高学歴者が「あたりまえ」にできることを誰しも「あたりまえ」にできるわけではないからです。
成績が低迷している生徒さんは、ほとんど自学ができません。言い換えると、自学ができれば、成績はそこまで低迷しません。むしろ悪い点を取ることの方が「難しい」のです。
問題は、継続性が伴った学び方であり、そこが問題だとすれば、年齢が上がった段階で、たとえそれが「大学」という学びの場であっても、中学の英文法を通して学び方の習得をやってもいいのではないかなと思います。
ましてや、それを高学歴者が、「おかしい」というのは、議論を噛み合わないものにするものになるのかなと思います。
つまり、「おかしい」現実をもって、BF大での学びそのものを否定するのは、根拠として十分なのかということです。
学力的にBF大で学ぶことになった学生さんも、その大学での学びによって、勉強の仕方や知識を得ることによって得られるものは大きいのではと私は思います。
それが、いい就職といった「現世利益」になるのかはわかりませんが、進学する、進学しないの選択であれば、前者の方が人生を豊かにすることは間違いないのではと思います。
勉強ができかなった若者は、今の社会では自己肯定感が低くなりがちです。学歴が云々というだけでも十分不利益を被っているのに、そもそも勉強が苦手な若者に対して、勉強強者が「(授業内容が中学レベルならば)BF大学に行くべきではない。自分でやっとけ」という論を張るのは、どうなのかなと感じます。
それは、悪意はないのでしょうが、他者の行動を制限させる思考となっているのではと感じます。
理由をつけて、「学びを制限する」ことに肯定的な論は、大げさにいえば、人権問題にも抵触するデリケートな意見ではないかなと思います。
昨今は、過激な意見でないと「個性的な意見」として扱われない傾向がありがちですが、他者の行動に制限をかけるような説は、もう少し議論を熟成させてほしいかなと思います。
私は、どんな学びでも肯定されるべきであると思うので、BF大で学びたいということは、どんな理由であれ、それを否定されるべきではないのではと思っています。
むしろ、BF大に進学する人がいなくなり、バタバタとBF大が閉校に追い込まれると、学びの裾野が小さくなってしまいます。そのことの社会に与えるダメージは大変大きいのではと思います。
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