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当たり前のものを考える

日本以外の国で生活し続ける理由は様々であり、仕事、教育、家族の都合などなど、理由を挙げたら幾つでも出てくるだろう。ふと、自分がなぜ日本に定住しないのか理由を考えることがある。幼少期を過ごした、大好きな場所をなぜ自らの意思で出ていったのか。いつかは帰りたいと思っているのだが、今ではないと直感が働く。今帰ったら、自分の成長が止まってしまう気がする。

同じような感覚は、故郷でない場所で今を生きている人が多く持つ考えなのでは?と思う。海外で過ごしている人だけが持つ感覚ではなく、故郷ではない、幼少期には生活したことがなかった場所で生活する人に多く共通した感覚なのかなと。あと、山登りでも同じような感覚を持つことがある。

筆者の場合、全く知らなかった文化に出会うことが成長の一環であり、人生の楽しみでもある。自分が知らなかった景色を見ることで自分自身を知ることができる。当たり前が、当たり前でなくなった時、ハンマーで殴られるような衝撃を受けることもあるが、その衝撃を乗り越えると自分が成長したような感覚を得ることができる。何が自分にとって大切なことか、日々考えることができる。

と、真面目な話を書いてきたが、この感覚を思い出したきっかけは、「ウォッシュレットがないトイレ」「冷たい便座」「トイレ付きの風呂」についてアメリカ帰りの日本人と話していた時である。この、当たり前にあった水回りの環境が、他の国では高級品になっていたりすると、こんな贅沢なものだったのね!と衝撃を受ける。もちろん、逆も多くある。日本ではなかなか手に入らない高級品が、国や地域が違えば当たり前の物で、日常生活に存在していたりする。

些細なことなのだけれども、当たり前が当たり前でなくなった時、自分の立ち位置を俯瞰してみることができる。なかなか意識的にできることではないから、いつも刺激となるような環境に身を置いて、この感覚を忘れないようにしている。この行動を良い、悪いの価値判断で決めることはできないのだが、自分の周りに存在するものを最近「当たり前」と思い過ぎてるよな。と感じた時、もしかしたら違う文化や、知らなかった土地、今まで付き合ってこなかった人と会うことで、自分の価値観を客観視するきっかけになるかもしれない。



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